1−2 氷の王子
「お願いしますっ、おれ、おれ、食べても美味しくありませんからぁ!」
街中で前世の記憶が蘇り、自分が重大なバグを抱えたフェロモン撒き散らしオメガとして覚醒した途端、変な男たちに絶賛追いかけられ中。
エラルドは発情した屈強な男たちに宿に連れ込まれそうになったのを何とか振り切って無我夢中で逃げていたら、いつの間にか森の中に逃げていた。
逃げている途中、最初から追ってきていた人だけではなく違うアルファやベータもどんどんエラルドのフェロモンに反応してしまい、最初は二人だったのがもっと多くの人から追いかけられる羽目になってしまった。
「も、まじでっ、お願いだからやめてくれ……!」
「おい逃げんな!そろそろ観念しろって!」
「オメガなんだからアルファ様の言うこと聞けっつーの!」
薄暗い森の中に入ってきてしまい、入り乱れている木々の間を縦横無尽に駆け抜けていると、深い深い森の奥まで逃げてきた。さすがに体力が持たなくて、入り組んだ場所にある切り株に身を預けるように隠れて息を整えた。
エラルドを探す声が先ほどよりも遠くから聞こえてきて、追いかけていた男たちの声がやっとわずかに離れたことにホッとした。できるだけ息を殺して呼吸を整え、遠ざかっていく声をこのままどうやって振り切るか頭をフル回転させる。
闇雲に逃げたところでこの森がどこまで続いているか分からないし、迷ったら元も子もない。追いかけてきた男たちが森の奥まで行った隙に、来た道を戻って街中に行った方がマシだ。街中にもアルファはいるだろうけれど、そこにいるのはアルファだけではない。エラルドに声をかけてくれた貴婦人のようにマトモな人もいるだろうし、助けてくれる人もいるだろう。
「………よし、行こう。ここにいたらどうなるか分からないし…」
森の中でアルファに襲われ、そのまま放置されたら――
「ッ!」
森の奥深くから犬や狼に似た遠吠えが聞こえてきて、エラルドはびくっと体を震わせる。自分はなんてバカなことをしてしまったんだ。この森はただの森ではなく、『闇の森』ではないか――!
「見つけたぞぉ、節操なしオメガ」
「ひ……っ」
何かの遠吠えに驚いていたエラルドがバッと顔を上げると、隠れていた切り株の上からモンスターのような男が見下ろしていたのだ。男は理性を失っているかのように顔を上気させて呼吸も荒く、口の端からダラダラと唾液をこぼし、エラルドを『獲物を狩るモンスター』の目で見つめていた。
「や、やめてくれ!」
「逃げられると思ったかぁ?お前の濃いフェロモンが残ったんだ、逃げられるわけねえだろ!」
「うぁ……っ!」
細い手首を掴まれ、屈強な男の力に引きずり出された。手足をバタバタと暴れさせてみたけれど、見るからに力のなさそうな細い体では太刀打ちできない。きっとこのまま乱暴され、めちゃくちゃにされてしまう未来が見えた。
なんせオメガの『フェロモン』というのは、アルファやベータさえも匂いで誘って発情させてしまう厄介なものなのだ。それに加えてオメガには発情期があり、その時期が一番フェロモンが強くなる時期だという。
今のエラルドは異常なフェロモンを撒き散らすバグに見舞われているが、その状態はいわば『発情期』の状態が常に続いているということ。オメガの扱いが最下層でありアルファだらけのこの国で、このバグを抱えた自分はいつでも好きにしてくださいと言っているようなもの。
エラルドが必死に抵抗したとしても『誘ったそっちが悪い』と言われるような世の中だ。
「おねが、やめ、やめて……っ」
ドサっと地面に押し倒されて馬乗りになられ、抵抗も虚しくビリッと服が破ける音がした。
「――死にたくなければ、今すぐ彼を解放しなさい」
これから起こる惨劇を見ないように目を瞑り、覚悟を決めて顔を背けていた。するとエラルドに馬乗りになっている男性でも、森の中まで追いかけてきた男たちの荒い声ではなく、凛とした鋭い声がエラルドの耳に響いた。
「聞こえないのか?お前が組み敷いてる彼から、今すぐ、離れろ」
ドスの効いた低い声。周りの空気が一瞬にしてビリッと変化したのが分かり、エラルドはそっと目を開けた。
「………?耳が聞こえていないのか?」
「ヒィッ!」
エラルドに馬乗りになっている男の首元に、鈍色に光る切先が突きつけられていた。剣を突きつける男性は真っ青なオーラのようなものが見えて、その威圧感にエラルドすら圧し潰されそうになる。
剣を突きつけられている男性は彼の威圧感に気圧されていて、失神しているのかと思うほど微動だにしなかった。
「た、た、助けてください!」
「分かっている。だからこの男にどけと言っているんだ」
「ここここの人、なんか気絶してるっぽいです!無理矢理にでもどかせてくださいっ」
「気絶……?どういうことだ、変な男だな」
剣をスッと下ろし、目を開けたまま失神しているように見える男性の首根っこを掴んで引き下ろした。そうしてやっとエラルドも自分で体を起こすと、自分の周りには気絶した男たちが屍のように横たわっている異様な光景が広がっていた。
「………お前は、なんだ?」
「え……」
「ここは魔獣が頻出する闇の森。魔獣だけではなく人間も"何か"に惹かれるように興奮していた。……お前のせいか?」
「そんな、俺のせいって……っ!そうかもしれないですけど、でも!」
「お前、名前は?」
「え、エラルド・レーラココ……」
「レーラココ……男爵家か。抑制剤は持っているのか?」
「抑制剤…」
「オメガだろう、君は。フェロモンの濃い匂いがこの闇の森全体に充満してるぞ」
はぁ、と息を吐く彼の頬も淡く上気していて、風に乗ってエラルドの頬をかすめた息すら火傷しそうなほどの熱を感じる。
「………私についてきなさい。悪いようにはしない」
そんなセリフ、いかがわしい本みたいにぐちゃぐちゃにする前の常套句じゃないか――!
なんて心の中で叫んだけれど、逃げるより前に騎士のような姿の男に腕を拘束され、観念してついて行くしかなかった。