2−3 氷の王子とは
バロンとシスから色んなことを調べられて疲れたエラルドは二人が退室したあと、ベッドの上で丸まって目を瞑った。
去り際にバロンが『あとで食事を持ってくる』と言っていたので、それまで一眠りしようか。そう思って目を瞑ってみたけれど、しんっと静まり返った部屋の静寂が逆に居心地悪く、エラルドの頭の中には『このバグはどうしようもない』という事実だけが渦巻いていた。
「前世の俺とは違ってこの国で生きている"人間"だから、バグを直すなんて無理がある……」
前世の記憶がある転生者だと思い出したとしても、今の自分ができることは多くない。とりあえず今はバロンとシスからもっと詳しくバグを解明してもらい、ここから早く出られるようにならないと。
「今って、いつぐらいの時期なんだろ……主人公がこの世界に来るイベントっていつ……?」
『オメガの祈り』である主人公はグラン=フェルシアの危機に現れる、異世界から召喚された聖者だ。グラン=フェルシアの危機というのは、エラルドがバロンたちと出会った『闇の森』に関連している。
闇の森はその名の通り、国全体に闇をもたらす『瘴気』が溢れる元凶の森だ。闇の森から溢れ出す瘴気は草木や土地を枯らすだけではなく、人間にも害が及ぶ。瘴気が空気に混ざり国全体に疫病として広がってしまい、多くの死者を出すと言われている。
その瘴気を浄化させる力を持っているのが、異世界から召喚する『聖者』なのだ。
「エラルド、私だ」
「バロン殿下!わざわざすみません……」
「私がすべきことだと思っているから、気にしなくてもいい」
普通の夕食より、少し遅い時間。バロンが二人分の食事を持って部屋にやって来て、一緒に食べるつもりなのが分かった途端エラルドの心臓が大きく跳ねた。
「夕食を一緒にしても?」
「それはもちろん、俺はいいのですが……バロン殿下がこういう場所で食事をすることを、えっと、他の方々はよく思われないのではないですか?俺にわざわざ食事を持って来てくださることも、不審に思われませんか……?」
エラルドが眉を下げながら尋ねると、バロンは難しそうな顔をして微笑んだ。エラルドの肩に手を置いて「大丈夫だ」と言ってくれる彼の声がストンっと体の中に落ちてきたようで、なんだかホッとした。
森の中で会った時は冷たい声だという第一印象だったのだが、それだけではない安心感と暖かさをエラルドは感じていた。不思議と、世間が噂をするような冷たさをあまり感じないのだ。
初めて会った人だし出会ってまだ2日と経っていないのに、居心地が悪いというより、どちらかといえば心地よささえ感じる。この人の側にいれば安心だと、自分の本能が言っているような気がした。
「私がどこで何をしていようと、王宮内の人間は誰も気にしない。それに私はあまりマナーがよくないから、家族と食事をするのが好きじゃないんだ」
「そうなんですか?意外です……」
「ふ、よく言われる」
この部屋にソファは大きいものが一つ。窓際に椅子があるけれどソファに高さを合わせたものなので、その椅子に座って食事をするのは少し難しい。なので必然的にソファに横並びになってバロンと食事をすることになった。
「(マナーがよくないって、どの口がぁぁぁ…!!)」
本当に食べているのかと疑うほど一切音を立てない食事の仕方、口にものを入れたまま会話をしないし、人と話す時は顔を見て話す。牛肉にかかっているコテコテのソースで口元も汚れていないのに何かで拭いている様子もないのは、きっとスマートすぎてエラルドが気づいていないだけなのだろう。
「そういえば、あの…俺のフェロモン、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫とは?」
「殿下もまた抑制剤を服用して来てくださったんですよね……?服用しすぎて副作用とか、そういう危険はありませんか?」
「自分の心配より、他人の心配か」
「もちろん自分の異常なフェロモンのこととか、オメガへの突然変異とか、色々理解不能なところが多いので不安です。でも今の自分には何もできなくて……それを手伝ってくださるバロン殿下やシス様のことが気がかりなんです。俺のせいでこれ以上大変なことにならないだろうか、って……」
これから来るであろう聖者のことでバロンもシスも忙しくなる。ゲームのシナリオはいつから開始されるのか、聖者が来る前にエラルドの存在が二人にとって障害にならないといいのだけれど、という考えばかりが頭に浮かぶ。
でも早めにこのバグをなんとかしないと、この世界にやって来るであろう主人公のシナリオの妨げにもなってしまう。何をどうしたらいいのか分からないまま自分の状況だけが悲惨なこの事実に、エラルドは深いため息をついた。
「私がなぜ"氷の王子"と呼ばれているのか、噂を聞いたことは?」
「えっ、えっと…あまり笑顔をお見せにならないから、とか……」
「そうだな、もっともらしい噂だ。確かに私はロラン…第一王子と違って表情が乏しい。ただ、それだけが理由ではないんだ」
「他になにが……?」
「……私はアルファだが、オメガのフェロモンに反応しない」
ナイフとフォークを置いて、バロンはぽつりぽつりと話し出す。彼がアルファなのは圧倒的なオーラと威圧感で分かっていたけれど、オメガのフェロモンが効かない設定はすっかり忘れていた。
「どんな婚約者候補を連れてこられても、貴族のオメガだと言われても、ぴくりとも心が動いてこなかった。わざとフェロモンを出して誘ってくる人もいたな。そういうのを全部引っくるめて嫌になり、自分に婚約者などは必要ないと断っていたら、人の心がない氷の王子だとか役立たずの王子だと王宮内で呼ばれるようになったんだ。私の"温かい心"は、すべてロランが持っていったんだろうな」
「そんなことありません……殿下はお優しいじゃないですか。それが自分の義務だとおっしゃっていましたが、ここで一緒に食事をして話し相手をしてくれるのは、温かい心をお持ちだからです。氷の王子にはできません、絶対に」
エラルドとバロンは今まで会ったこともないし、言葉を交わしたこともない。グラン=フェルシアの第二王子と、どこにでもいる平凡な男爵令息に接点なんて皆無だ。闇の森で会えて、保護されたこと自体が奇跡にも等しい。
だから、エラルドが偉そうなことを言えるほどバロンのことを知っているわけではないし、側にいたわけでもないけれど、全く知らない赤の他人だからこそ『そうではない』と言えることもある。エラルドが言えることは、バロンは決して感情のない『氷の王子』ではないということだった。
「でも、君のフェロモンだけは、分かったんだ」
「え?」
「エラルド…君のフェロモンはとても甘く、花のような匂いがした。オメガのフェロモンに反応する、ということを初めて経験したんだ。でもなぜか、今はもう何も感じない」
不思議だな。
そう言いながら空っぽになった皿を見つめて小さく笑うバロンの横顔から、エラルドは目が離せなかった。