タイチ
このお話は、何年か前に夫と離婚した女魔法使いと、その一人息子で、タイチという名前の五歳になる男の子の物語です
目次
第1章 タイチとママ
ものほしざお
地下鉄
くじら
カレーライス
展覧会
くすり
海外旅行
指輪
小学校
秘密
自由をわれらに
別荘
ワシとカメ
家系図
第2章 タイチとミュー
1 彼岸花
2 病院
3 床下の小人
4 出会い
5 消えたチュー
6 たいへんな時
7 謎
8 卒業
「タイチ」
第1章 タイチとママ
ものほしざお
ママは、ある朝、仕事に行かなくてはいけないので、とても急いでいた。そのせいで、ついうっかり一つの過ちを犯してしまった。
ママは、タイチを、たくさんたまった洗濯物と一緒に、洗濯機に投げ入れてしまったのだ。
ママは、不注意にも、洗濯物を外に干すときにタイチも一緒につるしてしまったことにさえ気が付かなかった。
でもこのことでママを責めてはいけない。母一人子一人の生活は大変なことなのだ。
ママは、タイチのための昼ごはんをテーブルに用意すると、
「行ってきます。夕方には帰ってくるからいい子にしてるのよ」
と家の奥に向かって声をかけると、いそいそと出かけていった。
タイチがものほしざおの上で意識をとりもどしたのは、お昼近くになった頃だった。
とてもいい天気で、太陽が輝いていた。
タイチは、目がさめると、まず非常な喉の渇きを感じた。とてもいい洗濯日和で、タイチは既に十分乾いていた。
手を動かそうとしたが、左右の服の袖をとおして背中を横切るようにものほしざおが通っているので身動きがとれない。かろうじて両足をばたばたさせることができるだけだ。
タイチは自分が洗濯物と一緒にものほしざおにぶらさがっていることに気が付くまでに、しばらく時間がかかった。
「ママ、ママ」
と、呼んでも返事はない。
喉は渇くし、おなかもすいてきた。
タイチはしくしくと泣き出した。
タイチの周りには、ものめずらしそうに、鳥たちが集まってきた。いろいろな虫たちもやってきた。でも彼らは、タイチを突っついたり刺したりするような意地悪なことはしなかった。
一羽のカラスが、タイチのために水を運んできた。タイチはカラスのくちばしから水を飲むと、やっと少し気分が落ち着いてきた。
鳥や虫たちは、タイチの気分を明るくしようと、歌ったり踊ったりした。
タイチも、しばらくはそのものめずらしさに、自分の境遇を忘れて笑ったりしていた。が、それも束の間。また、ものほしざおの上にポツリとぶらさがっている悲しさがぶりかえしてきた。
日はずいぶん傾いてきたが、まだママが戻ってくる夕方までには時間があった。
タイチのあまりに淋しそうな様子に、カラスを中心として鳥たちが一つの案を出した。
タイチのぶらさがっているものほしざおの上に鳥が集まり始めた。
タイチは、その数の多さにびっくりして恐怖を忘れるほどだった。
十羽、二十羽…。やがてさおの上は、ぎっしりと鳥で埋めつくされた。
一、二、三!
鳥たちは一斉に翼をひろげた。
次の瞬間、タイチと洗濯物をつるしたものほしざおは、空中へと舞い上がった。
ちょうどその頃、ママは魔法学校で講義をしている最中だった。
あまり熱心でない一人の生徒が、窓の外をぼんやりみていて、空を飛んでいるものほしざおに気が付いた。
「おい、見ろよ」
教室中の生地が窓の方へと集まってきた。
「静粛に。自分の席につきなさい」
そう叫んでいたママも、窓の外を飛んでいるものほしざおと、それにぶらさがっているタイチに気が付いた。
ママはあわてて教室から出ていった。
自分が、朝、あわてて、タイチを洗濯物と一緒に洗濯してしまったことに気付いたのだった。
「ありえないことではないわ」
ママは講義を早めに切りあげた。
タイチと洗濯物のぶらさがったものほしざおは、木の枝と枝の間にかけられていた。
ママは急いで、洗濯物とタイチをとりこんだ。
そしてタイチとママは手をつないで、家へと向かった。
「ママ、本当におっちょこちょいなんだから」
予定より早くママに会えて、タイチは上機嫌だった。
手をつないでいない方の空いた手で、ママは洗濯物を抱え、タイチはものほしざおをもって、二人は歩いて帰った。
真上に高く伸びたものほしざおの上には、一羽のカラスが止まり、彼らの帰宅するシルエットが夕日に照らされて長く道に伸びていて、一枚の絵のようであった。
地下鉄
タイチが地下鉄に乗る機会は、そんなに多いわけではない。
街の地下を怪獣のように吠えながら走る列車は、たまに乗る分にはスリルがあって悪くない。でも、肝試しにはいいかもしれないが、毎日というのはちょっとごめんだな。
お昼どきの今だって、人は多くないとママは言うが、席に腰かけられずに立っている人がいる。座っている人たちも、怪獣の暗い胃袋の中に飲み込まれたみたいに、黙ってうつむいている。ママによれば、朝と夕方はもっともっと沢山の人が、列車からはみだすほど乗っているという。でも、それがいやだからといって、車を使って地上に行こうとすると、混雑のために車が動かずに仕事に遅れてしまうのだという。
ママのようにどこにいても仕事ができるというのは稀で、大抵の人はある特別の場所に行かないと仕事ができないらしい。そこに行ってどんな魔法をつかうのだろう? どこでも魔法が使えるわけでないという人は、ママよりも修行が足りないのだろうか?
乗客の中でまず目につくのは、一番隅の席で完全に眠りこんでいる、汚い服をきたおじさんだ。立っている人もいるのに、その隣の席には誰も近寄ろうとしない。
「あの人は何をしているの?」
「何もしてないのよ」
「お仕事は?」
「仕事がないから一日中あそこで寝ているのよ」
「何もできないの?」
「できない人もいるけど・・・仕事をしないことを仕事のしている人も中にはいるわ。」
タイチは、ママのいうことがよくわからなかった。
「…そうね。彼が、何を仕事にしているか見てみましょうか」
ママはある呪文を唱えた。
すぐには何も起こらなかったが、しばらくすると、静かな車内ががやがやしだした。
「ねえ、今、この列車、駅に止まらないで通過したんじゃない?」
と、二十歳くらいの女の子が、隣の男の子を突っついた。
「そんなばかなことはないだろう」
「いやね。寝ぼけていたから気が付かなかったのよ」
騒ぎは、列車が、次の駅もとまらずに通過するとますます大きくなった。その駅は終点の一つ前だった。
「運転手の様子をみてくる」
一人の中年の紳士が、憤然として立ち上がり歩きかけたが諦めた。この車両は、隣の車両と行き来ができないようになっているのだ。
皆、心配そうに、窓に顔をくっつけ、暗くて何も見えない外の様子をうかがっている。
「終点だ!」
ところが、その声をあざ笑うかのように、列車はますますスピードをあげて終着駅を走り抜けた。光が見えたのは数秒だけで、また暗闇が続く。
「衝突するぞ!」
金切り声があがった。
携帯電話で通信を試みる者もいたが、なぜか外とつながらないようだった。
パニックとなった車内で落ち着いているのは、ママと、そして相変わらず眠ったままの例のおじさんだけだった。
タイチの胸の鼓動も高まってきた。
一分、二分、…。
列車は走り続けた。
五分、十分、…。
騒ぎ疲れた乗客達は、めいめいの位置にもどって呆然としている。さっきの若者のカップルはかたく抱き合っている。
「もうすぐよ」
ママがタイチの耳元でささやいた。
「あかりだ。外に出たぞ」
誰かが叫ぶまでもなく、乗客全員が窓の外を食い入るように見つめていた。
薄明かりの中を列車は走っていた。
「雪だ。外は雪がふっているぞ」
街灯の光の下で、雪が光を反射しながら舞っている様子がタイチにも見えた。
今は夏のはずだ、第一、このあたりでは冬でさえ雪が降ることはまずない。
タイチは窓ガラスに触ってみた。ひんやりする。
列車は徐々に速度をおとしていき…やがて、止まった。
そこは、冬の雪国の駅だった。
列車は止まったが、誰も動こうとはしなかった。何がおこったのか、外には何が待っているか、全くわからない。
ちょうどその時、眠りこけていた浮浪者が目をさました。
外の景色をみて、彼はしばらくとまどっている様子だったが、やがて、ふらりと一人扉をあけて外に出ていった。
「おい。凍え死ぬぞ」
誰かが注意した。開いた扉から、雪とともに冷たい風が吹き込んでくる。
誰もそのおじさんの後を追おうとする者は、なかった。
列車の外にでた彼は、あわてた様子もなくあたりをゆっくりと見回し、そしてゆっくりと手をあげて左右に振った。
扉が閉まり、列車がゆっくりと走り出した。
雪の中の駅とその男が、見る見るうちに遠ざかっていく。
「あそこが彼のうまれ故郷よ」
ママは、まだ窓の外を見続けているタイチにささやいた。
「少し遅れちゃったけど、夕ごはんの時間には十分まにあうわ」
列車はしばらくして、また、トンネルに入り…気が付くと、終点に到着していた。
皆、ざわざわしながら列車から降りて、今起きたことを忘れてしまおうとするかのように、足早に出口の方へと向かっていった。
誰もいなくなった車両の、おじさんが座っていた席の下には、先程ふきこんだ雪のせいか、小さな水たまりができていた。
地上にでると、太陽がひどくまぶしくて、タイチはしばらく目をあけることができなかった。
くじら
魔法をかけるというのは、呪文を唱えるだけなのだけれども、これが意外に難しい。
言葉をまちがえてはいけないとか、繰り返しの回数や順番をまちがえてはいけないというのはもちろんのこと、さらに、一つ一つの単語の発音、全体のリズム、イントネーションも正確でなければ魔法はかからないのだ。
(ママは、魔法の精が聞き取れて意味がわかるような呪文でなければいけない、とよく注意する)
それに加えて、呪文に使う言葉ときたら、今では使われていない古代の言葉で、舌や唇をあれこれひねらないと正確な音が出せないとくる。それらしくまねをするだけではだめで、完全な音でないといけないというのだからやっかいだ。
それに、タイチのお手本となるのは、ママだけだ。本もなければ、古代から伝わるビデオやテープなどありはしない。
特に、タイチが苦手とするのは、ママのいう「r」と「l」の区別というやつだった。
苦手だと思って緊張すると、今度は、文全体の調子が狂ってしまう。
そんな呪文の一つに、風呂の中で遊ぶガチョウのおもちゃに生命をふきこみ、その背中に乗って池の上を泳ぐ、というものがあった。ガチョウの背中に乗るのが大好きなタイチなだけに、一層力が入りすぎて失敗するのであった。
「なんでこの呪文には、rが二十回、lが十八回もでてくるんだろう」
「これはいい練習材料だと思うわ。うまくいったときのごほうびも、タイチのお気に入りだしね」
魔法の呪文を唱えるときは、必ずママの前で行うというきまりがあった。
なぜ、ママがいないときはだめなのだろう? 一人で個人練習するのは感心なことだと、タイチは思う。それに、今日のように、ママがずっと仕事で、留守番しているときに、せっかく苦労して覚えた魔法を生かして楽しく遊べないなんて、何のための魔法か分からないじゃないか!
タイチは、一人のとき、例のガチョウのおもちゃの呪文を唱えてみた。
一回め、二回め…。
いつもと同じように、なかなかうまくかからない。
「チェッ!」
タイチは舌打ちしたが、池の上でのガチョウ乗りの楽しみがあきらめきれず、何度もやってみることにする。ママが、脇からいろいろぶつぶつ言ってこない分、リラックスして呪文を唱えることができる気がした。
何回めになるだろう。
「やった!」
と心の中でタイチが思うと同時に、タイチの体は空中へと舞い上がった。
気が付くと、タイチはものすごいスピードで水の上を進んでいた。
いつもの静かな池ではない。
海だ!
そして、タイチが乗っているのは、いつものガチョウではなく、巨大なくじらだった。
必死の思いで、つかみどころのないくじらにつかまる。
せめて、もっとゆっくり泳いでくれたら、もう少し楽だろうに…と思うタイチの視界の前に、何隻かの船の姿が現れた。と思うと、目の前に、大きな音とともに水柱が立ちのぼりはじめた。
どうやら、くじらがこんなに速く泳ぐのは、追われているせいのようだ。
そう気付くまもなく、くじらは海中へ潜りはじめた。
いったいくじらは何分間水中に潜っていられるんだっけ?
思い切り息を吸い込んで息を止める。顔が海中に沈む。時間の感覚がなくなってくる。薄れていく意識の中で、つかみどころのないくじらを夢中でつかもうとする…。
気が付くと、タイチの目の前にママの顔があった。タイチは、元の風呂場で、おもちゃのガチョウを握っていた。
「タイチ、あなた、またrとlの音をこんがらがしたでしょう?」
一人の時は呪文の練習をしてはいけないというママとの約束を破ったことに加えて、またうまく呪文が唱えられなかった自分を、タイチは恥ずかしく思った。
でも、そのことはおくびにもださずに、タイチは別のことを聞いた。
「くじらは?くじらは、無事逃げられた?」
ママは首をすくめていった。
「くじらは魔法使いのペットよ。彼らも魔法が使えるの。心配しなくても大丈夫よ。それよりも、これからはちゃんときまりを守ること!」
今度はタイチが首をすくめてうなずいた。
なぜ、修行の日が浅いタイチが一人で呪文を唱えてはいけないか? それは、中途半端な呪文は、単に魔法がかからないというだけでなく、別の危険な魔法を知らないうちにかけてしまう結果になる危険性があるからなのだ。
言葉のいいまちがいで、人を傷つけることだってある。
カレーライス
今日の夕食はタイチの好きなカレーライスだ。
「ママのつくるカレーライスはおいしいね」
「当たり前じゃないの。なにしろ、これは食べた人が幸福になる、魔法のカレーライスなんだから」
「じゃあ、不幸な人もこれを食べたら幸福になるの?」
「そうよ」
「じゃ、もっと沢山の人にこのカレーライスを食べさせてあげればいいのに」
「そうよね。ママもそう思って、一度、ある人にこのカレーライスの作り方を教えてあげたことがあるの」
そういうと、ママは、タイチに語り始めた。
彼は、三十一歳の時にいままで勤めていた会社を辞めた。
同僚や上司の姿をみるにつけ、このまま勤めていても、彼の期待するような人生の変化は望めないと思ったからだった。たとえ、彼自身が、自分の期待が何かとは具体的にこたえられないにしても。
ただし、彼は無計画に会社を辞めたわけではなかった。
退社前の五年間、仕事が終わると、料理学校で料理の腕を磨いた。退社後は、今まで貯金したお金で世界中を旅行して、各国の料理を食べ、調理法の研究をした。
彼が、魔法のカレーライスの作り方をママに教わったのは、この修業中だった。
そしてついに、彼は自分の店をかまえることになった。
それは、彼にとって新しい生活だった。朝早く起きて電車で出勤する代わりに、夕方に起きて自転車で店に向かった。途中、材料の買い出しをして、夜八時から店を開いた。
店が混み始めるのは、真夜中すぎからだった。
お酒と簡単な食事。そして、特別メニューは、食べた人が幸福になるという謳い文句のカレーライスだ。
店は夜通し営業し、朝の六時に閉めた。
二つの変化が彼の生活に起こった。
一つは、料理の味がよく分かるようにと煙草をすわなくなったこと。
もう一つは、今の生活が変わればいいと思うかわりに、今の生活がいつまでも続くようにと願うようになったことであった。
魔法のカレーライスは人気の的になった。
食べたことのあるカレーの話は、美味しいが、食べたことのないカレーの話は、おいしく感じられない、しかし、食べたことがないから食べたいという人だっている。おいしさは、結局、食べてみなければわからない。
「もちろん、秘密はスパイスにある。でも、他に、玉ねぎは形が消えるまでしっかり煮込むこと。そして、ジャガイモは、電子レンジで火を通したあと、少しだけしか煮込まない。それもおいしさの秘訣さ」
実際、このカレーライスは、おいしいだけでなく、ある効果があるということで、評判になった。
食べた後、不思議な力がわいてきて、困難な仕事や複雑な人間関係が、魔法を使ったかのように解決するのであった。
食べた者達の目は、自分達の周囲の状況だけにとどまらず、自分達の外にある状況…社会全体にも向かっていった。個人を取り囲んでいる社会の問題を解決していかない限り、個人の問題は解決しても、際限なく現れてくるというのは、ある意味で当然のことである。
沢山の人が、彼の魔法のカレーライスを食べて、力を得て、不幸を克服していった。その数が増えていくにつれて、その力を社会全体の改革に使おうとする流れが自然にでき、徐々に大きくなっていった。
彼自身は、そういう自分のカレーライスがもたらしている影響に気付かず、毎晩、喜んで食べてくれる客に、カレーライスを出し続けた。この生活に満足し、生き甲斐を感じていた。
しかし、人は、ことがおこってから初めて後悔し始める。
彼の幸福のカレーライスがもたらした力で、人々は社会の革命を引き起こした。すべての不幸がこの地上から消え去るために。
革命の混乱は大きくなり、彼の店の営業も難しくなってきた。
彼は、革命などどうでもよかった。彼にとって大事なのは、ずっと今の店と生活が続いていくことだったのである。
閉店の日、彼は自分の幸福が壊れてしまったと感じた。一人、店の中で、自分のつくった「人を幸福にする魔法のカレーライス」を食べた。せっかくの味が、涙で塩辛くなって、変わってしまっていた。
「ごちそうさま。おいしかった!」
タイチは満腹になり満足だった。もしかしたら、ママの話は、半分くらいしかタイチには分からなかったのかもしれない。
(確かに、このカレーライスは効く)
と、タイチは考えていた。昼間、お気に入りのミニカーを壊して悲しかったことなど、このカレーライスを食べたらどこかへ行ってしまった。
「ねえ、ママ、また遊んでもいい?」
「いいわよ。でもその前に、ごはんのお片づけ、少しだけ手伝ってちょうだい」
「うん、わかった」
少なくとも、ママとタイチの二人は、このカレーライスを食べて、今、幸福な気持ちになっていた。
展覧会
タイチはママと一緒に美術館にいくことになった。
ママの友達の絵描きさんが、そこで個展を開いているという。ママとタイチをモデルにした絵も飾ることになったから、是非おいでくださいと招待されたのだ。
美術館は、車で数時間走った森の中にあった。二人が着くと、あごひげをたくわえた色白の若い男の絵描きさんが迎えてくれた。
「ようこそいらっしゃいました。ごゆっくり」
館内には、沢山の絵や彫刻が飾ってあった。
羊が空を飛んだり、目が前に飛びだしたりしている絵は楽しかったが、悲しそうな顔や怪我をした人の絵は少し怖かった。
「どうしてこの人は裸なの?」
と、タイチはひとつの彫像を指さした。
「まじめな顔をした人なのに」
「どうしてでしょうね」
と、ママと若い画家は笑った。
「ちんちん、触ってもいいかな?」
なぜか、二人は一層わらった。
「触ったら大騒ぎよ」
タイチは、ちょうど手をのばせば届くところにある、裸の彫刻のちんちんに触ってみた。
たちまち警報ベルがなり、警備員がとんできた。若い画家が説明すると、その警備員は恐い顔でタイチをひとにらみして、また戻っていった。
「人前でちんちんを出しているのがよくないんだよ」
「そうね。タイチはそんなことしちゃだめよ」
ママは楽しそうに言った。
ママとタイチは、自分たちが描かれた絵の前にやってきた。それは、二人が手をつないで、夕暮れ時に歩いている絵だった。タイチは、あいた片手に長い棒(「たぶん、ものほしざおだ!」とタイチは思った)を持ち、その棒のてっぺんにカラスがとまっていた。
自分が描かれているというのは、少し気恥ずかしい。二人は、すぐ他の絵の方に移動した。
次の絵は、青く長いコートを着て、バイオリンを弾いている人の絵だった。
「なにか疲れているみたいだね、この人」
「そうね、練習のしすぎか、それとも、誰も自分のバイオリンを聞いてくれないか…」
タイチは、妙にその絵の中のバイオリン弾きのことが気になった。
二人は、その若い画家に別れを告げて、家に戻ってきた。
家に帰ってからも、タイチは、その青いコートのバイオリン弾きのことが気になっていた。
あの男の人は、友達がいなくてバイオリンだけが友達なのか?
それとも、誰も、彼のバイオリンが上手だと、ほめてくれないのか?
ぼくは、一生懸命、魔法のトレーニングをしているけど、一番つらいのは、ママ以外の人には秘密にしておかなくちゃいけないことだ。でも、あの人の場合は、魔法でなくバイオリンなんだから、人に隠しておく必要はないはずだし。
タイチは、ママに、あのバイオリンの音色を聞かせて欲しいと頼んだ。ママだったら、そういうことも魔法でできるにちがいない。
「あら、そうなの。それならちょうどいいわ。今晩、あのバイオリン弾きはパーティーで演奏するらしいから、そこに参加したらいいと思うわ」
「それはどこなの?」
「あの美術館だけど…大丈夫。今からでもまにあうわ。近道があるのよ」
ママはタイチの手をとり、家の奥にある扉の前に立った。
二人はしばらく目をつぶった。
そして…ママがその扉をあけると、そこは昼間の美術館だった。
パーティーには沢山の人が来ていた。
バイオリン弾きの演奏はすばらしかった。彼の顔は輝いていた。拍手する者こそいなかったが、楽しそうに踊る人々の様子そのものが、彼に対する拍手に他ならなかった。
暑くなってきたバイオリニストは、青いコートをぬいで、真面目くさった裸の彫像の人にそれをわたした。その彫像は、しかめっつらでコートを受け取り、袖に手を通したが、ちょっぴり嬉しそうな様子だった。
タイチとママも、楽しく、バイオリンにあわせて踊った。めちゃくちゃな踊り方だっただが。
あまりに動きすぎて、タイチは、描かれている人や物が外に抜け出して真っ白になっている絵の額縁の一部に体をつい触れてしまった。
警報ベルがなった。
警備員がやってくる!
人々は、自分のいた元の絵の中にあわてて戻っていく。
タイチもママにひっぱられて、二人がモデルになった絵の方へと突進していった。
警備員が到着し、館内の照明をつけると、あたりは静まり返り、パーティの名残は既になかった。
警備員はあたりを観察した。彼は、一つの異変に気付くと、電話のところにいき、受話器に向かって怒鳴り始めた。
「いたずらです…所長…盗難はないようです。ただ、誰かがあの裸の彫像に、青いコートを着せたようです…いえ、傷はついていません…悪質ないたずらです…人騒がせにもほどがあります…」
だが、その警備員は、絵の中のバイオリン弾きの青いコートが消えているという、もう一つの異変には気が付いてないようだった。
くすり
「この魔法を使うときには呪文はいらないのよ。上手につくったくすりは、誰がそれを飲ませても、魔法の効き目がでるの。でも、そういうくすりをつくるまでは手間がかかるし、複雑な手順を覚えるのが大変」
ママは、くすりづくりのために、台所のテーブルの上に鍋やお椀やコップ、牛乳瓶、庭からとってきた草花などをずらりと並べた。
人を動物に変える魔法のくすりをこれからつくろうというのだ。
でも、見る限り、いつものごはんの準備のときと大きな違いはない。
ママは買い物袋の中から、ビニール詰めになった茶色い粉末をとりだしてきた。ビニールを破ると少し臭い。
この茶色い粉と水を鍋の中にいれる。
さらに、レモンをしぼった液をこれに付け加える。
鍋を火でぐらぐら熱したあと、また冷やして、布でこす。布の上に残ったカスは捨てる。こされた、濁った茶色っぽい液体を、大きなびんに詰め直す。ちょっと酸っぱい感じの匂いがする。
次に、この茶色い濁った液を、五本くらいのからの牛乳瓶の中に注ぎ、ガラスのコップでふたをする。この牛乳瓶をまたぐらぐら沸騰した鍋の中に入れて暖める。
しばらくして、また、この牛乳瓶を鍋から外にだす。ガラスのコップのふたをあけ、庭からとってきた草の葉や花や根を牛乳瓶の中に入れて、再びコップをかぶせる。
「今日はここまででおしまい。さあ、これからぶどうを買いに市場にいきましょう」
「ぶどうを?」
「くすりを飲みやすくするために、ぶどう味にするのよ。タイチは苦いくすりは飲めないでしょう?」
「ぼくもこのくすりを飲むの?」
「そうよ。タイチは飲みたくないの?」
飲んだら動物に変わってしまう危険なくすりだ。飲まなくて済むものなら飲まない方がいい。
「そんなに心配しなくていいわよ。第一、動物になっている間は、人としての意識がなくなっているし、人に戻ったときは動物のときの記憶は消えてしまっているのよ」
ママの説明を聞いて、タイチはますますこわくなった。
ママは、おどおどしているタイチを尻目に手早く化粧をすませ、買い物かごを手にとった。
「さあ、行きましょう」
赤いブドウを買って家に戻る途中、タイチとママは道で寝そべっている一人の男に出くわした。
それをよけて急いで通り過ぎようとするタイチとは別に、ママはその前で立ち止まってじろじろとながめた。
「ママ、早くいこう」
「大丈夫よ。この人、昨日、トラになったあと疲れて眠っているの」
タイチは好奇心にかられて、ママの体の後ろに隠れながら、そっと寝ている男の様子をうかがった。
「くすりが上手につくられてなかったんだわ。そのせいで、人間に戻った今でも寝続けているの。上手につくってあれば、こんなことはないんだけれど…」
「ママのくすりは大丈夫?」
「もちろん。」
「ぼくも、やっぱりトラになるの?」
ママは首をふった。
「いいえ。子供は、トラでなくカエルになるのよ」
それから毎晩のように、タイチは自分がカエルになった夢をみた。その中には、以前タイチがカエルにいたずらしたように、ビニール袋の中に入れられたタイチが、たき火の上で焼かれてしまうという恐ろしい夢も混じっていた。
一ヶ月後、とうとうママのくすりが完成した。
牛乳瓶の中で草花や根と混ぜた濁った液は、ブドウといっしょに、また別のカメの中にいれられ、カメの上には重石がのっていた。
「たき火をして、カメをぐらぐら煮えたぎらせないでいいの?」
「いいのよ。このまま、涼しいところに一ヶ月くらい置いておけばいいの」
「カメの周りでぼくたち、踊るの?」
ママは笑い出した。
「なんでそんなことしなきゃいけないの?」
「だって、図書館で借りた絵本には、魔法使いはヘビやネズミを入れたくすりをたき火でぐらぐらさせて、その周りを夜通し踊り明かすって」
「ママは本当の魔法使いよ。その絵本を描いた人は魔法使いじゃないし、実際に自分で見たことじゃない、ただの噂を描いただけのことよ。ママのやり方が本当なの」
「そうだよね」
絵本の魔法使いと違って、ママは若いし美人だし、うんとやさしい。それはタイチもよく知っていることだ。
それでも、完成したくすりをいざ飲むときには勇気がいった。やさしいママが、タイチにいやなことをするはずがないと分かっているのだけれども。
ママは、カメの中から、ひしゃくを使って、腐って泡立っているブドウを布の上にのせて、それを絞ってできた液体をタイチにさしだした。カスはとれているが、その液体は赤くて少し濁っていた。
タイチは一気にくすりを飲んだ。
苦くはないが、少し酸っぱくて、おいしい物ではなかった。まず胃のあたりが、そして全身が熱くなってきた。頭がぐるぐる回りだした。気持ち悪くはなかった。むしろ、空中にぷかぷか浮かぶような、不思議な気持ちだった。
タイチは気を失った。
目が覚めると、タイチはベッドに横になっていて、すぐ隣にママがいた。
「ママ、ぼく、ちゃんとカエルになった?」
「ええ、とってもかわいいカエルだったわよ」
「そう…。ちっとも覚えてない。」
「それでいいのよ。でも、カエルだったことは忘れてもいいけど、くすりの作り方はちゃんと覚えておくのよ」
海外旅行
「まだ小学校にも入ってないのに、海外へいくなんてちょっと早いと思うんだけど…」
と、ママは少ししぶっていた。
「ママと一緒なら、どこへ行こうが同じだよ」
と、タイチはいった。
本当にそのとおりなのだ。
ただ、そこは、とても遠いところなのだ。
いつもの、4WDの車に乗って、タイチとママは家を出た。
「海外へは、飛行機でいくのが本当なの。でも、今回は急いでいるから、近道をとることにするわ」
運転しながら、ママは言った。
やがて海岸が見えてきた。
「船でいくの?」
「いいえ。船でいくのは、飛行機よりも、もっと時間がかかるわ」
「どのくらい?」
「半年くらいかしら? タイチの小学校をそんなに休むわけにはいかないわ」
タイチは目を丸くした。そんな遠いところへ行くとしたら、魔法が使えるならどんなに楽か。
しばらく車は海岸沿いを走った。
そして、やがて車は方向を換え、砂浜に降り、海に向かい始めた。
「ママ、前は海だよ」
「そのとおりよ。海水が入らないように、窓をしめるわ。一番近道をとるのよ」
車はそのまま海に入っていった。
二人をのせた車は、全速力で海底を走り続けた。
タイチは、窓の外からみえる魚の群れをあきもせずにながめ続けた。
タイチが眠りからさめると、車はいつのまにか陸の上を走っていた。
「もうすぐよ」
海底のように広い平原を突っ切ると、やがて高層ビルが見えてきた。
周囲の車の数も徐々に増えてきた。そして、その車を運転しているのは、タイチが今まで数人しか見たことのない外国人ばかりであった。あと、これはママに言われて気付いたことだが、車は右側を走っていた。
でも、ママと一緒だからこわくなんてない。
車はある十階建てのビルの下で止まった。
二人は車をおりてエレベーターに乗り込む。ママは「9」のボタンを押して言った。
「十階よ」
タイチは細かいことを聞くのはやめた。9だろうが10だろうが、ここはガイコクなのだ。
二人は十階のある部屋を訪ねた。
その中には、十何人もの、おじいちゃん、おばあちゃんがいた。日本人の、今までタイチが会ったことのないおじいちゃん、おばあちゃんたちだった
タイチとママはおまんじゅうを出してもらった。
「お待ちしてましたよ。頼りにしてます」
髪の毛のない、白いひげをはやした、代表者風のおじいさんが嬉しそうに頭をなでた。
「言葉が通じないっていうのは本当に不便で」
「この息子の小学校の入学式が控えていて、ゆっくりできませんの。すぐ仕事にかかります」
「お願いします」
その白いひげのおじいさんと二人は連れだって、その部屋をあとにした。
ママは、タイチの知らない言葉で、ある外人と話をしていた。
呪文の言葉とは違っていた。
もしかしたら、犬や猫の使う言葉もママは話せるかもしれない、とタイチはふと思った。
やがて、ママとその外人は、一緒にくるまの中に乗り込んできた。
「xxxxx…」
言っていることはなんとなく分かった。
「こんにちは」
タイチもあいさつをした。
その外人をいれて、タイチたち四人になった車は、再び老人たちの集まる部屋へ戻った。
そこで、その外人は、集まっている老人たちに、そのタイチの知らないママが話していた言葉を教えた。
授業は二時間ほどにおよんだ。
外人が帰ると、ママとタイチは老人達に見送られて、また日本へと引き返した。
また美しい海の魚を見ながら、タイチは考えていた。
外国は分からないことばかりであったが、タイチには一つ嬉しいことがあった。それは外国では日本語を使わないということであった。それがなぜ嬉しかったかというと、いつもタイチの勉強している魔法の呪文を理解できるのがママとタイチの二人しかいないので、時々淋しい思いをしていたからだ。今回は違ったが、もしかしたら日本でない外国に、魔法の呪文を話す人が集まっているところがあるかもしれない。
「ねえ、どこか外国で、みんなが魔法の呪文をしゃべっている所ってある?」
ママは首をふった。
「いいえ、魔法の呪文は、今の言葉でなくて、大昔の言葉なの。今、これを使っている国はどこにもないわ」
タイチはがっかりした。
「でも、魔法の呪文をわかる人はそれぞれの国に何人かずつ今もいるわ。タイチがもう少し大きくなったらそういう人達に会わせてあげる」
タイチは嬉しくなった。
今回のママの仕事についてタイチが理解できるまでには、かなり時間がかかった。
大きくなってからふと手にした雑誌の中の一つの記事が、タイチに初めての海外旅行のことを思い出させたのであった。
「困難な老人移住計画」
十年前に計画された、海外への老人移住計画の見直しが迫られている。
これは、日本より物価が安く、福祉の整っている外国に老人ホームを建設し、より豊かな老後を送ってもらおうというアイデアであったのだが、十年たった今、移住したほとんどの老人たちが、不安、不満を訴えている。特に大きい問題は、現地の言葉がなかなか修得できないということで、これは、もともと外との接触が少ない老人にとっては言葉の通じないことは問題でなかろうという当初の予想を裏切るものとなった。外国では予想以上に老人たちが外との接触の機会が多いという皮肉な豊かさが、この移住計画では日本的発想によって見落とされていたようである。
指輪
タイチとママは、また車にのり、海底を走り、別の国にやってきた。
(言葉が通じなくても、通じる)
最初は、前の国で、外国語の授業の学校を見学して、外国語を身につけるのは大変だと感じ、この国の人と言葉が通じる魔法をママにかけてもらおうと思っていたし、なんでママはそういう魔法をかけてくれないんだ?と恨んでいたタイチだったが、現場を経験するにつれ、だんだんとわかってきた。
「ジャンケン、知ってる?こうやってやるんだ。同じだよね。一緒にやらない?そうそう、そんな感じ。いいね。楽しいかい?もっとやろう。もっと友達呼ぼう」
そのくらいの話は、言葉がなくても十分伝わるものだ。
そこは、いわゆる紛争地で、ママとふたりでめぐるうちに、少年兵の訓練所がある、ある村にやってきた。
タイチと同じくらいの少年が(そして、ときには、多くはないが少女までも)、大人たちから銃をわたされ、訓練されて、そしてその後、そこから実戦の最前線へと出ていくのだ。
タイチは、そんなところに、ママや自分は場違いだと思った。でも、笑われてもいいさ。どうせ、自分は、言葉も話せず、武器ももたずに、こんな危険なところにやってきた「いかれた奴」なのだから。
少年兵たちの寝るテントの横で、ママが車からおろし組み立てて設置したのは、子供用の室内用トランポリンだった。大きなバッグからとりだし、二つ折りになったトランポリンを広げるときは、手をつかわず、足で広げるように、と書かれていた注意書きをみながら作業した。そして、4つの短い脚をとりつけた。
それは、子供用といっても、直径120cmくらいの大きさがあり、体重150kgの大人が飛び跳ねても壊れない頑丈なものだ。
屋外に設置しているので、天井の高さなど気にすることはなかった。
タイチは何回か、そのトランポリンで飛んでみせた。
そして、次は少年兵たち。
思ったより、彼らは、そのトランポリンが気にいったらしく、彼らは次々と、交代して、飛んだ。行列ができ、順番待ちがでるほどの盛況ぶりだった。
トランポリンで飛んでいる時、彼らは、死と隣り合わせの、少年兵としての任務を束の間忘れて、その顔はやわらぎ、年相応の顔にもどっていた。
(こんなことで、彼らに喜んでもらい、仲良くなれるなんて)
トランポリンこそ、魔法そのものだった。
少年兵たちの様子を、ママに話すと、ママは小さな黒い箱をとりだしてきて、タイチに言った。
「少年兵から銃をもらって、そのブラックボックスの上から銃をさしこんでみて」
「銃をもらう?」
彼らにとって、銃は命だ。そんなたやすく、こちらのいうことを聞いてくれるだろうか?
それでも、タイチは、少年兵の中で、いちばんトランポリンを楽しんでいた、彼らの中でも、もっともたくましい精悍な少年兵の一人に声をかけ、身ぶり手ぶりで、その銃をこの黒い箱の上からさしこむように伝えた。
その少年兵は、自分がもっていた銃の銃口をタイチにむけて狙いをつけた。
一瞬、恐怖がタイチを襲った。だが、すぐ、少年兵は銃口をおろした。
そして、ゆっくり、銃を黒い箱の上からさしこんだ。
銃は、箱に吸い込まれて消え、その箱の中には、金属でできた指輪が残った。
その少年兵は指輪を自分の指に嬉しそうにはめると、今度は他の少年兵たちを呼び、なにやら言った。すると、少年兵たちは次々と、自分のもつ銃を、箱の中にいれていった。
そのたびに、銃は消え、箱には、金属性のアクセサリーがうまれていた。指輪、首輪、ピアス、バッジ・・・。
どうやらその黒い箱は、銃をいれると金属を溶かして、その金属から、アクセサリーをつくりだすことができるもののようだった。
すべての少年兵たちは、銃のかわりに、金属アクセサリーを手に入れた。
そして、少年たちは、それをもって、嬉しそうに自分たちのテントに戻って行った。
「よかったね。ママ」
しかし、ママは悲しそうに首をふった。
「ここは、少年兵のための軍事訓練場所なのよ。銃をどこかでなくした少年兵たちは、大人の軍人に、これからどんなつらい目にあわされるかわからないのよ」
タイチは、はっとした。
「彼らを助けてくれ」
「大丈夫、心配しないで。この魔法は、一晩しか効果がないの。でも、一瞬でも、喜んでもらえたのなら、それで役に立つと思わない?」
そうだろうか?
魔法の力はここまでなのだろうか?
魔法をもっと他の何かにつかえないのだろうか?
日本に戻る車の中、外を泳ぐ、深海の魚たちの姿をみながら、タイチは繰り返し、自問自答した。
疲れて、眠りにつくまで。
小学校
タイチは小学校に入学した。
ママは簡単に「魔法の勉強は、学校がすんでから毎日少しずつ続けていきましょうね」っていうけれど、これは結構大変なことなのだ。
友達とのつきあいや、学校の宿題など、小学生といえども忙しく、暇をもてあましているわけではない。
それにママの魔法ときたら、そういうことにちっとも役にたたない。
ぼくから言わせれば、ぼくの友達はママに負けないような魔法を使うことができる。
九九をすらすらいえる。
かけっこが速い。
ゲームが上手。
どうしてこんなことがすらすらできてしまうんだろうと思えることがいっぱいある。
最初は彼らがどんな呪文を唱えているのか教えてもらおうと思ったけれども、やがてそんなことより自分で練習するほうが、時間がかかるようにみえても結局は早いということが分かったからやめた。
たとえば、一度、ママに頼みこんで、ようやくフルートを鳴らす呪文を教えてもらったときのこと。
音楽の先生はしかめっつらをして、「隠しているテープかCDを出しなさい」ってぼくに言うんだ。
教室のみんなはどっと笑ったけれど、ぼくときたら、カセットテープを目の前に出す魔法はどうやったらいいのだろうと途方にくれてしまった。
もっとも、その先生も、どうしてもカセットテープがぼくのところから見つからないので、首をひねっていたけれど。
遠足の前の日になると、ぼくはママと一緒にてるてるぼうずを作って、窓の外にかけて、明日晴れますようにと魔法の呪文を唱える。
だから、ぼくらの遠足はいつもいい天気になる。
でも、それが、ぼくとママの魔法のせいだとは誰も思わない。
なにしろ、遠足の前の日になると、クラスの何人もの友達がてるてるぼうずをつくるのだから。
それにある友達はぼくに言った。
「ばかだな。てるてるぼうずなんて迷信にきまっているじゃないか。今の時代は天気予報っていうのがあるんだ。天気予報が雨っていったらその日は雨、晴れっていったら晴れになるんだ」
確かに天気予報の言うことはだいたいそのとおりになることが多い。
ただ問題は、天気予報は、ぼくらが思っているようには天気を変えてはくれないということだ。
ママは、くじらをプールに浮かべたり、自転車で空をとんだりする魔法を人前で見せてはいけませんとぼくに言う。
でも、ぼくが、友達に見せることのできない魔法の修業をしている間に、友達は、勉強したり遊んだりしている。
誰にも見せられない魔法の修業をしても、見せられないならそれは何もしていないのと一緒なんだ。
だから、一度ママに、もう魔法の修業はしない、と言ったことがあった。
そのとき、ママは何を思ったのか、ぼくを映画館にはじめて連れていってくれた。
広い部屋が暗くなると、目の前のスクリーンの中で次々と魔法がくりひろげられる。
恐竜をよみがえらせたり、マスクをかぶって変身したり、ほうきにのって空を飛んだり…(この最後の魔法はぼくでもできるけれども!)。
ぼくはとても興奮して、映画館の帰り道、ママに、大きくなったら映画をつくるんだと話した。
でも次の日、ぼくが友達に、映画館の中の魔法のすごさをしゃべると、ぼくは完全にバカにされてしまった。
あれは、「特殊撮影」という、カメラと仕掛けを使って、実際には起きていないことを、起きているように見えるように目をごまかしているだけなんだと。
映画はそうなのかもしれない。でも、ママが魔法を使うときにはカメラなんて使っていない。
このことでぼくは二つのことを学んだ。
一つは、もちろん映画は魔法ではないということ。
もう一つは、ママの言うように、友達の前で魔法を見せたり魔法についてしゃべったりしてはいけないということ。
映画監督になるという夢はすぐにしぼんでしまったけれど、今、ぼくが大きくなったらなりたいものが一つある。
それは「探偵」だ。
彼らが犯人をつかまえるのには、すごい魔法を使っているにちがいないからだ。
その夜、ママとタイチは、家の外に出て空をみあげながら、一緒に音楽を聞いた。
美しいピアノの旋律を奏でるのは、夜空に大きな指を広げて動いている、ブラックファントムだ。
秘密
タイチは、ママと一緒に、映画を見に行くのが大好きだった。
電車に乗って、大きな駅でおりる。
ママに言わせると、今回の映画に出てくる魔法使いの学校の名前は、実際にイギリスにある魔法学校の名前と同じだという。日本でも、同じような魔法学校はあるが、それは中学生からだという。
「もちろん、映画は映画。呪文も本当とは違うし、魔法の内容も実際とは違うわ。でも、ときどき、本当の魔法が人々の目にふれたときの情報を少しずつ寄せ集めたのかしら…なかなかいい話になっていると思うわ」
ママは、子供の映画だって、アニメや怪獣映画でも、映画ならなんでもおもしろい、という。
ママは映画をみるだけでなく、映画館の雰囲気自体が好きなようだ。
映画館へ向かう大通りの歩道は人でいっぱいだった。絵や装飾品を売っている人。楽器を演奏している人などもいる。
その中で、みすぼらしい身なりで、目の前に、なにやら紙の束を積み上げてそれを売っている男の人にタイチは興味がひかれた。
「なにを、売っているの?」
「詩集らしいけど。一冊百円」
「詩集?」
「短い言葉で、自分の気持ちを上手に伝えようとした本のことよ」
「そうか、それであんな小さい本なんだ」
それは、印刷され製本されたものではなく、小さな子供が遊びでつくるように、紙をはさみなどで切りそろえ、ホッチキスで止めたものだった。
「お金をだしてでも、自分の本をよんでもらいたい人がいるというのにね」
ママの言うとおり、誰も百円をおいて、その紙の束を買おうとするものはいない。タイチが読みたいというので、ママは百円をおいて、一冊手にとった。その男の人は売る気はまるでないようで、ずっと居眠りをしていて、一冊買ってくれ人が眼の前にいることに気付かないようだった。
「何が書いてあるの?」
と、たずねたタイチにママは答えた。
「どうやら、魔法の秘密についてよ」
タイチは驚いた。魔法の秘密を知っている人がいるなんて、そしてその人が、みんなにそれを本で教えようとしている。
タイチは言った。
「ママ、それはまずいよ。あの本、なんとか他の人の手に入らないようにしなくちゃ」
「どうせ売れないから心配する必要はないよ」
「でも…」
タイチはママに、その山積みの『詩集』の内容を他のものに書き替えるよう頼んだ。
二人が去ったあと、その山積みになった本が、急に人々の目に止まり、あっという間に本は売り切れてしまった。
眠っていた浮浪者風のその男の人は、起きてみると、本が一冊のこらずなくなり、百円玉の山ができているのをみて驚いた。
「おれって、本当は才能があるのだろうか?」
買った人々も驚いていた。
「もしこれが、まだ書かれていない、あの有名なシリーズの本の最終巻と同じ内容であったとしても、そうでなかったとしても…まちがいなく傑作だ」
自由を我らに!
タイチがママと映画を観にいったときの話をもうひとつしよう。
帰りの電車を待つプラットホームで、タイチは興奮しながら、今観てきたばかりの映画の感想をママに話していた。ふと、ホームの一部からもくもくと煙があがっているのにタイチは気付いた。
「何、あれ?火事?」
「あれは喫煙所。タバコの煙が出ているのよ」
「タバコ?」
「体に害があったり、人を火傷させたり、地面を汚したりするから、タバコを吸う人は、ああいう風に一個所に集められているの」
「タバコを吸うのは良くないことなの?」
「良くないと言われているけど、ママは、皆がいうほど悪いことだとは思ってないわ。ただ…」
「ただ?」
ママは、少し首をかしげて言葉を探しているようだったが、やがて言った。
「タバコは、もともと『時間どろぼう』たちが、タバコを吸うことで、時間を煙に替えるのに使われていたのよ。もちろん、今はもう、『時間どろぼう』たちはいなくなっているから、その名残りにすぎないんだけどね」
「そのどろぼうはこわいの?」
「時間というのは、なくなったら困るものよ。まあ、ある意味、今、タバコを吸う人は、他人でなく、自分だけの時間を煙に変えて失っているようなところもあるけど。自ら望んでね」
「ふーん」
「よかったら見に行っておいで」
「いい。こわいもの」
「こわくなんかないわ。まあ、それなら、ママが、昔ある人にタバコを吸えないように呪文をかけたときの話を教えてあげましょう。魔法はこんな風だった。その人が、タバコを買いにいくと、タバコが売り切れていて店にないとか、自分のポケットに金がないとか。人からタバコをもらって吸おうとすると、ライターが手に入らなかったり、強い風や雨で火がつかなかったり。一週間くらい、面白くて、続けてみたの」
「ママは、意地悪が好きなんだね」
「意地悪じゃなくて、その人のためにやったことなの。時間の使い方は、煙にするだけじゃなく、いろいろあることを教えたかったのよ」
「それで?」
「彼は、最初はすごくいらいらしたし、自分の不運をなげいた。でも、あまりにも偶然が続くものだから、これは神様が禁煙を自分にすすめているにちがいないと思うようになったの。それに、彼自身も、何回か禁煙を試みたことがあって、止めたいという気持ちは少しあったようだし」
「そして彼は自分の時間を取り戻した。少なくとも、タバコを吸う場所や時間や、あるいはタバコの手にはいる所を、いつも探しているという状態からは自由になった。彼自身も、タバコから解放された喜びを確かに感じた」
「でも、一週間後、ママが魔法を終わりにすると…結局、また吸いはじめた。意志が弱いからじゃないと思うわ。彼は、自由であることより不自由であることの方がいいと思い、タバコを吸うことの方を選んだと思うの。人は、必ずしも、居心地のいい方を選ぶとは限らないのよ」
そのとき、二人が待っていた電車がホームに入ってきて、二人は乗り込んだ。
タイチは、ゆっくり走り出した電車の窓から、ママから聞いたその『喫煙所』を見ることができた。あっというまに電車はその前を通りすぎた。
と…また、ママが何かやらかしたのだろうか?
駅から遠去かっていく電車のうしろで、喫煙所からでる沢山のタバコの煙が一本のひとつの束になって、ある文字を空に描いていた。
「自由を我らに!」
別荘
奴は、ぜったいに子供ではない。
だって、ぼくは見てしまったんだ。
ママとぼくは、夏休みに山の家で暮らしていた。
いつもと違う家(別荘)だ。
何日かして、少しぼくが退屈してきているのをみて、ママは言った。
「おとなりの家にも、どうやら、子供がいるみたいだから、遊ぼうって、声をかけてみたら?」
となりのおじさんは、よく庭に出て、大きな木のテーブルの前に座って、書きものをしていた。そして、そのおじさんが仕事をしているとき、時々、その前に子供が座っていた。ただ、いつも背中を、ぼくらのほうに向けて座るので、なかなか顔を見ることはできなかった。
でも、ある日、ぼくは見てしまった。
その子供は、『葉巻』をくわえていたのだ。
ぼくらは、そこで二週間ほどくらした。
ぼくは、(となりの家でない)近所の家の、ぼくと同じくらいの女の子と仲よくなり、楽しく過ごすことができた。正直、夏が終わり別れるのがつらい気持ちだった。
その後、例の『葉巻』をくわえる奴とは、顔を合わせることはなかったし、ずっといたことさえも忘れていた。
明日、山の家を出るという、最後の日、ぼくは、その女の子と、ぼくの家の庭で遊んでいた。すると、となりの家のおじさんが庭に出てきて、また木のテーブルに向かって仕事をはじめた。
ぼくは、急に奴のことを思い出した。
しかし、奴が出てくることはなかった。
おじさんは、仕事がなかなかはかどらないらしくて、テーブルの上ではなく、どこか遠くの木をぼんやりながめていた。長い間そうしていた。
ちょっと、おじさんは寂しそうに見えた。
ぼくは、勇気を出して、おじさんに話しかけてみた。
おじさんは、ぼくと女の子を、自分の庭のほうへ呼びいれ、ぼくらは、低い垣根を越えた。
おじさんは、ぼくらを椅子にすわらせ、テーブルの上に、ケーキとジュースを出してくれた。
ぼくは、おそるおそるたずねた。
「あの…時々、おじさんが仕事をしているときに、前にすわっていた子供は今どうしてるの?」
「あら、おじさんのところにも子供がいたの?パパやママは、おじさんは、ひとりで家でくらしながら、小説を書いているって、言っていたけど。」
と、女の子はいった。
「おじさんの仕事は、小説家だったんだ」
「パパやママが、とても有名なえらい先生だって、言ってたわ。ねえ、先生、『サイン』もらえないかしら。きっとパパやママが喜ぶと思うの」
ぼくは、サインってなんだ、と女の子に聞こうと思いながら、こだわっていった。
「あの子供は、どこ?」
おじさんはぼくににっこり笑っていった。
「君の見た子供は、きっとおじさんの『ミュー』のことだろう」
そして、おじさんは、ぼくらに、ミューの話を聞かせてくれた。
ぼくと違って、その姿を見たことがない女の子にとっては、小説家のおじさんが、自分たちを楽しませようとした作り話に思えたにちがいない。
でも、ぼくにとっては、想像の世界の生き物とは思えなかった。
おじさんは小説を書くときに、別に自分で魔法を使ったり、特別な能力を使ったりするわけではない。小説家に変身するわけでもない。
お話を書くというのは、トラックを運転したり、水道をなおしたりするように、体力を使うたいへんな仕事なんだ。
ただ、おじさんにとって、どうしても欠かせないのが、「ミュー」のお世話をするということだった。
おじさんが、そのミューに出会ったのは、海に向かってボートをこぎだしたあと、急に天気が悪くなって、嵐になった日だった。
ボートが引っくり返って、海に投げだされたおじさんは、海の底へ沈んでいった。
海の底には、お城があった。どうやら、そこは、海の潮がひく『干潮』のときにだけ海の上に現れるという、「ほとけ島」の上に建てられているお城のようだった。でも、難しいことはどうでもよい。とにかく、おじさんは、海の底のお城の中に入れて、命が助かり、そこでミューと初めて出会ったのだ。
ミューは、(残念ながら)乙姫さまや弁天さまのような、美人の女の人ではなかった。むしろ、無愛想で、きまぐれで、醜い男の小人だった。
こちらから話しかけても、不機嫌らしく、ふんと鼻を鳴らすのがせいぜいだ。
それでも、ミューは魔法の力をもっていた。だからおじさんは、運よく巡り会ったミューを家に連れて帰り、彼のために部屋を用意して、なにかと世話を焼くことにした。
それだけの価値はあった。
翼を休めて、葉巻をふかしているミューのかばんの中には魔法がつまっていたからだ。そこには、小説家としてのおじさんの人生を変える何かがあった。
世話を焼いている間じゅう、ミューはふんぞり返って葉巻をふかし、自分がボウリング大会に出てもらったトロフィーを得意げにながめるだけで、おじさんには見向きもしない。
しかし、そうやって葉巻をしゃぶりながら、思いだしたように時々、魔法を働かせてくれるのだ。そうやって、おじさんはいい話をいくつも書いてきた。
もしかしたら、どんな小説家にも、このミューのような相棒がついているのかもしれないな。
彼は地底の住人だ。地底といっても、海の底とはかぎらない。蛍のすむ洞窟の中や、白い雪にうもれた森の中や、ひょっとした、都会の、高いビルとビルのあいだの狭いすきまにもいるかもしれない。
だが、力を借りたければ、自分から地底に降りていくしかない。
おじさんが、ボートで海になげだされ、海の底に沈んでいったようにね。
おじさんにさよならを言って、別れるとき、女の子は希望のサインがもらえて、とても嬉しそうだった。
ぼくは、彼女より、もっとどきどきしながら、家にもどった。
だって、ぼくは見てしまったんだ。
ミューが、こっそり、ぼくらのあとについてきているのを。
ワシとカメ
ある時、ママとタイチが、魔法の力で小さくなって、こっそりワシの背中にのって、大空からの素敵なながめを楽しんでいた時のこと。
ワシは空を飛びながら、山から流れだす細い川べりの白い平たい岩の上にカメがいるのをみつけた。
ほかの色の岩の上なら、目にとまることはなかっただろう。なにしろ、カメの甲羅は岩や土の保護色で、空中からは区別をつけるのがむずかしいからだ。
カメは食べられるのかしら?
ワシはそうお腹は空いていなかったのだが、好奇心でカメに近づいた。
カメは、空からおりてきたワシをみても逃げ出すところか、じっとワシをみつめたままだった。
「うらやましいなあ。ぼくも、あなたのように空がとべたらなあ」
思いもかけぬカメの言葉に、ワシは、たずねた。
「それで、こんなところに座って、ぼくをみていたのかい?」
そして、言った。
「カメくん。ぼくの背中にのってみるかい。空を案内するよ」
カメが、ワシの背中にのってきたので、タイチとママは、カメにみつからないように、ワシの毛の後ろに隠れて、様子を見守った。
カメは、空中を飛べて大喜びだった。岩も川も、小さくみえる。下に広がる森のむこうには、聞いたことしかない、あの海も光ってみえるではないか。
ふたたび白い平たい岩に、ワシの背中からおりたカメは言った。
「うらやましいなあ。ぼくも、あなたのように空を飛べるようになれるかしら?」
ワシは、カメが少し気の毒になった。翼をもたないカメは、どんなに練習したところで、空は飛べっこなかったからだ。
そこで、ワシは言った。
「カメくん。今度はかわりに、ぼくをカメくんの背中にのせてくれるかい?」
「もちろん。おやすい御用さ」
ワシは、カメの背中に乗って、カメと一緒に川下りをした。
いつもなら、空から小さくしかみえない風景が、すぐ目の前にあって、細かいところまではっきりみえた。川の中では、魚が泳ぎ、藻がゆれているのがわかった。
「カメくん。君がみている風景だって、とてもすばらしいじゃあないか」
しかし、カメは、考え事をしてワシの話をちゃんと聞いていなかった。
カメの頭は、あるひとつの思いつきで、いっぱいになってしまっていたからだ。
「ワシくん。ぼくは、ひとつ空を飛ぶ方法を思いついたんだ。みていてくれるかい?」
川の流れは、やがてひとつの高い滝の手前まできた。いつもは、滝からおちないように岸にはいあがるカメは、そのまま川から滝に突っ込んで行った。
カメが、滝つぼにむかって落下していく瞬間、ワシは、カメの背中から飛びたった。
ワシは、すぐ滝つぼから、離れて飛んでいこうとしたが、ワシの背中にのっていたママとタイチが、正体をあらわし、ワシにお願いしたので、ワシは、カメが突っ込んだ滝つぼの周りを、しばらく何回も何回も旋回した。
ママとタイチは、目をこらして、滝つぼからカメが顔をだすのを待っていたが、ついに、カメは、滝つぼから顔を出すことはなかった。
家系図
ある日、タイチは思いきって「パパ」のことをママに聞いてみた。
生徒名簿や授業参観で気にはなっていたのだ。子供心に聞いてはいけないことなのだとためらっていたのだが、思い切って聞いてみた。
ママはタイチの顔をしばらくみつめてから言った。
「家系図をみせてあげるわ」
ママが引き出しからもってきた布(羊皮紙と言うのだそうだ)には、たくさんの人の名前と線が、木の枝とそれになる実のようにはりめぐらされていた。
その下の方に、比較的読みやすい文字でママの名前が書かれていた。
「これがママよ」
「パパは?」
「パパ、ママといった関係は、実は魔法使いの世界にはないの。あるのは、先生と生徒という関係だけよ」
「パパはママの先生だったの?」
「ママに魔法を教えてくれた人は別の人よ」
「ぼくはどこにいるの?」
「まだ一人前でないからここには載っていないけど、大きくなったらママの下に名前が載るわ」
と、ママの名前の下にある空白を指さした。
でも、今日のタイチはこれだけの説明ではおさまらなかった。
「でも、ぼくにもパパはいるんでしょう?」
「いま説明したとおりよ」
ママは当たり前のことのように言った。
ぼくはだてに小学校に行っているわけではない。いつまでもごまかされはしない。パパとママから子供は産まれるんだ。ぼくだって知っているんだ。
「ママとパパはセックスしたんでしょう?」
ママは笑い出した。
しかしタイチの目は真剣だった。
「知っていたけど…もうしないわね」
「ぼくが産まれる前にはしたんでしょう?」
ママは笑いながら、しかしきっぱりと言った。
「いいえ。あなたが産まれたのも、魔法の力によるものよ」
その翌日、タイチは学校から家にまっすぐ帰らなかった。
目的地があったわけではない。ただ、家へ向かうのと違う道であればそれでよかった。
「家出だ、家出だ」
街路のわきに生えている草木が、ひそひそと耳うちしあった。
タイチは歩きながら、学校の図書館で読んだ、ママをたずねて旅行する話を思い出していた。
でも、ぼくの場合は、たずねていく相手はパパだし、一緒に旅する犬もいなかった。道行く人も、「どうしたんだい?」とたずねてはくれなかった。
やがて日が落ちた。
タイチはおなかがすいてきた。
「どうしてママはお菓子をとりだす魔法を教えてくれないんだろう?」
ポケットの中にあったわずかなお金で、タイチはお菓子を買って、道ばたのベンチに座ってそれを食べた。
人はほとんど歩いていない。
確かにママは魔法使いで、ぼくをくじらに乗せたり、海底を通って外国に連れていったりしてくれた。
でも、ごはんはいつもフライパンと鍋で作っている。
「魔法を使うよりこうするほうがずっと簡単よ」
と、ママは言う。
「たとえば、今食べているようなお菓子を手に入れようとするとき…」
と、タイチは考えた。
お金を使えば、フライパンや鍋を使うより、ずっと簡単にごはんを手に入れることができる。
「お金というのも魔法のひとつかもしれない」
タイチは、自分がひとつ大きな発見をしたような気持ちだった。
「でも、いったい誰が魔法をかけているんだろう?」
それに、お金で九九が言えるようにはなれないし、フルートを上手に吹けるようにはならない。
お金でパパを買うことができるだろうか?
でもママの魔法だってそういうことはできない。はやく大人になろうと思ってもそういう魔法はなさそうだ。
「魔法が使えるからといっても、何でも自分の望みがすぐにかなうわけじゃないのよ」
とママは言っていたっけ。
それはそうとしても、お菓子をいっぱい食べるとか、バスで家に帰るとか…タイチはそろそろ家が恋しくなってきていた…すぐに自分の望みをかなえるためには、お金の方がママの魔法より効果がありそうだ。
タイチは考えることに疲れて、眠くなってきた。
「おうちに帰らなきゃ…」
日がおちて、街のあちこちの家と同様、ある一軒の家にもあかりがついた。
その家には、大きな庭があって、そこの家に住む男は、昼の間、庭に出て、大きな木のテーブルの前に座って、大きな日よけのパラソルの下で、書きもの仕事をしていた。
夕食のために、冷蔵庫から選んだ野菜をまな板の上で切り始めようとした時、その男は、外の道端で座り込んでうとうとはじめたタイチに気づいた。
男は、包丁をにぎった手をおいて、手を洗って手ぬぐいでふくと、外に出てい
った。
男の体はとても小さく、小人のようだった。だが、そう図体が変わらない、寝ているタイチを、軽々と抱きかかえて、家の中に運び入れた。
その家には、壁の表札の代わりに、土にさした棒の上に打ちつけられた看板があって、そこには汚い字で「ミューの家」と書かれていた。
ミューは、タイチをベッドに運びなら、独り言を言った。
「人の心と井戸は、かきまぜるほど泥水になる。今は、静かに、ゆっくり休むがいい」
気が付くと、タイチは暖かい家のベッドの上だった。
そばにママはいないが、きっとママが魔法を使ってぼくを探し出して連れてきたに違いない。
タイチは、パパがどこにいるかなんて、もうどうでもいいことのような気がした。
ただ、魔法の中には、ママの魔法とかお金よりも、もっと大きいところで働いているものがあるということが、ここ二日の間で分かったような気がした。
でも、ママの魔法にしても、お金にしても、できることは限られているのだ。
たとえば、パパがいないのにぼくがいるっていうことも、そのもっと大きな魔法の一つの例だ。
第2章 タイチとミュー
1 彼岸花
特別でない朝。
ごはんと味噌汁と目玉焼きの、いつもの朝ごはんをすますと、もう集団登校の待ち合わせ時間だ。
タイチは、最後に、靴下をはくと、行ってきますと玄関を出た。
いつものメンバーで出発する。
小学校まで、小さな川べりをとおって、徒歩で十五分くらいの道のりだ。
低学年の子供たちは、理解力が悪く、中学年になると、生意気になってきて、みんなをまとめるのは毎日ちょっとした苦労だ。
二学期が始まって間もない。あと小学校も半年を残すのみ。その後、タイチは、魔法使いが集まる中学校に進学する予定だった。
楽しくも、魔法と現実の間で、こころが揺れる小学生時代だった。
それもあと半年。
最近、川の土手に数本ずつ集団を作って生える、葉のない草のことがタイチには気になっていた。
そして、今日、その長い茎のてっぺんに、赤い、花火のような花が咲いていたのだ。
「あっ、彼岸花が咲いている!」
一人が叫んだ。
「知ってる、知ってる。この花、採って家にもって帰ると、家が火事になるんだって、お母さんが言ってた」
と、もう一人が言った。
もし、ママなら、この花をどんな薬にするだろう? と、タイチは考えた。この不気味な姿や色からすると、きっと、なにかの薬になるに違いない。
タイチのママは、普通のママだが、魔法使いだった。誰にも言ってはいけないと言われているが、言っても信じてもらえないようなことは言うまい。
パパはいない。ママは、タイチは、パパなしで産まれてきたといっているが、タイチは、実際はそんなことはありえない思っていた。
ぼくは、サンタクロースがいないことだってもう知っているのだ。
パパも魔法使いだったのだろうか?
その日、彼岸花の赤色の花が、妙にタイチの目に焼きついていた。
2 病院
その日、タイチが小学校から帰ると、ママはいなかった。
かわりに、小さなおじさんが家にいた。小さくて、小人といっていいくらいだった。
タイチは、彼がママと夏に別荘に行ったときに見た、あのミューだということに、すぐに気がついた。
頭が、かーっとなるのを感じたが、つとめて平静をよそおって、タイチは言った。
「ただいま」
「おかえり」
「こんにちわ」
「おひさしぶりだね。また会えて嬉しいよ」
タイチは、何を話していいのか分からず、返事につまった。
「ママは?」
「体の具合が悪くなって、急に入院した」
「ええ?」
「たぶん、命には別状ないと思う。でも、入院は必要だ。それで、きみの世話をするようにと、ママから私が呼ばれたというわけだ」
「おじさんのこと、夏の別荘で、見たよ。そこから、ぼくらの後をつけてきたの?」
「いや、おじさんの家は、君の家からそう遠くないところにあるんだ。君たちをつけてきた?とんでもない。帰る家の方向が一緒だっただけさ」
(家が近くで、別荘も近かったということ?)
そう、考えるタイチに、ミューは言葉を続けた。
「タイチ君、昔、一度、君が道で倒れているところを、私の家で介抱したことがあるんだけど、覚えてないのかい?」
タイチの記憶の中に、それは残されていなかった。
それから、学校の帰りに、ママの入院している病院に寄るのが、タイチの日課になった。
川の方角とは反対の、街へ向かっていく道は、登下校の道にくらべて車の量が多く、注意が必要だ。
病院の独特のにおいは、タイチは嫌いではなかった。かといって、特にそれに惹かれていたわけではない。ママが入院してなかったら、どうしてあんなところに行くものか。
病院は二階建てで、かなりの広さをもっていた。
玄関をくぐり、タイチは迷うことなく、二階の病室をめざしていく。歩きながら、開け放された部屋の扉のむこうに、点滴の下に横たわった老人の姿が目に入る。寝ていない人も、ぼんやりすわり、雑誌やテレビを見ているか何もしてないかだ。
廊下の向こうからやってくる看護師や、銀色のワゴン車や、他の見舞い客などをやりすごしながら、ママの病室に到着する。
四人部屋の手前側の奥のほうにママは寝ている。
「ママ、きたよ」
「あら、タイチ」
眠っているようでも、声をかければすぐ眼が開くということを、タイチは何回かのお見舞いで分かっていた。
病名は聞いてない。
お見舞いに行っても、ママは長い間しゃべれるほど元気なわけではなかった。タイチが、学校の話をいろいろするのを、うんうんとうなずきながら聞き終わると、ママはまた目を閉じてしまう。でも、二人の間にある沈黙はタイチにはまったく気にならなかった。むしろ居心地のいい空間・時間をつくっていた。
ベッドの枕元には、誰が置いて行ったのか。「黄色い」彼岸花が花瓶にさしてあった。自然に川べりで咲いている「赤い」彼岸花ではない。その黄色は、目にも鮮やかで、どこか人工的な感じだ。そして、川べりの赤い彼岸花が、時間と共に薄汚れしぼんでいくのに、その黄色い彼岸花は、日にちがたっても、ずっと輝いていた。
手持ちぶさたになると、いつもタイチは、ベッドの前の台の上においてある、古い分厚い革表紙の本と、小さなねずみのぬいぐるみに手をのばす。
本は、日本語ではなく、タイチの知らない文字で書かれていた。英語やフランス語でもロシア語でもないらしいことはタイチも感じていた。ママによれば、それは魔法語ということだった。でもタイチにはその本が読めるわけでもなく、その字を『絵』としてながめていただけだし、それでもあきなかった。
もう少しタイチが大きくて、注意ぶかければ、その本は書かれている文字以外にも、変わった特徴があることに気づいていただろう。
その本の後半の半分くらいは白紙のままだった。
そして、日がすぎるにつれ、少しずつ、書き込みが増えていくのだ。
その本に、ところどころある「挿絵」に描かれている人や動物は動いていた。そして良く見ると、その中に、あの小人のミューもいたのだ。
さて、タイチは、ねずみのぬいぐるみに、チューという名前をつけた。チューチューのチュー。なぜか、毎回チューは同じではなかった。数も、一匹とはかぎらず、変化した。ただ、基本的には同じ形のぬいぐるみで色がちがうという程度の違いだった。いったい誰が持って行き帰りするのか、タイチには分からなかったが、そんなことは気にしたことはなかった。
本をながめるのにあきると、タイチは、チューたちで、ごっこ遊びをするのだった。
「チューちゃん、何を悲しんでいるの?」
「パパが遠くへいってしまって、ずっとママと二人でお留守番なの」
「お仕事?」
「そうみたい。ママが言ってた」
「なら我慢してね」
「そうする。それに、パパがいないとうるさいこと言われないから、悪いことばかりじゃないもん」
タイチがひとり何役もこなすチューちゃん同士の会話は、現実にタイチの身の回りで起こっていることであったり、まったく想像の中のことであったりいろいろだ。
こうやって、しばらく遊ぶと、ママにさよならをして家に帰るのだ。
そして、おうちで宿題やテレビ。
家では、例のミューが、夕食をつくってくれたし、お風呂も沸かして、洗濯や掃除もしてくれていた。
でも、最初の日に、ぽつりと言葉を交わして以来、ミューは何もしゃべることはなかった。
黙って、てきぱきと、必要な仕事を行い、仕事がすむと、家の奥の部屋に引っ込んで、出てこない。
タイチは、話し相手がなく寂しかった。
「ママの病気はいつなおるんだろう?」
ママのベッドから家にこっそり持ってきた、チューのぬいぐるみに向かって、タイチは話かけるのであった。
3 床下の小人
ある日、 家の中に帰ると、小人のミューは掃除の最中だった。
「ただいま」
「おかえり」と、返事をしてきた彼の表情からは、迷惑かどうかは分からなかった。
ぼくはいつものように、テーブルの上に、今日の宿題を広げはじめた。
彼は、テーブルの上に無造作に放り投げてあった、今日の食材なのだろう、買ってきたばかりの、野菜や肉や魚を手早く片づけ、夕食の準備をはじめた。
今日のメニューはカレーライスだった。
彼の作った、カレーライスは、ママにつくってもらう「幸福のカレーライス」と呼ぶあるカレーライスと味が似ていた。おいしくて幸福な気持ちになる、というだけでなく、実際にこのカレーライスを食べると、幸福がやってくる、というものだ。
食べた皿を洗ったあと、いつものように、自分の部屋に戻ろうとするミューに、タイチは思いきって声をかけてみた。あてずっぽう、だった。
「ねえ、おじさんは、ぼくのパパなの?」
彼は、後ろをむいたまま、立ち止まった。
「だって、ママと同じ味のカレーライスをつくるんだもの」
そう言いながら、タイチは、ミューが、自分のパパでないことを願っていた。
ぼくのパパは、こんな、小さくて、醜い、無愛想なパパのはずがない。
でも、もしそうだとしたら?
タイチが、怖くて、ずっと聞けなかった質問だった。
「君は、もう忘れて思い出せないみたいだな」
「ぼくはパパの顔を知らないんだ」
「私は、君のパパではない」
タイチの顔がぱっと明るくなった。
「でも、私は君のパパのことを知っている」
「パパはどんな風だったの?」
ミューは、いきなり振り向いた。醜い顔が、にやにやしていた。タイチは少し気分が悪くなって、顔を思わずそむけた。
「君が聞きたいなら、これから、少しずつ、おじさんがパパの話を教えてあげよう」
テーブルの上に、ねずみが急に走ってきて、タイチの目の前でとまった。
タイチは少し身を引いたが、よくみれば、それは、タイチのカバンにしまってあった、ぬいぐるみのチューだった。
カバンから抜け出してきたのだ。
ミューは、1本の葉巻に火をつけ、話し出した。
短い話だった。
*
昔、ある街でのお話。
その街は、どこでも見かけるような平凡な街だった。
冬の雪が深いので、人口もそうたいして増えず、生活水準は、決して高い方とはいえなかったが、街の喧噪の代わりに平穏があった。
街の郊外にはひとつのおおきな工場が建っていて、それがその街の若者が大都市に出ていくのを防いでいた。実際、そこの労働条件は平均以上で、地元だけでなく、全国から労働者を集めていた。
そんな中に、昔、遠くからこの街にやってきた、ひとりの男がいた。
彼はもう何十年もそこに住みついていた。
彼もまた、工場で働き、一人の娘を愛し、コツコツとお金をため、結婚し、家を建て、子供を育てた。子供もその工場につとめ、結婚し、やがて孫の顔がみられるという歳に彼はなっていた。
彼はその街を愛していた。だが、ひとつだけ彼の気に入らない点があった。
それは、その街に住む人びとが、皆、「太陽さえも、我々の工場が動かしている」という迷信を信じていることであった。
最初にこの街にやってきたとき、彼は、この話は、工場がこの街の経済を支えているという言葉の上での比喩だと思った。しかし、人びとは、比喩としてではなく、文字どおりそうであると信じていたのである。
「太陽が動くんじゃなくて、地球が止まっている太陽に対して回転するから太陽が動いて見えるんだよ。小学生でも知ってることじゃないか」
と彼が主張すると、その街の人々は笑うのだった。工場でも、レストランでも、そして小学校の先生も…。
「でもそうだとしたら、どうやって地球は回転してるんだい?なぜその回転が止まらないんだろう?うちの工場のエネルギーを使って太陽を昇らせ沈めているというのが本当の話さ」
彼の他にも、遠くからやってきた者はいたが、彼らは、あまりこのことに興味を示さなかった。彼らにとっては、他にもっと重要なことがあったからである。彼らもまた、その工場が太陽を動かしているのだ、と言うようになっていった。
「いずれにせよ、たいした問題じゃないさ。真実がどうであれ、ここの生活がそのために変わってしまうわけじゃない」
*
話し終えると、「この続きはまた明日だ。今日はここまで、おやすみ」と言って、いつものように奥の部屋に彼は戻っていった。
タイチは、しばらくして、奥の部屋のとびらをノックしてみた。
返事がない。
思いきって、扉を開けたが、そこには例の小人の姿は見えなかった。
部屋は行き止まりだ。窓はついているが、内側からカギがかかっているので、外に彼が出た風でもない。
タイチが、どうこのことを解釈していいのか途方にくれていると、ぬいぐるみのチューが、やってきて、部屋の隅の床の一部分の周りをくるくる回りはじめた。
そこには、床下の小さな物置用のふたがあった。
タイチの家には、地下室はない。その床の物置だって、一メートル四方くらいの小さなもので、お酒を入れるのが精一杯だ。
タイチは、念のためその床の小さな物置のふたをあけてみた。
小人はいない。
そのとき、チューが、その小さな床下の部屋に飛びこんだ。
「チュー。どこなの、チュー」
タイチは懐中電球をもってきて、床下を隅々まで照らしたが、チューの姿は見えない。
中に、自分もはいろうか、と思案していると・・・そこに見えなかった、チューが、ふいに現れてはい出してきた。
「やっぱり、中にいたんだ。わかったぞ」
まちがいなく、例の小人はこの中にいる。目にはみえないけど、このチューがそれを証明してくれた。
しかし、タイチは、恐くて自分で降りていくのは止めた。
こういうのは、ママがいるときに、一緒にしたほうがいい。
それでも、タイチは少し安心した。
4 出会い
タイチは、めずらしく、ママのお見舞いのあと、家と反対方向に足を向け、ひとりで、街をぶらぶら歩いていた。日がおち、薄明かりの、黄昏どきだった。
タイチはつぶやいた。
「八分三十六秒だったっけ?」
学校の授業で、太陽から光が地球にとどくまで、約八分かかるので、日が沈んでからも、約八分は明るい、という話を聞いてから、ずっと、そのことを黄昏のときに思い出す。
冬は間近に迫っているが、まだ日にあたると暖かい。
約束した相手もいないし、さし迫った目的もない。
でも、家に帰っても、またあの無愛想なミューがいるだけだと思うと、自然と足が家から遠ざかってしまう。
日がおちてから、街を行きかう人の数が、仕事帰りのせいで増え始めているようだった。
突然、タイチは、ひとりの女の人から話しかけられた。
「すみませんが、ぼく、病院へいく道、教えてくれる?」
タイチは、答えようとして、心臓が止まるくらい驚いた。
その女の人は、入院中のママにそっくりなのだ。
タイチは最初、まちがいなくママだと思い、
「ママ、病気は直ったの?ひとりで道草していてごめんなさい」
と、言いかけたほどだ。
しかし、よくよく見ると、彼女は、ママよりもずっと若かった。ママはもっと老けている。でも、ママの若いころは、こんなだったかもしれない、と思わせるほど、ママに似ているのだ。
タイチは道を教えてあげた後に聞いた。
「おねえちゃんの名前はなんというの?」
彼女は、もちろん聞いたことのない名前を言った。
以前、タイチは、自分と同じ名前の男の子にあったことがあった。しかも、生年月日まで同じだった。もちろん、生まれた場所や育った環境、顔や性格はまるで違う。
しかし、まったく違う場所・環境であったとしても、その子は、タイチと同じ日に産まれ、同じ名前をつけられ、タイチが小学校にはいるころ、彼も小学校にはいり、・・・彼は常にやはり「タイチ」と人に呼ばれ、自分のことを「タイチ」と考えてやってきた。彼も「タイチ」として、悲しい思いをしたり楽しい思いをしたりしてきたのだ。
人生が、沢山の偶然の曲がり角から構成される迷路のようなものだとして、その子もタイチも、いくつかの角を曲がりながら生きてきて、二人は偶然にも、同じ生年月日で同じ名前のもう一人の「タイチ」に出くわしたのだ。それは、起こるかもしれないことではなく、確かに起こったことなのだ。
少し遅く家に帰ったあと、夕食を食べながら、ミューに今日出会った「ママのそっくりさん」の話をした。黙って食事を食べなければならない理由はない。
でも、小人のミューは、その話を聞いても黙ったままだった。
そして、その日も、タイチは、ミューの話を聞いた。
いまや、ぬいぐるみというよりも生きたねずみにより近くなっていた、チューを手のひらに乗せて、二人で聞いた。
ミューは、1本の葉巻に火をつけ、続きを少し話し終えると、また、いつものように奥の部屋に消えていった。
*
その工場の一画を占める発電所は、工場だけでなく、その街全体にも電力を供給している工場の中枢部分であった。発電所の電力供給室の管理は、その工場の中で最も重要な仕事で、彼のように定年を控えた高い地位にある者たちにのみ与えられる仕事だった。
彼らは、交替で当直体制で、その電力供給室の管理にあたっていた。
ある晩、その男が当直をしていた時のこと。
彼は、たくさんのボタンが並ぶ部屋でもの思いにふけっていた。
「もしこの発電所の機能を止めて、明日の朝太陽が昇ったら、人々は、この工場が太陽を昇らせているのではないことを分かってくれるはずだ」
長年、この電力供給室の中で考えていたこのアイデアを、彼はその晩実行にうつした。
彼は、メインスイッチを切り、さらに複数の回線を切断した。
工場の活動はすぐに止まった。夜勤の照明が消え、ベルトコンベアが動かなくなった。街の街灯は消え、信号機も消えたために、車が交差点で立ち往生した。各家庭のテレビも明かりも、電気暖房も止まった。
夜もふけ、外は雪が降り始めていた。
発電所に駆けつた者たちは、故障させた電力供給室の中にいるその男をすぐに取り押さえた。機械の修理が始められ、その男は警察に引き渡された。
「私はただ、この街の人々に、この工場が太陽を動かしているのではないという証拠をみせたかったのです」
「そんなばかげた仮説を証明するために、工場は多大な損害をうけ、この寒い冬の夜に、何万人もの人が凍えてるんだぞ」
「もうすぐ分かります。朝、必ず太陽は昇ります」
「黙れ。おまえは自分のしたことがまだ分からないのか。立派な犯罪だ」
*
話が終わったが、まだ、続きがあるようだ。
その日、タイチは小人のあとを追うことはしなかった。
ベッドにひとりで、はいったが、ママがいない寂しさは少し遠ざかっていた。
となりには、チューがいる。ぬいぐるみだけど、ママの病室のベッドの枕もとにいるうちに、きっと魔法を少し学んだのだろう。最近は、ぬいぐるみの域をこえている。
無愛想なミューの声も、今日はなにか優しく聞こえた。
そう感じるのは、タイチ自身の心が少し和らいだせいなのかもしれない。
5 消えたチュー
誰でも時々あることだろうが、ある日、タイチは、チューのぬいぐるみをズボンのポケットに入れたままズボンを洗濯に出してしまった。
翌朝、チューがいなくなったことに気がついたタイチは一日じゅう落着かなかった。
早めに学校から帰ったタイチは、庭のものほしざおに、洗濯ばさみにつままれてぶらさがっているチューを見つけて、ほっとした。
ある意味、その姿は愛嬌があった。短いしっぽを洗濯ばさみにつままれ、筆柿のようにものほしざおにぶらさがって風にゆれていた。
汚れていたから、ちょうどいいいかもしれない。いつも暗いポケットの中ばかりではチューも息がつまるだろう。まさか、洗濯すると特殊な力が失われるなんてことはあるまい。
タイチは安心して遊びに出かけ、チューのことを再び思いだしたのは、夕食のときのことだった。
「おじさん、チューを知らない?」
「さあ」
「だって洗濯ものと一緒に外に干してあったじゃない」
「チューを干したおぼえはないけどな」
タイチは、が、またミューが自分をからかっているのかと思った。タイチはチ
ューが見当たらないことをさらに訴えた。しかし、ミューの反応はあっさりしたものだった。
「今にでてくるさ。心配ないと思うよ」
その夜、遅くまで、タイチはチューを探した。
最近、自分で動けるようになってきたぬいぐるみだとしても、遠くへは行けるはずがない。それに、チューは、あのとき、洗濯ばさみにはさまれてうごけない状態だったんだ。おじさんが洗濯ものを運ぶときにまぎれてどこかに落ちたか?
しかし、いくら家や庭を探してもチューは出てこなかった。
おじさんは、一本の葉巻に火をつけ、短い話しの続きをしたあと、探し物を続けるタイチを尻目に、いつものように奥の部屋に消えていった。
*
電力装置が復旧したのは、翌日の午前中だった。頭の上には、太陽が輝いていた。
太陽はいつもどおり昇った。
雪は降り止み、太陽の光が積もった雪に反射してきらめいていた。
彼は、長年勤めていたその工場を解雇された。退職金もふいになった。
彼は、その街から失踪した。
やがて時が流れ、彼はこんな風に人に噂されるようになった。
「むかし、この街に住んでいた一人の魔法使いが、工場の電力装置が故障したときに、自分の力で太陽を昇らせたことがある」
彼は伝説の人となったのだった。
*
6 たいへんな時
ママと、同じ病室にいた、あるおばあさんの話。
あとから人に聞くと、たいへんな時を、彼女は過ごしていたらしい。
外的要因ではないというところは違うが、彼女が、拉致された人々が日本に帰国したのと、同じような境遇にあることを誰が否定できるだろう。いや、それ以上に悲しい境遇と言えるかもしれない。なぜなら、誰ひとり、彼女の帰国を歓迎するものがいなかったからである。彼女は『内なるもの』によって拉致されたのである。
彼女は五十歳のころ、夫と離婚。
理由や経緯ははっきりしないが、三人いた子供たちはいずれも夫の方についていき、彼女はひとりになった。
そして三十年の月日が流れる。
元夫は亡くなり、三人の子供のうち、次女と長男は結婚。長女は結婚しないまま、東京で一人暮らしをしている。
彼女と子供たちとの関係は、三十年の間に、深くなるどころか、ますます縁遠くなっていった。ここ十年は、わずかに年に一回、結婚していない長女が彼女を訪ねてくるだけであった。あと、彼女には、新潟県で結婚している妹がいて、こちらは、彼女の方から年一回訪ねていくのだった。
彼女は家政婦を中心とした仕事をして、近所づきあい、友達づきあいをして、今までなんとか暮らしてきた。生活保護はうけていない。
以上のことが分かったのは、彼女の入院がきっかけであった。病名は大腸癌。肝臓に転移があり、腫瘍による腸閉塞を起こしていた。癌を治すことは不可能であったが、腸閉塞という症状は一時的にせよ緊急に手術をする必要があった。
彼女のような身寄りのない患者の場合、普段つきあいをしている友達はいても、そこに頼めることは限られてしまう。また、つきあいがいくら長くても、入院費用、付き添い、葬式まで面倒を見てくれるケースはまずない。
また、親族が、(遠く離れてはいるが)とりあえず連絡がつくということで、まったくの浮浪者とは異なり、行政の介入も難しい。
そして彼女の場合、(これもしばしばあることだが)親族が病院に顔を見せないのだ。
長女はひとり暮らしで、仕事を休むと自分の生活が苦しくなると。
次女は、一度顔を出して、病院の対応にたくさんクレームをつけていたが、いざ彼女の前では、
「あなた、だあれ? 知らないわ」
と、出ていってしまった。実際のところ、三十年の間、二人は顔を合わせてなかったようだ。
長男は病気療養中。
一方、本人の妹は、家が自営業をしている関係で、仕事が忙しく、やはりでてこれないという。
主治医は、電話でのみのやりとりをして、緊急性のある、腸閉塞の手術を行った。
そして、術後三日目から、(これも予想できたことだが)彼女は極度の不穏になった。
親戚たちは、長女を代表者として、電話で相談し、彼女が入院中の間、家政婦を雇った。
しかし、看護は金で買えるものではない。
彼女は家政婦に罵詈雑言をあびせ暴力をふるう。家政婦は次々と替わり、また家政婦がきても、ベッドから少し離れて彼女を見守ることしかできなかった。彼女は、語りかけられることも、触られることも拒否したからである。
夜中、殺風景な病室で、彼女はひとり目を開け続けた。
「眠れない。眠れないと死んでしまう。」
「眠れずに死んだ人はいないわよ。体は必要なときに自然に眠るものよ」
という看護師の言葉どおり、彼女はどうやら、ときどき目をあけたまま眠るようだった。また、眠れないというナースコールを聞いて看護師が睡眠薬をもっていくと、既に彼女は寝ているということがしばしばあった。
彼女の顔や体は、単に癌による衰弱だけでは説明できないような変化をとげていた。
一番適切な表現は、サイボーグとかロボットのよう、というものだろう。
実際、彼女は夜中、いろいろ頭に話しかけてくるものがいるといっていた。幻聴、妄想である。しかし、彼女はその声に脅えている様子も、もちろん逆に喜んでいる様子もなかった。無関心。無表情。その見えざる神によって与えられるものを、そのまま受け入れるような、つまり非難することをしないサイボーグのようだった。
そして、これも予期できなかったことではないが、ある日、彼女は自殺未遂を起こした。気味のわるいことに、その自殺の仕方はしつこいものだった。首に縄をかけて死ねなかった彼女は、胸や腹をナイフでくりかえし刺し、それでも死ねずに、首や手首、全身いたるところに切り傷があった。まるで、自分の命がなくらなければ、命令にしたがわなかったと処罰されることを恐れているかのように、ひとつの方法で失敗しても次々に別の方法に移っていっているのだ。死ぬということに対する、ためらい、恐怖、もちろん喜びも、そこには見えなかった。
しかし、彼女は死ねなかった。
さすがに、そのむごたらしい自殺未遂がおこると、病院ははっきり入院を拒否した。もちろん、自殺騒動が起きる前から、入院を続けさせていたこと、あるいは、受け入れたことそのものを非難する医療スタッフが大勢を占めていた。
すったもんだのあげく、強制退院となり、移っていったところは、子供のところではなく、新潟の妹のところだった。タクシーを使い、新幹線駅までいき、新幹線を降りると駅までまたタクシーが迎えにきて、妹の家のそばの病院に転院した。同情の余地はなかった。次の病院で問題を起こす可能性はもちろんあったが、そうするしかなかった。
一ヶ月くらいたってから、引き取った彼女の妹から、最初の病院のスタッフあてに手紙が届いた。
「おかげさまで、本人は精神的に落ち着きを取り戻し、もしかしたら、退院も可能な状況になってきました。一番たいへんなときに看ていただいたことを感謝し深く御礼申し上げます」
最初から、当然、誰か親族がそばにいる病院でみるべきだった、というのが皆の一致した意見だった。
しかし、単に転院するだけで、こうも変わるものかという疑問もないわけではなかった。
どこで拾ったのか、転院先の彼女のベッドのかたわらには、小さなねずみのぬいぐるみがいつも置かれていたという。そして、彼女はときどき、そのぬいぐるみに話しかけることで、気をまぎらわせていたという。
そのぬいぐるみが、彼女に命令する『神』と戦い、その力を失わせたのだろうか?
不思議なことに、彼女の死とともに、そのぬいぐるみは、まわりの人が一緒に棺おけにいれようとずいぶん探したが、どこかへ消えてしまって出てこなかったということだ。
7 謎
いなくなったチューはあいかわらず見つからなかった。
その日、タイチが向かった場所は、そこでなくしたとは絶対思えない、いつも登下校のときにとおる川の土手だった。ここも、もう何回探したことだろう。家にないとすると、鳥がくわえていったのだろうか? もしそうだとすれば、見つけることは不可能だ。
チューがいなくなると、自分の魔法の力も消えてしまうような錯覚をタイチは覚えていた。
錯覚?
いずれにせよ、特に、魔法が使えないからといって、自分の今の暮らしが変わるとか、世の中がどうなるというわけではない。いろいろな物語に繰り返し出てくるような、邪悪な力が世界をおおってきて、その力に対し、人々の気がつかないところで、魔法の力で立ち向かっていく…というドラマチックな構図は実際にはない。
しかし、 校庭で、友達とサッカーとか野球をしているとき、ふと感じる、現実離れした感覚。自分が遠くに見えるようなあの自分自身の感覚。タイチはこれをどうやって埋めたらいいのだろうか?
たとえ無力であっても、タイチはいまや魔法の力を信じていたし、それを失いたくないと感じていた。
そして、だれかに誉めてもらおうとか、認められようとかいうのではない。誰にも言われなくても、知られなくても、タイチはチューを探し出したかった。
チューのことを思い、タイチの胸は張り裂けそうにだったのだ。
何気なくズボンのポケットに手をつっこむと、そこになにか触れるものがあった。
チューだった。
タイチは、今はいているズボンが、洗濯のときにチューをポケットに入れたままにしてしまったズボンだということに気づいた。でもチューを右のポケットにいれたのか左のポケットにいれたのか、記憶は定かでなかった。
実は、チューは遠く新潟まで行って、大きな仕事をしてきたのだったが、タイチは、そんなことは知るよしもなかった。
一方、チューが戻ってこようが、こまいが、そんなことにはまるで無関心で、その日も、いつものようにおじさんは、一本の葉巻に火をつけ、話し出した。
これが短いお話の最後だった。
*
彼が失踪したのに前後して、彼の家族、妻と、まだ小さな男の子ひとりもその街から消えた。
彼への街からの非難が、彼の家族におよぶことは避けられそうもなかったからだ。
その後、彼の家族の消息を正確に知るものは、その街で誰もいなかった。
ただ、風のうわさで、彼の妻は、魔法使いとして、別の街に男の子ひとりと、二人で生活を始めたということであった。
彼の消息については、さまざまだった。
いずれにせよ、妻子と同じ街に住むのではなく、あちこちの街を転々としていることについては間違いなさそうだった。
彼は、自分が魔法の力を持っているということを、生涯、認めなかった。
太陽を昇らせたのは魔法の力ではなく、太陽の秘密を冷静に見抜いた、思考の力であるということを信じて疑わなかった。
*
「お話はこれでおしまいだ。それに、今日の昼、神様と死神様が、入院しているママのところにやってきたが、おじさんが話をして、帰ってもらったから、ママも、もう大丈夫だ。さて、私は今日でもう帰るが、こんど会う時までの宿題をひとつ、タイチ君にだしておこう」
「宿題?」
すると、小人のミューは、こういう謎を聞いたことがあるか?とタイチに尋ねた。
君も、もう大きいから、自分をみつめるということをしたことがあるだろう?実は、「自分をみつめる」、パターンには下の4つがある。
(1)自分から自分はみえないが、相手から自分はみえる。
(2)自分から自分はみえるが、相手から自分はみえない
(3)自分から自分はみえるし、相手から自分もみえる
(4)自分から自分はみえないし、相手から自分もみえない
それぞれみえている「自分」ってなんだ?
タイチが、「いったいどういうこと?」と、質問をするまもなく、
「今度会う時までの宿題だな。考えておくんだぞ。じゃあ、また」
そう言い残して、小人のミューは家からでていった。
8 卒業
夢の中に、ママが出てきた。
タイチは、ママがアメを欲しがるので、口の中に、なんとか押しこもうとしていた。自分で欲しがっているのに、ママは、アメが口のそばにくると口を閉じてしまう。
「だめだよ。そんな意地悪したらアメをあげないよ」
ママはにっこり笑って、タイチの額に優しくキスをした。夢の中とは思えない、強いキスだった。
タイチが目をあけると、そこには本物のママがいた。
「ただいま。戻ったわよ。病気が治ったの」
月明かりが明るい晴れた夜だった。
いつもの生活が戻ってきた。
たぶん当たっている。
ねずみのチューは、病気の間の、ママの分身だったのかも。ねずみのチューは、しばらくいなくなった間、ママと一緒に入院していて新潟の妹のところに転院していったおばさんの心を癒しに、新潟まで行っていたのかも。
たぶん、当たっている。
ミューの語った、太陽の秘密の物語は、たぶん、タイチのパパとママの家族の物語だ。
だが、ミューが最後に話した「謎」は、いったい何なんだろう?答えもわからなければ、そもそも出題の意図もわからない。
いつものように、タイチが学校にまた通いはじめたとき、川岸に咲いていた赤い彼岸花の花は、そのほとんどが地面に落ちていた。
「彼岸花って、本当に、毎年毎年、夏が暑い年も涼しい年も、その気温と関係なく、九月のお彼岸のころになると咲き出し、お彼岸がすぎると散ってしまうのよね。まるでカレンダーを知っているみたいに」
これはママが教えてくれたことだ。
そして、これはタイチがあまり注意をはらっていなかったことなのだが、ママの枕元にあった、変わった黄色い彼岸花もまた、野生の彼岸花と同様に枯れていた。
ママが退院してから、一度だけ、ミューが家に訪ねてきた。タイチはママと二人でミューを迎えた。
「入院中は、お世話になりました」
「いや、元気になって何より、何より」
「タイチに、お話をしてくれたみたいで」
「そう。ミューは、ぼくに、パパの話をしてくれたんだ。パパは、太陽を昇らせているのは、街の工場でないことを、みんなに証明してみせたんだよね」
「私は、その男が、タイチ君のパパだ、とは言ってないよ。その男が、タイチ君のパパではない、とも言ってないがね」
タイチの質問をはぐらかしたまま、ミューは、タイチに、「最後にだした宿題の答えがわかったか?」と聞いてきた。タイチは、考えてもいない、と正直に答えた。
「そうか。タイチ君にこの質問をするのは、まだ小さすぎたかもしれないな。答えだけいっておこう」
答え(1)本当の自分(2)おばけ(3)普通(4)透明人間
*(1)と(2)の答えが、逆になる間違いが多いから、要注意!
ミューは、ママと昔からの知り合いのようで、ママが魔法使いのことや、タイチが魔法の修行中ということも知っていた。ミューが、いわゆる「一般人」ではなく、魔法使いということで、タイチも話しがしやすかった。
学校では、気にしないでおこうと思っても、自分が魔法の修行中であることを隠すために、友人との間がぎくしゃくしていないことはない、ということが相変らず続いていたのであった。
「最近、学校で、少しだけ、コンピューターのプログラミングの授業があったのだけど。なんだか、魔法語とコンピューター言語、似たところがあるね。でも、コンピューターって、こちらの思うように動いてくれないから嫌いだ」
「いや、コンピューターは、こちらが思うようにしか動かない。だから、大変なんだよ。こちらが、頭ではそう思ってなくても、間違った命令を書くと、コンピューターは、こちらが『思った』ことではなく、こちらが『書いた』とおりに動いてしまうんだ」
「あっ。そうか。『がちょう』と『くじら』の魔法の時と一緒だ」
「でも確かに、コンピューター言語がコンピューターに働きかけて力が発揮されるように、魔法語も大地に働きかけて魔法が発揮される、という点で、ふたつは似たところがあるかもね」
「あと、やはり、最近、学校であった英語の授業。発音やイントネーションが違うと、うまく相手に通じないところ、やはり魔法語に似ているかな?と思ったりしたんだけど」
「そうか。いいところに、タイチ君は気づいたね。ひょっとしたら、魔法使いの血が流れていなくても、魔法語の発音やイントネーションや文法をしっかり学べば、どんな人でも、魔法をつかうことができるのかもしれない。そうは思わないかい?」
「そうかもしれないわね」
そう、答えたのは、横で二人のやりとりを聞いていた、ママだった。
タイチが中学生にはいる日は近い。
昔からの魔法つかい達の「きまり」では、魔法使いに生まれたものは、13歳になると、家を出て、一人暮らしをはじめなければならない。
タイチは、ある中学の寄宿学校に入学が決まった。
そこには、普通の生徒に混じって、タイチのような魔法使いもいるこということを、魔法使いの父母の間で知られていた。
部屋は二人で一室。
タイチの相方は、あの「シュン」という壁抜けの魔法を使っていた少年に決まっているらしかった。
了