6−1 終わりの始まり
小鳥のさえずりが心地よく、ふわりとした風が窓から入ってきて頬を撫でる。
もう少しだけこのままでいたい。だってとても気持ちがいいから。
ゆっくりと深呼吸をすると焼きたてのパンの香ばしい匂いがして、くうっとお腹が小さく声を上げた。焼きたてのパンには思いっきりジャムをつけて食べるのが美味いんだ、と兄が子供の頃から言っていたのを思い出す。でもエラルドは焼きたてのパンには何もつけず、スープと一緒に食べるのが好みだった。
あの日、兄が誕生日だった日。
焼きたてのパンが好きだからと街で評判のパン屋に朝から並んで、焼きたてのパンを買ったのだ。ただその袋は、理性を失ったアルファたちに追いかけられている最中に落っことして、ぐしゃりと踏み潰された。
買い直そうと思ったけれど、それどころじゃなくなってしまったのだ。
――どうしてだったっけ?
「……バグオメガに、なったから………」
「……エラルド?目が覚めたのか?」
「え……?」
薄く目を開けると、眩しい光が入り込んできて再びぎゅっと目を瞑る。髪の毛を優しく梳かれ、その手は額を撫でて目元に触れた。
「バロン殿下……?」
「ああ、私だ。どこかおかしいところはないか……?」
「んん……」
頬を撫でる大きな手が心地よくて思わず擦り寄ると、バロンが小さく笑った声が降ってくる。ゆっくりと目を開けると、優しい青色の瞳がエラルドを見つめていた。
「殿下の手、つめたくてきもちいです……」
「心が冷たいと言われているからな」
「ちがいます……心があったかい人の手は冷たいんです……」
「ふ、そうか。しっかり話せるようで安心した。一週間も眠っていたから」
「え、いっしゅうかん……?」
「ああ。浄化が完了してから一週間、死んだように眠っていた」
一週間眠っていたというバロンの言葉に驚いて、エラルドは飛び起きた。慌てて起きたものだからくらりと目眩がして、倒れ込みそうになったエラルドはバロンから抱き止められる。肩に触れる彼の体温にきゅんとしている場合ではない。
「いいいいい一週間!?一週間も俺、眠っていたんですか!?」
「起きてすぐ大声を出すものじゃない、体に障る」
「それはそうですけど、げほっ、でも!そんなに眠っていたなんて……!」
「聖者の力を使い果たしたんだ、無理もない。突然変異も相まって君の体は不安定だったんだ。シスが言うには、このまま目が覚めない可能性も捨てきれないとも言われていた。そんな状態の君を急かしてこちらも悪かったと思っている……本当にすまなかった、ありがとう」
ふわり、バロンから抱きしめられる。
淡く香ってきた彼の匂いと、とくんとくんと規則正しく聞こえる鼓動に安心する日がくるなんて思ってもいなかった。そんなバロンの鼓動とは反対に早鐘のように脈打つ自分の鼓動を感じ、彼にバレないかとエラルドはヒヤヒヤした。
「エラルド……」
「ぁ、っ」
くいっと顎を持ち上げられると、条件反射で目を瞑ってしまう。こうやって何度かロランにからかわれたことがあるけれど、バロンは至って真剣なのが伝わってくる。お互い何も言葉にしていないけれど、触れただけで分かる、というのはあまりにも神秘的すぎるだろうか。
「バロン、エラルドの様子はどう、だ――」
「わ、わぁぁぁあっ!」
バロンの息が唇に触れるほど近づいていたエラルドは、裏庭園に入ってきたロランの声を聞いて勢いよくバロンから離れる。熱を持っている顔を片腕で隠しながらバロンから距離を取ると、目の前にいる彼がムッとしたような空気を感じ取った。
「あー、俺、お邪魔だった?」
「……そうだな」
「ごめんごめん。起きてると思わなくてさぁ」
「お、王太子殿下を邪魔と思うなんて、そんなことは……っ!」
「エラルドは優しいね、こっちの堅物とは大違い。というか、目が覚めてよかった」
ロランがくすくす笑いながら、赤い顔を隠しているエラルドの頭をそっと撫でた。先ほど触れていたバロンの低い体温とは違い、太陽のような温かさのロランの手に心がほわっとする。
気がついていなかったけれど、エラルドが眠っていた一週間の間に王宮へ帰ってきていたのだ。見慣れた裏庭園の部屋と、その部屋にバロンとロランがいることに安心して、やっと『瘴気の浄化』が終わったことを実感した。
「ブレスレットは、役目を果たさなかったみたいだね」
「壊れたりしなくてよかったです。綺麗だから、このまま何もなければいいと思ってます」
「……ふふ。俺には君の心のほうが何倍も綺麗だと思うよ」
「な、なんですかそれぇ……」
「そのままの意味。でも、そうか、目が覚めたなら……」
そう言いかけたロランは口元に手を当て、いつもの笑顔を絶やしてバロンのような難しい顔をした。そんな彼の様子になんだか嫌な予感がして、助けを求めるようにバロンを見やると美しい青色の瞳が動揺に揺れた。
「な、なにかあったんですか……?」
「……ずっと黙っているわけにもいくまい、バロン。目が覚めたのなら陛下や大臣たちの元に行くことになるのだから」
「はぁ……」
バロンが頭を抱えてため息をつくのも珍しい姿だ。
瘴気の浄化は完了したと思っていたけれど、まさか何か失敗をしてしまったのだろうか。それとも浄化をするタイミングが遅すぎて、すでにこの国に疫病などが蔓延してしまったとか――
ありとあらゆる悪いことがエラルドの頭の中を駆け巡り、背中に冷や汗が流れた。
「君が眠っている間に、大臣たちがある提案をしてきた」
「提案ですか?」
「…オメガとして優秀な君を、今後は権力があり未婚のアルファの"共有の番"にしたらどうか、と……」
「………はい?」
聞き間違えだろうか?それとも、耳が悪くなってしまっただろうか?
『共有の番』なんていう物騒なワードを一度受け止めてみたけれど意味が分からなくて、エラルドは二人の顔を見つめた。青い顔をしているロランとバロンがそれ以上何も言わないということは、この話は冗談でも何でもなく、本気の話らしい。
「はぁぁぁぁああッ!?」
目覚めたばかりなのに頭がくらくらしそうなほどの大声を出したエラルドは、再び気絶しそうだった。




