第二章・管理局〜1〜
第二章・管理局
瀬戸瑛人と楓柚月が連行した男は斎藤蓮人という名前だった。まだ二十二歳の大学生。目が覚めた彼は罪を認めているようだった。それでも、スーツの入手経路については頑なに話さないとのこと。代わりに、斎藤蓮人は犯行動機については洗いざらい話した。
機械都市にいて、自分というものがわからなくなった。でも、殺したという達成感と震えを感じているときは自分を認識できた。
そんなことをしなければ自我を保てない程に、若い彼を追い詰めたものは何なのか。
(本当に考えなくてはいけないのはそこじゃないのか?)
捕まえて、それで終わり。市民の命は護られた。でも若者の苦悩を取り除くことはしないよ。それだと、今後同じような事例が起きても何にもおかしなことはないというのに、悪の芽を一つひとつ摘み取ることしかできない。種を、取り除かなければならないはずなのに。
時々存在する、種を悪に染める人間を見つけなければいけないのに。
(仮に斎藤蓮人のことが報道されても、ただの連続殺人犯という情報しか伝わらないだろうな)
「瀬戸さん? 聞いてますか?」
「え?」
まったく聞いていなかった。連続殺人犯を一日で逮捕したという噂が広がって、人とすれ違うたびに足を止める羽目になっていたので外の声を遮断していた。
「ごめん、なんだった?」
「今日は私が報告書を書いてもいいですか?」
「ああ、それなら」
ぜひ書いてほしいと言おうとしたのだが、それよりも先に瑛人の目に、左腕を押さえている楓の姿が映された。
「楓ちゃん、ケガしたの?」
左腕を押さえていた右の手のひらには少ないが、血がついていた。斎藤蓮人のナイフが気づかないうちに当たっていたみたいだ。
「こんなのケガに入りませんよ。もう血も止まっているみたいですし」
犯罪者がスーツを着用しているとは考えもしていなかったとはいえ、部下である楓柚月を負傷させてしまったことに違いはなかった。本人は大丈夫と言って笑顔を向けてくれてはいるが、おとり作戦を持ち出した瑛人としては申し訳が立たなかった。
「えっと、そうだな」
任務外での瑛人はきっぱりと物事を決められない性格がある。任務はやることが決まっていて、目標も決まっているからとても楽だ。なるべく「決断」というものをしないように生きてきた。それこそ機械のように、指示待ちの犬……。
(そこまではいかないか)
瑛人は進行方向を変えた。
「食堂に行こうよ。好きなものおごるよ」
楓は満面の笑みで「ありがとうございます!」と言って瑛人よりも先に食堂へ向かった。
食堂はお昼時とも夕食時とも重なっていなかったので簡単に席をとることができた。
ここは第一管理局内の食堂。そこそこ豊富なメニューと、まあまあ美味しい料理が自慢の大食堂を、全管理局員が利用するので混む時間帯はなかなか席が取れない。それに加えて一般にも開放しているので、休日のショッピングモールのフードコート並みに混雑する食堂が嫌で、弁当を持参してデスクで食べる者もいる。
楓が選んだデザートは白玉あんみつだった。瑛人もせっかくなので同じものを注文することにした。ウォーターサーバーから水を取って席についた。
「こんなメニュー、あったっけ?」
「新しいのですよ、とっても美味しいです」
座るなり楓が白玉に餡をしっかりと絡ませて、「パクッ」とほおばった。ショートカットの童顔だから、高校生みたいな子だなあと見ていると時々思う。
楓の食べっぷりにつられて、瑛人も食べてみると確かに美味しかった。
「どうですか? 私のお勧めの白玉は」
「美味しいね。あまりデザートは食べないけど、美味しいね」
「私も初めて食べたときは驚きましたよ。偶然、天音さんと食堂に来た時に聞いてみたら、デザート担当のおばあちゃんが、職人気質らしいです」
職人気質、だからデザートのメニューはその人のその時の好みで変わっているみたいだ。
管理局の様々な部署の人が、疲れた顔で食事をする様子を観察しながらデザートを食べていると、急に誰かが肩に乗りかかってきたので、危うく瑛人は白玉をこぼしてしまうところだった。
「今、私の話をしていたの?」
「あ! 天音さん!」
そこにいたのは話に出てきた天音だった。フルネームは天音成美。瀬戸瑛人の同期の女性で、ウェーブのかかった黒い髪のセミロングが特徴的なのと、女性にしては高い背丈に加えて、なんだかんだ面倒見のいい性格から、親しみを込めて同期や後輩からは「成姉さん」などと呼ばれることもある。
「天音か。驚かせるなよ」
瑛人の肩から反動をつけて離れると、瑛人の隣に座って会話に加わった。
天音が何の話をしていたのかと聞くと、瑛人が説明する前に楓が乗り出して話していた。
「デザートの話ですよ。ほら、この間天音さんが話していた……」
楓が天音をよく慕っていることは知っていたが、実際に天音を前にした彼女の顔を見るのは初めてだった。無邪気に、会えて嬉しいということがよくわかる。
(本当に、姉のような存在なのかもしれないな)
そんなことを思っている間に、天音は瑛人と楓が食べているデザートに興味津々になっていた。
「新作ですよ、たしか三日前から……」
楓がそう言うと早速天音は注文に向かった。
「天音と、仲いいんだね」
「はい! 時々一緒にご飯食べたり、訓練したりして、よくしてもらっています」
やはり、同性であるだけで仲良くなるのはとても簡単になるようだ。瑛人が楓とフランクに話せるようになったのは最近のことだというのに。
瑛人は慌てて、「羨ましいわけではない」と、心の中で言った。
「あいつ、たしか昼ご飯食べていた気がするんだけど、まだ食べるのか?」
その声は、瑛人でも楓のものでもなかった。瑛人の背後で、壁のようにぬっと立つ男が、低い声で喋っていた。
赤木哲正。短髪のよく似合う好青年。瑛人が何も気を使わずに会話できる数少ない友人だ。ちなみに天音もそのうちの一人ではある。
三人はまったく同じ日に第一管理局に配属となったので、管理局の中ではよく「あの三人組」などと言われ、ひとくくりにされる。実際休日も三人でいることがしばしばあった。赤木の好きなドライブに付き合ったり、天音の好きなボーリングに付き合ったり、自主トレーニングを三人で行ったりもしていたので三人組といわれるのも仕方がなかった。
しかし、最近は瑛人に楓柚月という育成する後輩ができたように、天音にも赤木にもそれぞれ後輩ができたので、三人で行動することは少なくなっていた。
「隣、座るぞ」
「久しぶり。どうぞ」
大盛りのラーメンを瑛人の隣に置いてから、ズシリと座った。太っているわけでもないけど、彼がいると人二人分くらいのスペースが取られている気がする。
「君は、瑛人のバディの楓君だよね? 俺は赤木哲正、よろしくね」
楓は白玉もフォークも静かに置いて、スッと姿勢を正してから見本のような挨拶をした。
「初めまして、楓柚月です。赤木さんのお話はよくお聞きしております」
赤木は笑って堅苦しい挨拶をいなした。
「そんなかしこまらなくていいよ、俺も君のことは瑛人からたまに聞いていたよ。『優秀な後輩ができた』ってね」
赤木が瑛人の顔を見てニヤニヤしているのが気に食わなくて、瑛人は黙って白玉を食べることにしていた。
「えっと、ありがとうございます。これからも頑張ります」
「お前の後輩はどうなんだ?」
ちょうど楓の一個下にあたる後輩の調子はどうなんだ?
「ああ、それはもちろん……」
そこに天音があんみつを持って帰ってきて、今度は楓の隣に座った。
「なんだ、哲も来てたの」
「たまたまお前たちが見えたからな、昼も食べていなかったし」
「任務前に食べなくて、よく力出るわよね」
「出動ギリギリに食べようとする方がおかしいんだよ」
「間に合ったからいいじゃん」
「ああ、今日二人は合同任務だったのか」
それから四人はそれぞれの任務の内容の説明をした。食堂はうるさいというわけでもなく、静かすぎるというわけでもなく、ちょうどいい賑やかさがあって会話のしやすい環境だった。
天音と赤木の任務は渋谷で暴れていた巨大兵器の破壊だった。クリムが作ったその巨大兵器は全長二十メートルはあって、一歩動くだけで被害が出ていた。現場には他にも小型の兵器が何体かいて、暴れまわっていたのだと言う。
「最近はクリムが簡単に二十メートルなんて大きさの兵器を作るから驚いちゃうわよ」
「ほんと、どこから技術を手に入れてるんだか」
「まあ今回は、俺と俺の後輩の活躍のおかげで、被害は最小限に抑えられたわけだけど」
三人組で、仲が良くても天音と赤木はことあるごとに言い合っていた。些細なことでも、大きくしなくてもいい会話でもわざと突っかかるように、喧嘩が始まってしまう。
ただ、本当に仲が悪いわけではないから、見ていて気分が悪くなるものでもない。むしろ瑛人は好きだった。二人が言い合っているのを眺めるのが好きだった。
「私と! 私の後輩が頑張っていたんでしょう! あんたの大振りすぎる攻撃を私たちがフォローしていてあげたんだから!」
「そんなの頼んだ覚えはないし、フォローも俺の後輩一人で十分だった」
「へぇ……」
それでも、本当に時々、天音が激怒することがある。そのポイントが同期の二人にもわからないから困るところだ。ただし、以前食堂で、天音の後輩を馬鹿にする会話が聞こえたときに大変なことになったことは覚えていた。
(それにもう雰囲気が……)
楓も隣の天音から漂う雰囲気がただことではないと感じ取っているようだった。
「とにかく、暴動を一日で鎮圧したのだから大手柄じゃないか」
瑛人はそう言って何とか天音を落ち着かせようとした。
「そうですよ。さすがお二人です。実際に見たかったです」
楓がそう言うと、天音の怒りはスッと冷めたようだった。前のめりになっていた体を、定位置に戻してくれた。
「それを言うなら、あんたたちだって。連続殺人犯を捜査初日で逮捕。すごいじゃない」
「作戦が上手くいっただけだ」
ラーメンを大量にすすってから、赤木が瑛人に聞いた。
「どんな作戦?」と。
瑛人は作戦の内容をすぐに話す気にはなれなかった。なんせおとり作戦なのだ。あまり、推奨されるものではない。後輩を危険にさらすなど、天音からしても赤木からしても後輩を溺愛している二人では考えられないことだから。
「それは……」
「おとり作戦ですよ。私がおとりの」
瑛人が止める間もなく、すべて話されてしまった。
「え?」
と、二人の声は見事に重なっていた。
「それはなかなか、危ない作戦だったね」
「あ、でも瀬戸さんがすぐにフォローに入ることのできる位置にいてくださったので、安全でしたよ!」
天音は楓の肩を抱き寄せた。頭を優しくなでながら瑛人にきつくこう言った。
「信頼しているからって、あまり褒められたものじゃないわね」
「わかってるよ」
わかっていた。訓練生時代にも、危険の少ない作戦を作戦というのだと何度も教えられた。最初から犠牲を前提にする作戦は愚策そのもの。その教えは確かに瑛人の記憶に貼りついている。しかしそれでも、楓と作戦を決めるとき、そんな教えのフィルターを簡単に通過して「おとり」を思いついていた。最短の効率的な道筋を考えていたのかもしれない。
(そう、機械のように)
機械に囲まれた人の心には、何か変化があるのかもしれない。だっけか? あの時本当に、楓の身を案じていた?
天音は楓を解放すると、最後の白玉を口に運んだ。
「それじゃあ私はそろそろ戻ろうかな。念のため報告書に目を通しておきたいし」
「俺も」
いつの間にかラーメンを食べ終えていた赤木が天音に続いて席を立った。瑛人と楓の器にはまだデザートが残っているというのに。
「報告書、お前たちが書いているんじゃないのか?」
「後輩に書かせているの。練習よ」
「お前はめんどくさいだけだろう」
ほら、すぐにそうなる。
しかしここは、楓の純粋な言葉に助けられた。
「みなさん、本当に仲が良いんですね。羨ましいです」
「仲良くなんてないわよ。こいつときたら……」
楓は微笑んだ。
「言い合える仲が良いなと思うんです。私には同期と呼べる人がいませんから」
第一管理局に配属されるというのは優秀か、将来を期待されているか。楓の年に管理局に入った人間で現在第一管理局にいるのは楓だけだ。
天音が普段の口調で言った。
「まぁ確かに、同期で言えば私たちは高校の頃から一緒だからね」
「え! そうだったんですか⁉」
「ええそうよ」
大学は瑛人が南陽大学で天音と赤木の二人が西城大学で別々だが、付き合いとしては高校からだ。だから、三人の就職先が同じだとわかったときには驚いたものだ。
「なんか伝説の三人って感じがして劣等感が……」
「何が伝説よ。一人でここにいる方がよっぽどすごいわよ。私たちなんかすぐに追い越してね」
楓はうんと背伸びをして力を抜いた。
「そうだ。私もそろそろ報告書を書いてみようと思っていて……」
「楓ちゃんはいいのよ。かわいいから」
「えっと、作戦を実行するにあたって、流れを作ったのは私ですから」
天音は再び楓の髪の毛をクシャッと掴んで撫で始めた。よほど楓のことを大切に思っているのだ。瑛人としてもそれは嬉しいことだった。
「ちゃんと書くのよ。犯人がスーツを使ったということは、けっこう重要なことだと思うわよ。スーツを奪うにしても、局員に勝てるだけの実力がないと無理だから」
「はい、ちゃんと書きます」
そうして天音と赤木は食堂を後にした。帰り、二人が肩を並べて歩く様子はなんだかんだ言っても、歴戦の仲を感じさせた。
「それじゃあ、戻ったら一通り教えるよ」
「はい! お願いします!」
……
それからほどなくして、瑛人と楓も食堂を後にしていた。
東京第一管理局の敷地には幾つかの建物がある。外観はどれも似たようなものなので判別が難しいところもあるのだが、主要な建物は三つ。
本棟、通称「局員棟」と呼ばれる、事務室と局員の仕事部屋がある建物。
東棟、通称「研究棟」と呼ばれる、スーツや武器を開発する部屋のある建物。
西棟、通称「訓練棟」と呼ばれる、訓練生及び局員が訓練を行う建物。
瑛人と楓は局員棟を歩いていた。機械が作ったこの建物は外観だけでなく内部まで似たようなものだ。一階から五十階まである局員棟だが、気をつけていないとすぐに自分が何階にいるのかわからなくなる。
「もうちょっと良心的な造りにはできなかったのですか?」
「機械にそんな思いやりはないよ」
管理局の任務は基本的にバディで動くことになる。膨大にある部屋の一つをバディごとに割り振られる。専用のデスクも用意されるので、任務で外に出たりしない限り、基本的に各自の部屋で待機したり、事務仕事をしたりする。
二人は早速報告書の作成に取り掛かった。
「まぁ簡単だよ。タブレットで操作するだけだ」
タブレットの報告書のファイルを開くと、既にバディの名前など決まったことは書いてある。空欄部分を埋めるだけだが、それも空欄ごとに何を書くのか指示文があるので、それに従って記入していけばすぐに終わる。
楓は今回が初めてなので操作方法を説明してから、瑛人は自分の椅子に座って待っていた。その間、瑛人自身も任務について振り返っていた。
おとり作戦以外にどんな作戦があっただろうか。あのスーツは元々誰のものだったのだろう。いや、もしかしたら……。
ここで瑛人は重大なミスをしていることに気づいた。
(スーツを一人で強奪できるとは思えない。奴には仲間がいたと考えるのが妥当だ。だとすると、あそこで捕えずにやつが仲間と合流したところを一網打尽にするべきだった?)
そんなことを考えていると楓が瑛人に質問をしていたのに、反応が遅れていた。
「瀬戸さん。仮に私が一人で任務にあたっていたとして、今回のようにおとり作戦をしたとします。そしたら私、あいつに勝てたと思いますか?」
「勝てたと思うよ……そんなに自分の実力を疑わないことだよ、楓ちゃん」
楓は「そうですか」と言って作業に戻った。
(いや、スーツを持っていると判明したのは俺が奴の目の前に出た時だ。その時に見逃していても、もう遅かっただろう)
ネガティブな思考は捨てて、今後につながることを考えることにした。まず、管理局で紛失したスーツがないのかという調査が必要になる。
(研究チームの連中は話すと長くなるんだよなぁ)
どのような状況で奪われたのか、どの隊員のものが?
場合によっては、管理局内部の人間も疑わなければならない。
瑛人が思案している間に楓の作業が終わったみたいだった。
「チェックをお願いします」
瑛人は楓からもらったタブレットに目を通した。任務内容、任務遂行のための行動とその動機、結果。すべて完璧に近い内容だった。さすがは期待の新人。むしろ丁寧すぎるとまで瑛人は思った。
「後はそれを提出して終わり。提出はここのボタンを……」
報告書を無事提出し、任務もないので今日の残り時間はフリーとなった。瑛人は一戦したら早めに帰ることにしていたので、すぐに帰宅することにしたが楓は残っていくみたいだった。
楓が空いた時間を見つければいつも訓練をしていることは知っていた。ストイックに、たまに目にクマができていることもあった。
(頑張るのは良いけど、今日はさすがに疲れただろうに)
瑛人は帰る前に一声かけた。
「今度、一緒に訓練してみよっか」
瑛人がそう言うと、楓は今日何度目かの満面の笑みを見せた。予想外の反応だった。
「はい! よろしくお願いします!」
(……そんなに訓練が好きなのかな)
瑛人は手を軽く振って部屋から出た。
瀬戸瑛人の家は中央区と江東区の境目にある。地上百五十階建てのマンションの五十階の部屋に住んでいる。第一管理局が中央区にあるので、モノレールでの通勤時間が短いのが嬉しいところだ。
通勤手段に、赤木や天音は飛行車を使っているのだが、瑛人はずっとモノレールを利用している。運転免許は取ったものの、道のわかりにくい飛行車は苦手意識があり、数えるほどしか運転していない。
モノレールの線が人体の血管のように張り巡らされた機械都市だ。車がなくても移動に困ることはほとんどない。
(それに飛行車を持っているだけで税金を取られるんだ。どう考えてももったいない)
機械都市のマンションはどれも似たような造りをしている。中心に大きな柱を置いて、その周りに部屋のスペースを、ドーナツタワーのように重ねていく造りだ。一つひとつの部屋はそれなりに広い。間取りは2LDKがほとんど。稀に最上階だけ一部屋多くしているマンションもある。高い所に住んでいる者には若干のプレミアが着くらしく、そういった人の部屋はワングレード上とするらしい。
部屋の大きさで人のグレードまで決まるものなのか。と思いはするものも、昔からこういう風潮があるらしい。
中心にある柱に、ハイスペックな機能が搭載されている。住人の健康状態、昨日の食事、気分等を考慮して食事を提供してくれる。各部屋にフードボックスと呼ばれる宅配ボックスのようなものがあり、マンションが作った食事はここに届けられる。必要とあれば、朝昼晩、すべてマンションにお願いして済ませることだってできる。
便利な機能なのだが、瑛人がフードボックスを使うのは朝だけだ。どことなく無機質な食事になっている気がするのと、管理局の食堂で済ませようとするからだ。
今日は任務を早々に終わらせることができ、報告書も提出して、たくさん眠るチャンスだ。しかし、不思議なほどに眠気がなかった。
(こんなに早く帰ってくることないもんな)
いつもと違う時間に寝ようとしても、体がその時間に眠るのに慣れていないので、結局いつもの時間まで起きているという典型例だなと思いながら、瑛人は紅茶のパックを開けた。
アールグレイ。今となっては珍しい、本物の茶葉。紅茶の香りはリラックス効果があるとよく言われる。機械的にその香りを再現できるとしても、やはり実物には敵わないと思ってしまう。
防音設備が優秀すぎて、静かすぎる。
(テレビ……は見る気にならないな)
紅茶を注いだマグカップを持って壁付けされた机に向かって座った。ここが、瑛人の家の中で最もお気に入りの場所だ。座るとちょうど、窓ガラスから外を見ることができるからだ。
地上五十階の部屋は、下の街並みを見るにも、遠くの風景を見るのにも適していた。ただし、「昔であれば」が頭につくことである。
五十階ではまだ低い方だ。住居用マンションでさえ三百階を超えることもあるのだ。それらの建物に邪魔されて、あまり風景は楽しめない。仮に遠くの山が見えるくらいの隙間があったとしても、もうずっと煙の中だ。乱立するマンションのおかげで街の景観はあったものではない。
瑛人は背もたれに身を任せた。遠くの街灯を眺めながら、紅茶を唇につけてデトックス効果を期待する。
最も集中して物事を考えるのに適している時間帯は夜だと瑛人は考えていた。
『静か』
これがとにかく重要なファクターだ。
昼間に目に入る光とは違い、夜の光は静けさを含んでいる。明るいのに暗い。光の元に、光源までに永遠の距離を感じる。
そんなありえない幻想的な世界を感じることができた時、人は自分の中に入り込むことができる。
コトン……。
マグカップを置く音を、極上の音に感じるほどに瑛人は静寂な空間にいた。
(結局、あいつはどうしてスーツを持っていた)
今の段階では「わからない」、が答えだ。それ以上考えても意味はない。少なくとも眠りの時間を削ってまで考える必要のあることではない。
お風呂からブザー音が聞こえた。お湯のたまった合図だ。
夜は集中して物事を考えるのに適した時間帯だ。
しかし、それはいいことばかりではない。集中する方向が自分のことになると、思い出を検索することになる。いい思い出も悪い思い出もすべて、夜の力を借りて次々とさかのぼっていく。
思い出したくないことも思い出す。思い出して笑顔になるような記憶もある。そんないい記憶に引っ付いている余分なものも見てしまうこともある。
下手すると、負う必要のない精神的ダメージを負いかねないということだ。だから、夜は大人しく寝た方がいいことだってあるのだ。過去も今後のことも忘れて、ぐっすりと眠ってしまえ。そうすれば、もしかしたらいい夢を見ることがきるかもしれないから。体も休ませることができて一石二鳥だ。
今夜の瑛人はお風呂のブザーをきっかけにして思考を止めた。お風呂に入ってすぐに寝る。それが、任務を終えた瑛人にとって一番の選択だと。そう結論づけて。
そう思ってお風呂に浸かっていると、もの凄い睡魔に襲われた。
寝てしまわぬうちにお風呂から出て急いで髪を乾かし布団に入ると、あっという間に枕に吸い込まれ、無の空間に落ちていった。深く、安らかな時間の流れる世界へ、今宵も瑛人は誘われる。
……