エピローグ
◆3年後
「――エラ、おはよう!パンと牛乳の配達だぞ」
「うぅ〜ん……はよ、レオニード…そこ置いといて……」
「お前、また徹夜したのか?」
「キリがいいところまでと思ったら、止まらなくて……」
薄暗いリビングのテーブルに突っ伏したまま眠っていると、配達に来た友人が呆れ顔でカーテンを全開にした。窓から差し込む太陽の光があまりにも眩しくて目を瞑った。
「仕事好きなのはいいけど、ほどほどにしないと体壊すぞ?」
「……肝に銘じます…」
「そうしてくれ。はい、うちのパン食べて元気出しな」
グラン=フェルシアと、隣国・ロマリガムのちょうど国境付近にあるメピンという小さな村で暮らし始めて、早2年が経った。食べ物や水が美味しく、小麦の栽培が盛んな村だ。だからなのか、パン屋など小麦をメインに扱う店が多く、小さい村ながら活気に溢れている。
エラルドが実家に帰省した際にベータに戻っていると分かったあと、いいやり方とは思えないがバロンの前から姿を消した。
姿を消して1年ほどは国中をふらふらしながら日雇いの仕事などでお金を稼いでいたけれど、ベータに戻っても外れなかった『うなじ噛み防止チョーカー』のせいでオメガだと勘違いされ、なかなか定職には就けなかったのだ。
ある日とうとう資金も食料も尽きて倒れていたところをレオニードに拾われ、餓死することなく生き延びた。
それからはメピン村の住人にお世話になりながら、魔法をプログラミングして効率よく小麦栽培ができるようなシステムを開発したりと、社畜のような生活を送っている。
「そういえば、ロラン殿下に第二子がご誕生だってよ!」
「へぇ……」
「いやぁ、瘴気が浄化されてから人も物も豊かになったよなぁ。でも結局、聖者様のお姿は見られなかったけど」
「会ってみたかったの?」
「そりゃあ、一度くらいは。ご利益がありそうじゃん」
「ハハッ、ご利益ねぇ……」
後から聞いたことだが、浄化遠征後はパレードやパーティーがあるのが普通らしい。3年前の聖者はそういう公の場が苦手で人の前にも姿を現さないという、国民の間では変に神聖化された存在になっていた。
ただ、国中をふらふらしているときやメピン村に来てから何度も『子宝に恵まれた』『子供の病気が完治した』『バース診断がオメガだった』など、嬉しい報告が国中から聞こえてきた。
そしてエラルドが姿を消して割とすぐ、王太子であるロランはオメガの令息と結婚したらしい。第一子は王子が生まれ、第二子は女の子だったのだとか。
エラルドが姿を消した尻拭いをしたのかもしれないと感じたが、彼はきっといい人と恋に落ちたのだろうと無理やり自分を納得させている。そうあってほしいと願うのはあまりにも自分勝手だけれど、そう願うことしかできなかった。
「エラ、今夜は俺の家で飯食わないか?」
「いいよ。それまでに仕事を終わらせる」
「だめだって、今日は仕事はするな!毎日毎日仕事のし過ぎだぞ!」
そう言って怒るレオニードからプログラミングの設計図を取り上げられ、その代わりにパンと牛乳を目の前に差し出される。レオニードがじっと見張っているので渋々パンを口に運ぶと、彼は満足そうな顔をして家を出て行った。
「……仕事しかやることないし、やってる間は何も考えなくて済むんだよ……」
趣味:なし
友人:仕事中
お金:少ない
恋人:なし
平々凡々の典型的なステータスに自嘲しながら朝食を平らげ、家の中が散らかっていることに気がついた。どうせ夜にレオニードと会うまで仕事は返してもらえなさそうだし、やりたいことも特にないので家の掃除をすることに決めた。
この家は近所でも仲が良かったと評判の老夫婦が住んでいたらしく、ここ数年空き家だったという。レオニードの親戚だったこともあり、快く貸してもらえたのだ。なので、さすがに掃除をしないとこのままでは追い出されてしまう。
「そうだ、庭の手入れもしなくちゃな……」
この家の庭には綺麗なバラが咲いている。アーチ状の門にもバラの蔦が巻きついていて、品種改良された美しいバラは一年中楽しむことができるのだ。
家中の窓を開けて掃除をしたあと庭に出て雑草を抜いたり剪定をしながら、久しぶりに何もしない穏やかな時間を過ごしていた。庭の一角には小ぶりなティーテーブルとイスが二脚あるので、太陽の光を浴びながら優雅にティータイムをしてもいいだろう。
そんなことを考えながらテーブルを拭いていると、サクッと芝生を踏む音が背後から聞こえてきた。
「………あまりにも圧が強すぎると、村の住人が驚きます」
じっと背中を見つめている視線が何か言いたげなのが分かる。
ベータでも分かるほどの圧倒的なオーラが体中に纏わりついてきて、初めて出会った時のことを思い出した。ただ、それと同時に、自分の体を包み込むアルファのフェロモンがどうしようもなく暖かくて愛おしくて、泣きそうになるのをエラルドはグッと堪えた。
「髪の毛は、染めたのか?門のバラと同じように綺麗なピンク色で愛らしかったのに」
「黒髪のほうが見つかりにくいと思ったので」
「残念だ。随分と前から見つけていたから、意味がなかったな」
探してほしくない、見つけてほしくない。そんな思いから、姿を消してすぐに魔法で髪の毛を黒く染めた。それはただの悪あがきで、彼から見つかっているのはエラルドも随分前から分かっていたことだ。
「バロン殿下、お久しぶりです」
ゆっくり振り向くと、3年前とほとんど変わらない姿のバロンが立っていた。3年前より少し痩せただろうか。ただ、今でも宝石のような青い瞳はそのままで、美しい瞳にエラルドを映していた。
「レオニードには、いつもお世話になってます」
「あいつは何か、バレるようなヘマを?」
「いえ。全て上手くいきすぎていたので、なんとなく」
「そうか。君が危ない目に遭わないように、レオニードに頼んでいた」
「おかげさまで、ここまで生きてこられました」
行き倒れていたエラルドを救ってくれたレオニードが、バロンの息のかかった人間だというのは薄々気がついていた。そもそもグラン=フェルシアに留まり、バロンに見つからずに過ごすのは至難の業かもしれない。
でもバロンはエラルドの気持ちを汲んで、放っておいてくれた。少しの手助けはしてくれていたが、知らないフリをしてくれていたのだ。
だからこそ、国境付近のメピン村に連れてきてくれたのだろう。エラルドの気持ちが完全になくなれば隣国へ行ってもいいように、と。
「……チョーカーは外れなかったんだな」
「ベータに戻ったのに外れませんでした。魔法のせいですかね」
「"番になりたいと思う人が現れたら、その時はこのチョーカーが自然と外れるだろう"……そういう人は現れなかった、ということか」
「本来ならこのチョーカーの役目もないはずですが、見ての通りです」
「そうか……」
バロンが泣きそうな、それでいて嬉しそうな顔をして微笑むものだから、エラルドは鼻の奥がツンっと痛むのを感じた。どんなに強がって見せたって、どんなに平凡な自分を演じていたって、彼を忘れたことは片時もなかったのだから。
「エラルド。私は君をオメガだから好きなわけではないと言ったな」
「……」
「それは今でも変わらない。君がアルファでもベータでもオメガでも、私は君を愛したはず」
サク、サクッと芝生を踏む音を立てながらバロンが近寄ってくる。3年前、彼のことを考えた結果、姿を消すことをエラルドは選択した。
国の繁栄の象徴と言われてしまったものだから、オメガではなくなった自分がバロンの隣に立つのは分不相応だと理解していたから。でも、それでも、バロンの瞳を見たらその心は波のように揺れてしまった。
「エラルド・レーラココ。私には、君の匂いが分かる」
愛してるんだ
祈るように懇願する彼の声と共に、エラルドはやっと、呼吸ができた。
終




