第五章・美しい生活〜1〜
第五章・美しい生活〜1〜
機械都市は正しい秩序と正義の元で、平和な暮らしを提供する。そんなスローガンをマザー回路は掲げている。戦いの力ではなく、統治によって平和を作る。
善悪の判断は難しい。人生で幾度となく訪れる難しい選択。私の進む学校は? 私の職業は?
神経をすり減らす事柄がこの世には多くあった。そのすべてをマザー回路が引き受けることで、健全な精神を保つ。そうして犯罪はなくなる。
各国の情勢を鑑みれば日本の機械都市がどれほど平和な場所なのかがよくわかる。毎日心を落ち着けて眠ることができるのは、今や日本だけだ。
そんな機械都市の親元である、英雄のマザー回路に対しても、疑問を唱える者はいる。
曰く、管理局は「戦いの力」ではないのか。
マザー回路は力以外の方法を使うと言っても、実質的に管理局は「力」に他ならないだろう。各国の紛争地帯に、エネルギースーツを身につけた隊員を投下してみたとき、どんな戦果が得られるだろうか。相手はスーツのない烏合の衆と管理局が倒しなれた機械兵器。結果は容易に想像できる。
それでも人は皆マザー回路を信じてやまない。管理局が力を持っていようと、自分たちには向かない、守ってくれるのであれば戦力と呼ばないことにしよう。
(だったら、クフェアにとっては?)
マザー回路の飼犬? もしくは用心棒。
どちらにしても、瑛人が管理局にいることを琴音が驚いたように、仲間とは思っていないのだ。
……
瑛人は琴音と別れてから中央区にある第一管理局に戻った。タイミングよく楓が部屋で休んでいたのでプレゼントを渡すと、とても喜んでくれたのが嬉しかった。
ただ、頬についていた傷を隠すのを忘れていたのが失敗だった。楓に何をしたのかを問い詰められて、隠し通すのが大変だった。
そのことを天音や赤木には言わないように口止めをした。
「言いませんけど、危ないことはしないでくださいよ?」
しかし、楓への口止めもむなしく、任務終わりの天音が楓に会いに来た時に傷のことはバレた。
「どうしたの? ハッカーが武闘派だった?」
「ま、そんなところだ」
その後天音を追いかけていた赤木にも見つかったのだが、危惧するまでもなく二人にとっては笑い話の種となった。
天音が瑛人の持つ紙袋を見て言った。
「その紙袋は誰に渡すの?」
「俺の友達に桧垣って男がいたの覚えているか? そいつが結婚したんだよ」
天音は首をかしげていた。赤木の方はしっかりと覚えているようだった。
「へぇ、あの人が……もうそんな歳か」
同級生が結婚していくという年頃か。
「式に参列はできなかったから、せめてプレゼントを渡すんだ」
天音は瑛人のデスクに座ってくつろぎ始めた。天音も赤木も全力の戦闘の後でゆっくり休みたい瑛人にお構いなしだ。もっとも、二人も戦闘を終えたばかりなのだからと思い、文句は言わなかった。
「それじゃあ、あんた明日休むの?」
「うん。これから申請してくるよ。二人も休んだら? 鎮圧任務続きで疲れているでしょう」
瑛人の言葉に、二人ともかぶりを振った。
「私たちはまとめて長期休暇をもらう予定なのよ。特別休暇は貯金しておくの」
瑛人も楓も、天音と赤木の仲がただの友達でないことは、かなり前から気づいていた。毎日のように言い合っていても、だからこそ簡単に気づく。
(同い年が結婚する……ね)
羨ましくはない。本当に。しかし、すごいとは思っている。
結婚が幸せにつながる時代などはるか昔に終焉している。マザー回路は人口維持のために結婚を廃止していないが、専門家が言うには、マザー回路は子どもを作るシステムを新設できれば、子どもがいるということは結婚している、もしくは結婚したことがあるという概念を払拭することにするだろう。と考えているらしい。
今は相手を決めるとき、最終的にマザー回路の採点が入る。それがすべてではないが、大きな影響を与えてはいる。両者の相性を評価してくれるのだ。
デリケートなことだけに、瑛人は桧垣翔と矢島南の相性は聞いていない。
(まぁ、あれで相性が悪ければ噓だよな)
ちなみに、天音と赤木の相性は抜群。最高数値だった。
天音が楓の隣に行くと、肩のマッサージを始めた。
「肩なんて凝りませんよ。健康維持ツール使ってますから」
「ただ触りたいだけだから気にしないで。それより、明日楓ちゃんはどうするの?」
「それは……とりあえず来ようと思っています。急な任務もなければ銃剣の訓練をしようと思います」
天音は瑛人をにらみもしたが、楓の机の上にあった紙袋のおかげで何も言われずに済んだ。
その後、瑛人が報告書のチェックをしている間に、天音と赤木は後輩から呼出を受けて帰ることになった。
報告書の出来はまたも完璧だった。
「もうこれからチェックする必要もないかもね」
「ありがとうございます。提出しておきます」
瑛人はすることがなくなると、どうもクフェアのことを考えてしまっていた。現実世界に集中できていない。そんな感覚だ。
実態を捉えられない、見ることのできない相手のことを理解しようとするのは疲れる。ここでクフェアの実態について推理してみたところで、どうせ明日明らかになるのだ。考えるだけ無駄だとわかっていても、機械のように割り切ることはできないものだ。
「それじゃあ、俺は帰るね。明日は急に休みにしてごめんね」
楓は相変わらずの笑顔で答えた。
「いいえ、大丈夫ですよ。お疲れ様でした」
管理局を出ても、瑛人の足取りは重かった。
……
『気が気でない?』
「それはもちろん。君がそうしてる」
『明日、クフェアの戸田琴音と会ったときに何を見て、その後自分がどう思うのか、それが不安なのよね』
「そういうこと……だね」
『さっさと帰って寝ちゃいなさいよ。いい夢でもみて忘れちゃいなさい』
「それはいつもやってるけど、今日はそれが上手くいくかわからないな」
……
瑛人はモノレールから見える風景を水晶体で反射しながら、家へと帰った。
翌日、午前十一時。
「本当に久しぶりだよね。瑛人」
お決まりのような言葉で、瑛人は大学時代の友人との再会を果たした。
「久しぶり。二人とも、あまり変わらない様子で……」
これも決まり文句のように瑛人が言うと、矢島が大きく変わったところがあると言って会話に割り込んだ。
「私たち結婚したんだよ? 名前が変わっています!」
元気よく、満面の笑みで言う彼女はやはり変わっていないという印象を瑛人に与えた。その笑顔に、瑛人も昨日までの悩みを一時的に忘れて心から笑った。
「お久しぶりです、桧垣夫人」
二人の薬指にある、南の誕生石である真紅のルビーを使った指輪が強めの主張で輝いた。私たちは結婚しております、と。
三人はレストランに来ていた。場所は瑛人から提案した。引っ越したばかりで忙しいと考えて、桧垣家の新居の近くにした。品川区大崎。桧垣翔の仕事場の近くにマンションを購入。機械都市の中でもさらに治安がいいとして評判が高いので親からの反対もなかったとのこと。
(すごいのは、二人が学生時代に住みたいと言っていた場所がまさに品川区大崎ということだよな)
人生は順風満帆。二人ともきれいな指輪をはめて間違いないレールを進んでいる。
それぞれ注文した料理が届き、ソフトドリンクだが乾杯をした。
「遅れたけど、結婚おめでとう。俺としても何だか嬉しいよ」
「ありがとう。まだまだ大変な時期だけど、どうにかやってるよ」
少し早めの昼食にはパスタを選んだ。管理局にいては食べることのない、贅沢にチーズの絡んだカルボナーラだ。
「翔、何言ってるのよ」と桧垣夫人の南が言った。「瑛人君の方が大変に決まっているでしょ?」
「え? 俺の方が?」
南が意外なことを言うので、手に持ったフォークが止まった。一方の翔は頷いている。
「そうだな。俺たちがこうして暮らしていられるのも、瑛人たち管理局が頑張ってくれているからだもんな」
瑛人の前で、二人はゆっくりと食事を進めた。美味しい、連れてきてくれてありがとう。そう言ってくれるのは嬉しかった。今時、管理局を批判する者は結構いる。瑛人は自分たちの仕事を全面的に評価してくれる相手がいることに驚いていた。
「……そんなに、平和のために必要な存在みたいに言わないでよ」
「お世辞じゃないさ。俺なんて企業のカウンセラーだぜ?」
社会的にどっちが優れたことをしているかなんて、簡単にわかる。翔はそう言った。
「何言ってるんだよ。立派な仕事じゃないか。大学で学んだことをしっかり活かしている。それに大きな企業なんだろ?」
瑛人はフォークを動かし始めた。本物の料理人が作るパスタだ。やはり別格に美味しい。
仕事なんて人生のほんの一部。もしくは手段でしかない。瑛人は、職業によって立派なのかそうでないのか。社会のためになるのかならないのか。そんなこと考えたことがなかった。
(カウンセリングにしても、管理局にしても、きっと欠かせないものなんだ)
どこまで迷っても最後には仕事であればやり抜くしかない。どこかに理由を見つけ出す。欠けてはいけない理由を見つけ出す。
社会は絡み合っている。ちょうど目の前の皿で表現できてしまう。パスタにソースや具材が絡み、流れてどこかで繋がっている。
管理局はどの具材だろうかと瑛人は考えてみた。
(……いや、不要なものを取り除くフォークか)
大きめの一口を放り込んだ。
(それに、十人に聞いて十人が、君たちの人生の方が成功していると答えるから、安心しなよ)
言葉にはしなくても瑛人はそう思っていた。機械都市で唯一と言っていいほど、命のかかった仕事をわざわざするなんて。それに比べてカウンセラーですか、安全で人の為になるなんて素晴らしいことです。
瑛人は余計な考えだったと頭をリセットした。すると、南の食事の進みがかなり遅いことに気がついた。
「南ちゃん、苦手なものでもあった?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
「もしかして……」
桧垣夫婦は二人して驚いた様子だった。まだあまりお腹の大きさが変わっていないのと、服をうまく着て隠していたからだ。なぜ隠そうとしていたのか、その理由はすぐにわかった。
「ほらね、現役の刑事は騙せないのよ」
「いやー、さすがだよ瑛人」
「まあ雰囲気でそんな気はしていたけどさ、食べる様子を見てね……あ、そうだ!」
瑛人はここだと思い、椅子の下に置いていた紙袋を渡した。
「クッキーにしたんだ。食器とかはもう揃っていると思って。妊婦さんはお腹が妙に空くこともあるみたいだからよかったら食べてね」
翔が受け取ると、南が気になって覗き込んだ。
「やっぱ本当の友達は贈り物から違うのよね。私クッキー大好きだもん! 開けていい?」
「もちろん」
翔の持つ袋からクッキーを取り出して、包装紙を開いた。
「すごいわ。体に悪いもの一切入っていない。妊娠していること予想してたの?」
正直に言えば予測できていなかったのだが、瑛人は、
「まぁ、そんなところ」と、答えていた。
その後は生まれてくる子どもの話で持ちきりだった。名前はどうするのか、どんなものが必要なのか、親にも報告しないと。
瑛人は二人に会えてよかったと感じていた。
自分のしている仕事のことを褒めてもらえたから? それも少しは嬉しかったのだが、直接褒められたからうれしいというわけではない。二人が生まれてくる子どものことで笑って話し合える。そんな平和の下支えを、少しばかり自分がしているのだと思えたからだ。
スカウトされたままに入った管理局でも、やりがいはあるものだな。そう思えたから。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
翔がそう言って三人は外に出た。外は相変わらずの黒い都市。モノクロな都市。それでも今は色があるように見えた。
「楽しかった。久しぶりに会えてよかったよ。名前決まったら教えてね」
「ああ、こっちこそありがとな。お互い頑張ろう」
「じゃあね瑛人君。また会おうね」
二人が歩いていく様子を、瑛人は見えなくなるまでその場から動かずに見守った。
(良い名前が浮かんだら教えてあげよ)
腕時計で時間を確認すると午後一時だった。カフェ・フォレストハートは機械都市の外なので行くのに時間がかかる。それでも一時間もあればついてしまう。
瑛人は迷った挙句にゆっくりと向かうことにした。それまでに、心構えをするつもりだった。だが、心配するまでもなく心構えは一瞬でできた。
クフェアという単語を頭に浮かべた瞬間に、幸せな現実から引き剝がされるような感覚を味わうことになったのだ。
(大丈夫。今日は、クフェアが何をしているのか、何をしようとしているのかを聞くだけだ)
瑛人は自分に言い聞かせて、歩を進めた。