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「理久様は、お話しなさらナイのですか」
二、三日後、そう彼女が俺に問いかけてきた。
いや、別に彼女と話しても良かったのだ。面倒なだけだから、今まで口を開かなかった。俺が話す言葉は他人には高度すぎて届くことが少ない。普通に話しても、その言い方がぶっきらぼうであるとか言われて相手が怒ってしまうことも多々あった。そうこうしているうちに、全てがどうでもよくなってきて話すことを諦めてしまっていた。しかし言われてみれば、こうやって話さないでいると、自分が話せるということも忘れてしまいそうだ。俺は久しぶりに声を出してみることにした。
「話せるよ」
その一言だけで彼女の表情は綻び、嬉しそうな顔をした。
こんな表情もプログラミングされているとは驚きだ。俺が外に出ない間にロボット技術は格段に進化していたらしい。俺は彼女のその笑顔にあったかいものを感じながら、調子に乗って続けた。
「けれど、面倒くさいんだ。人って思ったよりも感情的な生き物で相手の態度がまるで読めない。俺が伝えたいことだって、相手が感情に捕らわれたままでいるとまるで伝わらないんだ」
そう言うと彼女は首をくいっと傾げて僕に静かに問いかけた。
「それは私のようなロボットとオナジ、ということですか?
つまり、自分に感情がナイから相手のこともわからナイ。そういうコトですか?」
血の気のないとも捉えられるその白い頬を見つめながら、俺は答えた。
こんなロボット相手なら、俺は自分のことを話せるかもと思ったのだ。その感覚はほとんど独り言に近かった。
「違う、とは思う。俺は感情がある人間だ。だからこそ、伝わらないと嫌な気分になる。お前とは違うよ。ただ俺は自分の感情すらそれが何と呼ぶものかわからないし、他人であればなおさらだ。だから、俺は相手に気を遣うのが嫌になる」
そう言うと、今度は自分がただのわがままな人間に思えてきた。つまり、俺はただ人間関係に駄々をこねているだけなのかもしれない。そう思うとなんだか自分が嫌いに思えてきた。そんな気持ちをよそに、家事ロボットは淡々と頷いた。
「…そうなのデスね。けれど、理久様は頭がヨイ方だと派遣元でお聞きになってオリマス。その計算は、この月随一でもアルと。そんな方が、悩むなんて私には想像つかナイです」
「俺だって悩みたくて悩んでいるんじゃない。感情というものがまるで予測できない化け物のように思えるんだ。俺はこんな不確かなものに振り回されたくないだけだ」
俺はそういうと彼女はつと考えていた。しばらくすると、なにか思いついたようで、ロボットらしいたどたどしい動きで人差し指をピッと上げた。
「それならば、感情でさえも計算なさってはイカガですか。例えば、スベテの感情の言葉を数字に直す、とか」
そういうと彼女はハッとする。そして、すごすごとしぼんだように今度は体を小さくさせた。
「申し訳アリマセン。月で一番頭が良いアナタに出過ぎた話をシテしまいました。私はしがナイ、家事ロボット。今のはオワスレください」
そう言って彼女は周りのガラクタを集めて、掃除の続きを始めた。彼女は落ち込んだように首をたれながら、そのままゴミを持って部屋の外へ出て行った。俺は一人部屋に残されて、彼女が提案してきた言葉を一人で繰り返してみた。
「感情を数字に直す、か」
言われてみたら、これは面白い試みかもしれない。思えば、抽象的と思える色でさえも数字に直すことができるのだ。それであるならば、感情も数字に直してもいいかもしれない。
基本的な三原色を数字に直して色を調整できるように、基本的な感情である喜怒哀楽を数字に直して様々な感情を表せばいいのだ。
そしてそのわりだした数字をいつものように言葉に変換すれば俺は表現の幅を増やすことができるだろう。それを応用すれば、相手の感情も計算から推測し、理解することができるかもしれない。俺はこのアイデアに俄然やる気になった。
そうして、俺は人間の機微を観察することから始めた。
地球や月に張り巡らされたモニターで人間の感情を観察して、気持ちのバリエーションを全て洗い出してみる。それを基本的な喜怒哀楽の感情の数値に直して、再度言葉に照らし合わせる。
その作業を何度も繰り返し、システムに学習させていった。
完成したシステムに「感情分析システム」と俺は名付けた。
いつでも持ち歩けるように、電卓のような見た目のレーダー付電子手帳にインストールする。これで俺はいつでも簡単に自分や相手の感情を分析することができるのだ。
そのシステムの開発中、隣にはいつもM-c10がいた。彼女はもくもくと掃除や料理をしていた。
彼女はあれから積極的に話かけはしないが、それでも気にして見守ってくれている気配を俺は感じていた。だから、俺は気分転換がてらたまに彼女に話しかけ、進捗を伝えるようにしたのだ。そうすると、彼女はいつもあの優しい笑顔で嬉しそうに聞いてくれる。
俺はその笑顔を見ると、今まで感じたことのない感情が胸の中でくすぐってくるのを感じていた。俺はその気持ちを自覚すると、なんだか胸がいっぱいで食欲もわかなくなってきてしまった。
俺はにっちもさっちもいかなくなって、結局自分が作った感情プログラムを使って感情を分析してみることにした。計算は意外と早く終わり、小さな液晶が冷たい光で結果を表示した。
「分析結果…初恋」
俺は頭を抱えた。感情や思考を持たないこのロボットに俺は恋をしてしまったらしい。
果たして、そういう彼女は同じように俺に恋することはあるのだろうか。…もしかしたらそれはないのかもしれない。そういえば感情がないというこのロボットが見ている世界というものは一体どういうものだろう。彼女には表情があるように見えるが、その表情は単にプログラミングされたもので全く「感情」とは連動していないのだろうか。
俺は彼女のことがもっと知りたく思った。俺は単純な興味と自分の片思いがまぜこぜになるのを感じながら、その行動を抑えきれなかった。洗濯物を綺麗にたたむ彼女の背後から感情分析レーダーを向け、分析開始ボタンをピッと押す。そうして、静かにシステムの計算を終わるのを待ってみた…。