都会の暗闇と心に差す光
夕方の東京。珍しく残業の無かったこの日、24歳の沢城遥は港区の大きな交差点を人波に揉まれながら歩いていた。
この人の海を流されていると、自分自身の存在が有象無象に過ぎないのだと思えてくる。
(ていうか私って本当にいるのかな?)
己の実存すら疑ってしまうほどの雑踏と喧騒に人としての感情は極限まで磨滅され、経済を回す歯車としてのルーティンに則る事のみが生きる意味となった自分に嫌気が差す。
唐突な目眩に視界と頭がグラつき、思わず吐きそうになりながら遥は交差点を抜けて、自宅のマンションへと帰って来た。4階にある自室の玄関に入ると、背中でドアを押して閉めながらそのまま尻餅をつく様にへたり込んだ。
ドアに背をもたれながら、ポカンと口を開けて無心で照明を見上げる。
(不っ細工な顔してんだろうな……)
と、今の自分の表情を想像しつつも、日々の激務で積み重ねられた疲労によって動くことができなかった。
やがて鉛のように重い身体でゆっくりと起こして、リビングへと向かうと、手にしていたコンビニ袋から温められたナポリタンを取り出して、おもむろに食べ始めた。
こんなのいつ買ったっけ?
そもそもコンビニなんて寄ったかな?
会社からマンションまでは、先ほど交差点で吐き気を催した記憶しかない。しかし、袋に入っていたと言う事は、無意識のうちに万引きしてしまったというわけでもないのだろう。ならまあ、いいか。
テーブルに置いたナポリタンを食べながら、スマホで動画を楽しむ気力も無く、ぼんやりと今日一日を思い返す。意識はやがて今日という日を行き過ぎて、どんどん過去へ過去へと遡り、遥はこれまでの人生を振り返る事になった。
山梨県南アルプス市出身である遥は、至って平凡な家庭に生まれ、3歳離れた弟と共に大自然に抱かれた都市の中で育った。元々勉強はできる方だったので、地元で一番偏差値の高い高校に進学し、自分と同じく学力の高かった弟に勉強を教えながら、学年2位の成績で次席卒業した。担任からは有名大学への進学を勧められたものの、特にこれ以上何かを学びたいと言う意欲も無く、4年もの歳月をダラダラ過ごすくらいならと、東京にある大手食品会社の本社事務員として就職したのだった。
大学に行かなかった事に後悔は無い。今だって、高卒ではあっても悪くない額の給与をもらっている。問題は、学歴でも金銭でも埋められぬ実存感覚の喪失であった。
毎日会社へ通勤して、手際良く事務作業をこなし、後輩社員を指導し、必要とあらば広い本社内を走り回る。しかしながら誰かに褒められるわけでも、感謝されている実感も無い。
それが遥の役割であり、存在意義なのだ。ただそれだけが。
それが私の人生か……。
ナポリタンを巻いたフォークを置いて、「ふっ」と自嘲の薄笑いがこぼれる。そもそも『生きる』ことの意味がよく分からなくなっていた。
会社的にはそれなりに役に立っているのかもしれない。しかし代わりはいくらでもいる。
あなたじゃなきゃ困る。と言われても、自分がいなくなったらなったで会社は余裕で回るのだ。
このままでは結局は良いように使われた挙句、何の充足も感じられぬまま生涯を終えてしまう気がして、虚しくなった。しかしそれが社会というものなのだ。
虚しいの極みだ。
一口食べただけのナポリタンに遥はフタをした。
それから、テーブルの上にコンビニ袋の影に隠れていた大量のPTPシートの束が目に留まり、思わず手に取ってまじまじと見た。
忙殺される日常に不眠症を患い、精神科クリニックを受診した際に処方された睡眠薬だ。しばらくは真面目に飲んでいたのだが、体と相性が良すぎたのか仕事に遅刻しそうになったり、日中ぼんやりとする事が多かったので、すぐにやめた。
『もう楽になっちゃえば?』
頭の中でそんな言葉が聴こえた気がした。
『今まで頑張り過ぎたんだよ。もうゆっくり休みなよ』
誰かに言って欲しかったこと、でも誰からも言ってもらえなかったこと。遥の目が潤んだ。
「そうだね。もういいか……」
PTPシートの束をまとめていた細い輪ゴムを解く。勢いよく跳ねて部屋の隅に飛んで行ったそれを冷ややかに見送った後、コップに水を汲んできて、手元にあった空のグラスに睡眠薬の錠剤を一つ一つ押し出していく。
やがてグラスが錠剤で満ちた。
『安心してお眠り』
そっと寄り添う心の声に遥は頷いて、薬に手を伸ばしたが、グラスに指先が付くか付かないかくらいの所でピタリと手が止まった。
スマホの着信音が鳴ったのである。
何だろ、会社かな?と画面に表示される相手の名前も確認せずに反射的に電話に出た。
『もしもし、姉さん?』
「……蓮?」
電話を掛けてきたのは弟だった。予想外の相手に驚いた。
「えっと、何?どうしたの」
タイミングがタイミングなだけに、ぎこちない対応になった。
『ああ、ごめん急に。あのさ、今姉さんの部屋の前にいるんだけど……』
「えっ」
軽く焦ったが、
「あー、いいよ。今開ける」
グラスに入れた錠剤を咄嗟にサプリメントケースにジャラジャラと流し移して、目元を拭いながら玄関まで行きドアを開ける。
「久しぶり」弟の蓮が立っていた。
「うん。蓮、久しぶり」
迎え入れられた蓮は玄関できちんと靴を揃えると、遠慮がちにリビングの床に腰を下ろし、
「食事中だった?」
ほとんど手をつけられていないナポリタンを見てそう言った。
「ううん大丈夫。よかったら食べる?温め直すよ」
「いらないの?」
「うん。さっき交差点で吐きそうになっちゃってさ。ほら、人混みが辛くて」
「そう……」
蓮は心配そうに呟いて、黙り込んだ。
実は蓮もまた、高校卒業後に東京の埠頭に就職して職場も遥と同じ港区内であったが、遥はお互いの自立の為にと、あまり頻繁には会わないようにしていた。いつもどこかお堅い性格の遥に対して、蓮は幼い頃から一歩も二歩も引いた距離感で接してくる。
「待ってて」沈黙が気まずくなる前に、遥はナポリタンをレンジで温め直して蓮の前のテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
キッチンから出してきたステンレスのフォークを渡して、遥はテーブルに頬杖をついてパスタを食べる弟の様子を見ていた。
「姉さん」蓮が遥を見た。
「ん?」
「あのさ、隣に越してきてもいいかな?」
「えっ?」遥は苦笑いを浮かべて返した。
「もちろん姉さんに迷惑はかけないよ。今働いてる会社も姉さんのとこ程じゃないだろうけど、結構いい給料くれるしさ。だから……どうかな。ダメかい?」
「何よ急に」
蓮はフォークを置いた。
「実はさ、母さんからちょっと様子を見に行ってくれないかって、頼まれたんだ」
「お母さんが?」
「うん。電話にも出ないから何かあったんじゃないかって」
「ああ、おう……そういえば」
確かに母親から何度か着信があったのは知っていたが、憔悴し切った自分の声を聴かせるのがどうにも躊躇われて、掛け直せずにいたのだった。
「俺も何回かLIneしてたんだけど既読つかないから、姉さんそんなに疲れてるのかなって……」
「えっ、嘘……あー本当だ。ごめん」
スマホのLIneを確認すると、未読のまま放置された弟と母親からのメッセージやキャンセルされた通話の履歴が残っていた。
「全然ノーチェックだった。ごめん」
力無く笑みを浮かべて見せると、蓮の顔色はますます心配に染まった。
「俺、ドア開けてもらって一目で分かったけど、姉さんかなり疲れてるよ。相当無理してるでしょ?」
ギクリとして思わずサプリメントケースを見てしまった。
そっと弟に視線を戻す。目が合った弟の瞳は悲しさを湛えていて、遥は思わず顔を伏せると、一呼吸整えてから再び弟と向き合って、虚ろな目をしながらも尚も心配させまいと微笑みを見せた。後々この時のことを蓮から聞くと、何やら不敵な笑みを浮かべて見えていたようで怖かったらしい。
それからほんの少し目を泳がせて逡巡した後、ふと息を吐いた。
今の自分の、このどうにもならない鬱々とした心の内を蓮に打ち明けても良いのではないかと思った。
そう思わせてくれる程に、弟は少し見ない間に大人になっていたのだった。
それにどうせ死ぬつもりだったのだ。今さら無理して強がる意味が無かった。
「蓮、私最近ね……自分が何なのか分からなくなるの。自分が何をしているのか、何をしていたのか、どこに立ち寄って何を買って何を食べたのか、自分が本当に存在しているのかどうかも……」
虚脱しきった笑みのまま、とうとう一筋の涙が頬を伝って流れた。蓮はそんな姉の表情に何か異様なもの--人として何かが欠落してしまった様相を感じ取って、酷く心が痛んだ。
しかし当の遥はぽつりと、
「誰にも言えなかった……」
どこか安堵した様に呟いた。
今まで姉さんはどれだけ心に無理を強いて来たのだろう、と蓮は想像して、また辛くなって、それ故に何と言葉を紡げばいいのか分からなくなってしまった。
それなら、もう言葉を探すのをやめよう。姉さんに真っ直ぐ向き合おう。
「姉さん。俺、やっぱり隣の部屋を借りるよ。姉さんから見たら甘えになるのかもしれないけど、俺にはそんなこと気にしてる場合じゃない様に見えるよ」
胸の内の思いのままを声に乗せた。素直で曇りのない眼でそう言われ、遥が思わず顔を伏せると、重力に従って涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「本当は仕事も、もう少し負担の少ないのに変えて欲しいけど……それは姉さんの判断だから何も言わないよ。だからしばらく近くにいさせてくれないかな。もしどうしても煩わしいなら、その時にはまた別の場所に行くから……」
続いた蓮の言葉に、遥は小さく頷いた。
一週間後。
あの後、蓮はすぐに空いていた隣の部屋に越して来た。遥も少し考え方が柔らかくなって、お互いの都合が合えばどちらかの部屋で夕飯を一緒に食べることも増えた。故郷の南アルプスにいる母親にはその様子をスマホで撮って送っている。
(家族っていいな……)
自立心が強過ぎたあまりに精神的な孤立を深めていた遥は、最近になって初めてそう思った気がした。