起動
電源ボタンを押すとブウン…と機械が唸る音がした。
ディスプレイがいくつも目の前に現れて、パソコンが起動する。
壁一面に並べられた画面たちは、円状の部屋をぐるりと囲っていた。
暗い部屋に輝く、ブルーライトの光。俺はそれを見ると、いつも良い気分になるのだ。
夜空に輝くまばらな星よりも、それはずっと綺麗に思える。
あの星たちもこうやってまっすぐに並べれられたらいいのに。
俺は体をぶつけて曲がってしまった画面のわずかな角度を傾けて直した。
俺の名前は理久。この月で一番頭がいいといわれている十六歳だ。
今までの俺の人生は順風満帆で、眩いばかりだった。
人類が月へもの移住に成功して五十年が経つが、その月日をも凌駕するほどの天才少年と周りは騒いだ。
白衣を身に着けた研究者たちがこぞって俺のもとに教えを請いに来たし、騒ぎ出す一般人は物珍しそうに俺を見ていた。当時少年であった俺は、それをいつもしげしげと眺めていたものだ。
だが俺は周りが騒げば騒ぐほど、それが鬱陶しかった。だから俺は次々と舞い込む依頼を捌いた後、「一人になるから」とだけ言って部屋に籠ることにしたのだ。
地球にいる親から離れ、月の別荘であるこの半球型シェルターに住んで今は二年ほど経つ。
とはいえ、才能があるのであれば世に役立てなければいけないものだ。
それが選ばれたものだけが持つものであれば、なおさらそうだ。
皆にその恩恵を与えてこそ自らの使命が果たせるというものだろう。
俺はそう思って、孤独になりながらもこのパソコンを通して様々な依頼に応えている。
依頼はまずは言葉で来るが、俺はそれを数字に直す作業から始める。
数字に直すと、俺は深くそれを理解することができるからだ。
数字が羅列される様を見るのは心地がいい。
変な感情がまぜこぜにならなくて、情報だけがダイレクトに思考に届くからだ。
特に画面に0と1が並んでいると、俺は美しさすら覚える。
まるで数字が自分の体の中に染み渡るみたいだ。
今日も数字たちは俺に様々な情報を語りかけてくれる。だから全く人と話すことが無くても俺は平気だった。
そして、一通り計算し終わったら、俺はまた数字を言葉へ戻すのだ。
皆がわかるレベルの言葉に落とし込んだら、すべての作業が完了する。
最終チェックで一通り目を通し、俺は最後にチンと机の上のベルを鳴らした。
その仕草は別に俺がやりたくてやっているわけじゃない。
天才が露わになった初めのころ、親と作業していた時に合図として使ってたからに過ぎない。けれど習慣とは恐ろしいもので、俺は一人になった今でもこのベルを鳴らしている。
もったいないからベルを鳴らしたと同時に、ついでに「作業完了」メールが届く仕組みにしておいた。
依頼主からはいつも感謝の返事が届くが、俺はそれ以上メールを返さない。俺はただの機械に化していたかった。
そんな風に次々と仕事をこなしていたら、俺の部屋は当然のように荒れていった。
全く、これだから人間とは厄介だ。最初は親に教え込まれた通りに家事も行っていたが、俺はそんなことよりも自分の才能を活かすことに集中したかった。だから、俺はだんだんと仕事と家事を両立することが億劫になっていった。
そして、終いにはにっちもさっちもいかない、ゴミ屋敷になる寸前にきてしまった。
俺は仕方なくとあるサービスをネットで注文することを決めた。
「ロボット家事代行サービス」。いわゆる、家政婦派遣のロボット版だ。
人間嫌いの俺には丁度いい。俺は一番価格の安いものを、安っぽいホームページを眺めながら選び、ぽちりとその「申し込み」ボタンを押した。
派遣されてきた彼女は最近話題の家事ロボットで、M-c10という立派な名前がついていた。
耳には白いお椀のようなヘッドホンがついていて、頭にはいかにもそれらしいアンテナがひとつついている。それが、彼女が人間ではない証だった。
逆を言えばそれ以外は人間と全く変わらない姿をしている。今、流行りのアンドロイドだ。白い肌に、長いまつげ。薄金髪のストレートな髪。端正とれたその顔は本当に人間離れをしている。白いピタッとした新素材のコスチュームに身を包み、豊満な体が嫌でも目に入ってくる服装だ。年齢は20代前半を想定して作られたのだろう。自分よりも年上であることは確かだった。このデザインはおそらく開発者の趣味なのだろう。「女」を彷彿せざるえない家事ロボットという彼女なりの運命を俺は垣間見た気がした。
「何を致しましょうか」
そう言って初日、俺に問いかけてきた。
俺は作業中だったから、画面にくぎ付けになりながら、無言で洗濯物の山を指さした。彼女はそれをみてコクと頷くと、もくもくと洗濯物を片付け始めた。
俺は画面に向かいつつも、視界の端で彼女が動く様子をじっと見ていた。彼女は俺には気にも留めず、向こう側の洗面所へ去ってしまう。俺は作業に集中しようと画面を再び食い入るように見るが、彼女が視界に入るたびにまたちらりと気になって見てしまう。
そうやって一日を過ごし終わると、俺はすっかり疲れ切ってしまった。
‥‥いったい俺は何と戦っているというのだろうか。
俺は次の日から仕方なく、集中するために彼女が身に着けているのと同じ白いヘッドホンで耳を塞ぐことにした。ヘッドホン越しに、ゴウンゴウンと洗濯機が揺れる音が微かにしていた。