後編
王都からアーカム・ベオライト並びにエルテ・ベオライトに召喚命令が下されたのは、夫婦として過ごし始めて三ヶ月が経った頃であった。
「さて、何用だろうな……」
「国王様による召喚命令です。恐らく、わたくしたちが夫婦としてきちんと過ごしている、という対外向けのアピールでしょう」
その言葉で、アーカム様は得心がいったようだった。
「……なるほど。俺の婚姻が偽装でない証明か」
「ええ。残念ながら、アーカム様にファナリア王女殿下がご執心であったことは、貴族の間でも広く知られてございます」
まあ、あの王女が隠すこともなかったのが一番の理由ですけど。
「貴族たちの間で、俺の婚姻が偽装であるという認識が広まっては困る。なので、舞踏会に参加してアピールするという訳だ」
「その通りです」
「なら大丈夫だろう」
「はい?」
アーカム様はいつもの通りの無表情ながら、しっかりとわたくしの目を見て言った。
「俺と君は、偽装でも何でもないのだから」
「……そ、そうですね」
迂闊だった。
わたくしの旦那様は、『氷騎士』の異名を持つ真面目にしていると王女が執心するレベルの美形なのであった。
普段は「この館の掃除をしようと思う。だが、万が一があると危険だ」といって、騎士甲冑の上にエプロンをつけるような人間なのだけど。
(そして本当に腐食していた階段から落下したものの、鎧のお陰で軽傷で済むような人間である)
だが、真面目にしていると美形なのだ。
なので直視されると、正直全身にぞくりとしたものが走る。
悪寒ではなく、高揚のような興奮のようなもので。
「どうした、大丈夫か? もしや馬車に酔ったか? ……いざとなれば、これで受けるが」
そしてアーカム様は、恭しくこちらに騎士甲冑の兜を差し出した。
それに吐けと仰いますの?
わたくしは冷静さを取り戻した。
◆
「久しいな、エルテ・フォクシーズ」
「エルテ・ベオライトとなりました、国王陛下」
「おお、そうであったな」
国王陛下との挨拶は、侯爵令嬢であったわたくしだけで、騎士爵であるアーカム様は玉座の間に入ることなく待機している。
そして今しがたの挨拶は、
「わたくしはアーカム様と夫婦になりました、全く問題ありませんよ」という宣言のようなものである。
「生活はどうだ?」
「まったく問題ございません。アーカム様は、わたくしにひたすら愛を捧げてくださいます。とても、幸福ですわ」
「うむ。それならよし。エルテ・ベオライト。汝は騎士爵に嫁いだ身であるが、特例として夫共々、王家主催の舞踏会への参加を許す」
「光栄至極にございます、陛下」
……という訳で、お芝居じみたやりとりは終了。後は招待された舞踏会でアーカム様と踊ってアピールすればいい。
……のだが。
「もう! なんなのよ、アナタ!」
以前聞いた事がある甲高い声。これは第三王女、ファナリア様の声だ……!
廊下を慌てて駆け足で走る。マナーとしてはアウトだが、今は夫の身を確保することが先決……!
◆
「何やっているのでしょうかアーカム様」
駆け寄ったわたくしは、その光景に呆気に取られていた。
王城の廊下には人より二回りは大きい石柱が並んでいるのだが、その一本に私の夫がしがみついている。
夏の蝉かしら?
「ああ、おかえりエルテ」
そして石柱にしがみついていた夫は、柱から手を離すと私に近寄った。
今しがたの奇行など、忘れたと言わんばかりだ。
「あ、あなた、ねぇ……!」
近寄ろうとしたファナリア様が、わたくしの顔を見てピタリと止まった。
その背後には、ファナリア様お気に入りの端麗な容貌の若い貴族たち(爵位継承権を持たない、高位貴族の次男や三男たちだ)がいる。ファナリア様の私兵のようなものだ。
彼らは敵意を籠めて、アーカム様を睨み付けていた……が、ほとんどが肩で息をして、汗だくだ。
そしてファナリア様。
息を切らした彼女は、いつもならきちんと整えられているはずの金の御髪が乱れていた。
「どうなさったのでしょう?」
「アーカムが逃げるからよ!」
「逃げたが、あなたとはぐれると困るのでこの柱を中心にぐるぐると回っていた」
なるほど納得。
アーカム様の身体能力は、ハッキリ言って桁外れだ。運動もロクにしていない貴族たちなど、赤子も同然だろう。
「あなた……アーカムの……」
「これは失礼いたしました。王女殿下、アーカム・ベオライトの妻、エルテ・ベオライトでございます」
わたくしはそう言って、カーテシーをした。
ファナリア様は嫌悪を隠さず舌打ちしたが、わたくしの名前と侯爵令嬢であることは覚えていたのだろう。
少なくとも、傍若無人に振る舞って良い人間でないことくらいは。
「……結婚したとは聞いたけど、ふぅん。退屈そうな方ね」
前言撤回。割と傍若無人でしたわ王女。
「いえ、エルテは全く退屈ではありません。むしろ面白いという方が適切です」
そして王女の嫌味に律儀に対応するアーカム様。ところでその面白いってどういう意味か後でお伺いしますね旦那様。
アーカム様の真面目腐った様子に、王女の苛立ちが更に募る。
「田舎暮らしも億劫でしょう? 私の部隊に加わるなら、王都での生活ができるわよ」
「いえ、田舎暮らしは全く苦ではないです」
王女の視線が、わたくしに移る。
「あなたは? 元侯爵令嬢にとって、田舎暮らしは過酷でしょう?」
「ふふふ、お気遣いありがとうございます王女殿下。ですが、田舎の新鮮な空気はわたくしと相性が良かったようで。充実しておりますわ」
「ふぅん。田舎臭くなったものね」
「王女殿下。その田舎の土地こそが、王都を育み、豊かにしてくれるのでしてよ?」
「……っ。今度の舞踏会に出られると思わないことね! どうせ参加したくてお父様に懇願しに来たのでしょうけど!」
「あら……でも舞踏会の参加は王命ですわ。王命に逆らうことなど、忠誠を誓うわたくしたちには出来ません。たとえ、王女殿下であっても……国王陛下のご命令には従わなくては。そうでしょう、皆様?」
わたくしは王女殿下ではなく、彼女の取り巻きである貴族のボンボンたちに話題を向けた。
「いや、それは……」「ええと……まあ……」
突然振られた話に、彼らは否応なく顔色を悪くする。
当然ながら、彼らも国王陛下の命令が絶対であることなど百も承知だ。
かといって、ここでそうですね、などと言えば王女の不興を買うことになる。
取り巻きのしどろもどろさにも苛立ったのか、王女は「行くわよ!」と叫んで、どしどしと足音荒く、立ち去っていった。
「……助かった。このままでは必殺の天井張り付きまで行うところだった」
「ええ、凄く光景が想像できるのでなるべくお止めくださいね旦那様」
ヤモリかな?
◆
――さて、舞踏会の日までわたくしたちは王都で大人しく過ごすことにした。わたくしは侯爵令嬢から騎士爵の妻へ。そして騎士爵の旦那様は王女の寵愛から逃げる人間として、それぞれ奇異の目で見られている。
それなら別邸でのんびりするのが吉と言えるだろう。
もちろん、その間にやるべきことは色々とあるのだけど。
そんな折り、突然に会いたくもない人間がわたくしのところへやってきた。
元婚約者、ユーリ・ハルパーである。
「騎士爵の妻だって? 落ちぶれた……失礼、いや、気の毒なことだ」
開口一番、笑いながらそう言う彼に、わたくしは玄関の扉を示した。
「そうですか、お帰りください、出口はあちらですよ」
「おいおい。騎士爵の妻如きが、次期伯爵である僕に何か言う権利があると思うのかい?」
「……継承権は剥奪されたとお伺いしましたが」
「それでも僕は、ハルパー家の人間だ!」
「それを言い出せば、わたくしも実家はフォクシーズ家でございますよ」
彼がわざわざわたくしに会いに来た理由が分からない。
まさかよりを戻そう、などという魂胆なのか。
「――あの、いい加減用向きを言ってくださらないと」
「君が望むなら、よりを戻してもいい」
ああ、やはりよりを戻しに来たのか……。
……ん? 何か違いますわね?
「よりを戻そう、ではなく戻してもいい……とは?」
「だって君、騎士爵の妻だなんて落ちぶれただろう? 暮らしも苦しいはずだ。田舎なんて耐えられないだろう? それなら、僕とよりを戻す方がいいと思わないか?」
「お断りします」
「そうだろうそうだろう。よし早速父上に――はい?」
「お断り、いたしますが」
「何だと貴様!!」
激昂するユーリ様、もといユーリをよそに、わたくしは紅茶を一口飲んでから、冷然と告げた。
「ユーリ様が上手くいっていないこと、わたくしも存じ上げております。キーノ様に継承権が譲られ、伯爵家からも放逐寸前ですものね」
「……!」
なぜ知っている、という顔をするユーリ。知っているに決まっておりますわ、そんな程度の情報。
「それで、わたくしとよりを戻せば継承権が戻ってくると思ったのでしょう?」
「違……! 僕は……!」
もういい、とわたくしはうんざりしたように手を振りました。
「お客様はお帰りです。案内してあげて」
「畏まりました、奥様」
別邸の使用人は、当然わたくしたちの事情を知っている。父にもわたくしにも忠誠を誓っているし、伯爵ではない彼を排除することに躊躇いはない。
「この……貴様……この……クソ女! 陰気なお前をあれだけ、かまってやったのに……!」
かまってやった、とは浮気放題だった学園での生活でしょうか? ああ、もう……とため息をついて、彼を睨もうとして……。
「覚えていろ、このクソ……なんだ!」
とんとん、とんとんとん。
ユーリの肩を、しつこく指で叩く人間がいる。最初は見もせずに振り払うだけだった彼も、苛立ったのかようやく彼に顔を向けた。
「え?」
「我が国はこういう諺がある。騎士たるもの、妻への侮辱は三倍返し、と」
「そんな諺、ありましたかしら?」
わたくしの指摘も受け流しつつ、夫であるアーカム様は真面目腐った顔で、ユーリの肩を掴み……掴み?
「とうっ」
持ち上げた。呆気に取られていたユーリは、抵抗もできずにアーカム様の両肩に担ぎ上げられ――そして顎と両腿を掴まれ、思い切り背中を弓反りにされたのです。
「ギャアアアアアアアアアア!?」
「うるさい」
「モガガガガ!?」
顎を強制的に閉じられ、ユーリは悶絶しくぐもった悲鳴を上げる。そしてメキメキと音が鳴る背骨!
成人男性を担いでいるにもかかわらず、わたくしの旦那様は平然とした表情でお告げになりました。
「では、彼のおしおきも兼ねて走ってくる」
そんな……とわたくしは慄然とした。この状態で走れば、きっとユーリは今でさえ激痛が走る背中に、更なる衝撃が走るに違いありません。それはまさに生き地獄。
いくらユーリが自分から婚約破棄しておきながら、身勝手な理由でよりを戻そうとか言い出す輩でも、あまりといえばあまりに惨い仕打ちですわ……!
「アーカム様! そんな! おやめくださいませ!」
いそいそ、がちゃり、ばたん。
そう言いつつ、両手が塞がったアーカム様のために屋敷の扉を全開にするわたくし。
「これで、君の屈辱が少しでも晴れることを祈る」
「そんな……」
照れるわたくし。
「~~~~ッ!」
背骨が弓に折れ曲がって滅茶苦茶痛そうな元婚約者。
「また会おう! 夕食までには帰ってくる!」
そして全力疾走していく、わたくしの旦那様。
「いってらっしゃいませ、アーカム様!」
見送るわたくし。
「……いいのかな……いいか!」
そして、見なかったことにした使用人たちであった。
◆
そんな軽い騒動がありつつ、舞踏会当日。
わたくしとアーカム様は、この日のために何度も打ち合わせを繰り返した。
原因は、王女殿下。
あれから、元侯爵令嬢としてのコネクションを活かして情報を集めに集めました。
そして結論。
あの王女殿下にはストッパーがない。つまり何というか、『そんなことをすればいくら王女でもマズい事態に陥る』という自制心めいたものが存在しないのです。
自分を中心に世界は回っていて、
自分の思い通りにならないことなど世の中にはない。
あったとすれば、それは世界が間違っているのだ。
継承位があまりに低いために、誰もが彼女を甘やかしたし、親しく付き合った。派閥抗争とは無縁だからです。
国王陛下もまた、「いずれ他国へ嫁に行く身だから」と多少なりとも甘やかしたことは否めない。
そしてまあ、本人の気質が何というか……そういうモノだったのでしょう。
そんな彼女は、まもなく他国へ輿入れする。
不幸になるか幸福になるかは彼女次第であるが、あの様子では正直望み薄。
国王もそのことは重々承知しているらしく、輿入れする国へ「彼女に何があろうとも、こちらは関知しない」と、言い方は悪いが突き放す算段を整えているようです。
けれど、未だ彼女はこの国では権力者。
そんな彼女が、本来は招待されていない彼女の取り巻きを何人も舞踏会に入ることができるように画策している、という。
そしてついでに彼女は本来王家が使うドレスルームとは別に、もう一部屋を使うと王城の使用人に命じておりました。
舞踏会の会場からは10分ほど歩かねばならず、着替えて戻るには半端に遠すぎて、使う訳がないというのに。
なのに、わざわざ彼女はそんな宣言をしたのです。
ここから導き出せる結論は、わたくしにとっても頭が痛いものだった。
まさか、とは思うのだけど。
「考えすぎでしょうか……」
「エルテ。たとえ考えすぎだとしても、可能性があるならそれに対処するべきだと思う。そして、俺は……君の考えすぎではない、と思う」
旦那様は一歩間違えれば誇大妄想であり、王家への誹謗となりかねないようなわたくしの推理を、いつもの真面目な表情で、受け止めてくださいました。
「……」
「どうした?」
「いえ、その、何と申しましょうか……嬉しくて」
「?」
小首を傾げる旦那様。
わたくしの考えを、笑って受け流しなどしなかった。
真剣に考え、真剣にわたくしの意見に賛同してくださった。そして何より、わたくしの身を案じてくださった。
「何でもありませんわ」
「そうか」
白皙の美貌の『氷騎士』は、頷いて微かに――本当に微かに、その顔を緩ませて、微笑んだ。
その微笑みを見ることができたのは、あるいは気付くことができたのは、きっとわたくしだけに違いない。
そんなことを、思った。
◆
言うまでもなく、舞踏会でわたくしたちは注目の的だった。若干、針のむしろとでも言うべき遠慮のない視線がザクザクと突き刺さっていた。
が、わたくしはそもそもが元侯爵令嬢、そんな視線程度に怯む人間ではない。
そして我が夫は、
「……勝てる、勝てる、勝てる、勝てる、多分いける」
視線を向けられる度に、その方向に目をやって戦って勝てるかどうかの算段をしておりました。
視線に悪意が含まれているせいか、旦那様も視線に過敏になっているらしい。
奇行ではあるが、わたくし以外には届かない声なので奇行ではない、たぶん。
「よし、砕けた」
砕かないでくださいませ旦那様。
ちなみにそうやって旦那様が目をやった先に令嬢がいた場合、漏れなく腰砕けになっていました。なお男性だった場合、旦那様の溢れん闘志に気圧されたのか、やはり腰砕けになっていました。
「『氷騎士』、さすが魔性の美貌……」
好奇心で眺めていた一人の貴族がそう呟いた。結果的にはそうなっていますわね。
「では旦那様。踊りましょう」
「ああ、練習の成果を見せるとしよう」
騎士爵であったアーカム・ベオライトは貴族向けのダンスを習ってはいません。けれど、さすがわたくしの旦那様。数日の練習であっさりとモノにしてしまったのです。
「ダンスは……格闘技なのだろう?」
「そういうことにしておきますわ」
得心する旦那様に、わたくしはもちろん賛同した。お陰で覚えが非常に早かった。
ちなみに旦那様は傍目には無表情であったが、若干のドヤ顔であったことも付け加えておこう。
優雅に、華麗に、敵意の視線が賛嘆に切り替わってしまうほどに。わたくしたちは踊り続けた。
一曲目を踊り終えると、わたくしたちは離れることなく、二曲目を踊り出す。
ちなみに我が国固有のマナーですが、夫婦はファーストダンスを一曲踊るのがしきたりであり、そこから先は自由です。
多くは離れて、次のパートナーと踊るのだが、仲睦まじい夫婦は、二曲続けて踊ることもある。
そしてわたくしたちは、仲睦まじき夫婦なのだ。
「エルテ」
「ええ、分かっておりますわ」
旦那様の声が耳をくすぐった。一際悪意の籠もった視線。その先には、間違いなく第三王女がいる。
踊ることもせず(取り巻きたちが踊ろうと誘うが、王女は気にも留めていないようだった)、わたくしたちを睨み付ける様は、さすがに常軌を逸している。
……やはり、そういう事なのだろう。
少し、互いの手に力が籠もる。
「大丈夫ですわ。全て手筈通りに」
「ああ。俺もいざという時の覚悟は決めている」
そして二曲目が終わると、つかつかと周囲の視線を気にすることなく、ファナリア王女がわたくしたちの前に立ち塞がった。
「これは王女殿下」
カーテシーと騎士流の挨拶。ファナリア王女は、ぐっと何かを堪えるように目を閉じると、やや引き攣った顔で微笑んだ。
「息災なようね、お二人」
「ええ、とても。これも全て、仲立ちしてくださった国王陛下のお陰ですわ」
「そう。あのね、エルテ。私、前からあなたとじっくり話し合いたいと思っていたのよ」
「……まあ。それはそれは」
ああ、もう。まったく。
「二曲踊って汗もかいたでしょう? 休みがてら、少しお話できないかしら?」
「もちろん。わたくしが王家の命令に逆らうなど、有り得ないことですわ」
わたくしはそう言って、旦那様に顔を向けた。
「旦那様。それでは、わたくし王女とお話してきますね」
「ああ、俺はここで待っている」
彼の言葉に、取り巻きの気がわずかに緩んだのを感じた。
「それじゃ、行きましょう。エルテ」
王女の微笑みは、勝利の確信に満ちたものだった。
◆
舞踏会の広間を離れ、少し薄暗くなった廊下をひたひたと歩く。王女たっての願いで、わたくしは王女の横に並んでいた。そしてその後ろを、王女取り巻きの貴族が四人。
彼らの視線は露骨で、わたくしは全く以て気が滅入ります。
「こんな場所に、お話できる部屋があるなんて。まだまだ王城には、知らないことがありますわね」
「そうでしょう。わたくしのとっておきの、隠し部屋みたいなものね」
そうですかそうですか。
わたくしはまるで何も知らないような無垢な笑みで、彼女に追従した。
◆
「ここよ」
「失礼しますわ」
部屋の前には見張りもおらず、部屋の中も無人で使用人も見当たらない。
「……どなたか、お水を持ってきてくださる?」
そう言ったわたくしに、ファナリア王女は嘲笑した。
「馬鹿じゃないの! まだ気付いてないの!? あなたって本当に鈍いわね!」
その言葉にちょっと苛立ったのと怯えた様子を見せたくはなかったので、わたくしはこう切り返した。
「存じておりますわ。あなたの取り巻きにわたくしを襲わせよう、と言うのでしょう?」
「……は?」
わたくしの言葉と態度に、王女たちは呆気に取られていた。
「いくら何でも気付きますわよ。数日前まで喚き散らしていた人間が、急に猫撫で声で話がしたいなんて言い出したのですもの。真っ当な知性を持っていれば、気付きますわ」
「な……いや、なんで……」
「どうして、わたくしがここに居るかですか? わたくしは安全を確信しているからですわ。……世界一愛しい旦那様が、見守りくださってますもの」
「はぁ?」
台詞の突拍子のなさのせいで、「世界一愛しい旦那様」と言った時に、声が滅茶苦茶上擦ったのは誤魔化せたようだった。
そして、その台詞と同時にどかんと音を立てて扉が蹴破られた。
「エルテ! 世界一愛しい旦那だ!」
旦那様、アーカム・ベオライトの登場である。あと後半は恥ずかしいのでお止めください。
「アーカム! あなた……!」
「失礼、王女殿下。我が妻との話し合いはもうお済みのようなので、駆けつけて参りました」
「いくら何でも早すぎる……どうやって……!」
確かにその通りである。
舞踏会の開かれていた広間から、この部屋まで歩いて一〇分以上かかる。廊下はほぼ真っ直ぐで取り巻きたちも後ろに誰かついてこないか警戒はしていただろう。
だが、ファナリア王女は知らなかった。
「ご存じないようですが。私は、天井を這い回ることができるのです」
「は?」
石柱にしがみつくくらい、余裕でこなせる我が夫は、
「ですから。天井を這いながら、あなたがたを追ってきたのです」
王城の廊下、その天井をかさこそと這い寄ってきたのである……!
正直、予め知っていたはずのわたくしでもかなりの恐怖映像でした。ええ、まあ。
「では帰ろうか、我が愛しいエルテ」
「……!」
平然とした旦那様の言葉に、ファナリア王女が爆発した。
「ふざけるな、帰れると思ってるの!!」
取り巻きたちは色を失いつつも、予め用意していたらしい短剣を取り出した。
「この女の顔に傷をつけなさい! 私を愚弄したこと、一生後悔させてやるわ!」
じりじりと取り巻きたちがわたくしたち夫婦ににじり寄る。さすがに微かな恐怖のせいで、ごくりと唾を飲んだ。
けれど、旦那様はいつもと変わらぬ表情でこう告げた。
「あなた方に一応言っておくのだが、妻を傷つける輩に手加減は一切できん。死ななければ儲けもの程度に考えてくれ」
恐怖はあっさりと霧消する。
そして前言撤回。私の旦那様は、表情こそ変わらないが。
滅茶苦茶、怒っていた……!
◆
で、終了。
「な……そんな、まさか……」
絶句するファナリア王女。床では半殺しになった取り巻きたちが呻いている。
まあ、分かりきっていたことではありますが。
ちょっと武器を持ったくらいで、うちの旦那様が負けるはずがありませんというか、予想以上の強さでしたわ……。
一応、以下にどんなだったか四行で解説いたしますね。
旦那拳→←短剣 拳→ 短剣→→→
旦那蹴→←短剣 蹴↑ 短剣↑↑↑
旦那掌→←短剣 掌→ 短剣回回回
旦那膝→←短剣 膝↓ 短剣悶悶悶
伝わったでしょうか。ちなみに最後の膝は、男性の方の急所に直撃したそうです。
うろたえていた王女ですが、キッとわたくしたちを睨み付けた。
「……お父様に言ってやるわ……!」
「ほう」
「お父様に言うわ! あなたがこれをやったって! 私を襲おうとして、取り巻きを痛めつけたって!」
最後まで諦めようとしないファナリア王女に、わたくしは嘆息する。予想していた中でも、あまり望ましくない展開だった。
もちろん、わたくしたちは彼女の企みを洗いざらい話して、国王陛下に裁決を仰ぐつもりである。
だが、一抹の不安があるにはある。
国王陛下が、彼女可愛さのあまりわたくしたちの言い分を却下するのではないか、という点だ。
もちろん、わたくしはフォクシーズ家の人間である以上、そうそう一方的に追い込まれることはないだろうが……。
夫であるアーカム・ベオライトは別だ。わたくしは実家の権力もフル活用して、どうにか彼を守ろうと思っておりました。
だが、ここでわたくしの旦那様は――わたくしの予想を見事に飛び越えた。
「では、王女。あなたを殺すしかないな」
「……え?」
「……はい?」
わたくしと王女は、ほぼ同時にきょとんとした声で反応した。
旦那様、『氷騎士』アーカム・ベオライトは震えるほど冷たい声で告げる。
「殺すしかない。ファナリア王女……いや、ファナリア。あなたは俺の妻を害そうと企み、それが潰えてもまだ害することを画策している。あなたは諦めまい。何が何でも、私の妻を傷つけようとするだろう」
一歩、夫がわたくしから離れて、ファナリア王女に近付いた。
「あ……」
「それならば、俺はお前を殺す。絶対に殺す。そして、生きている彼らも皆殺しにした後、俺も死ぬ。エルテが生き残ればいい。死なば諸共だ。分かったか?」
「……」
「分かったかッ!!」
ファナリア王女がへなへなと座り込んだ。
悲鳴を上げることすらもできず、そのまま恐怖のあまり失神したらしい。
そして、先ほどの王女に対する殺意はどこへやら。
のんびりした口調で旦那様は言いました。
「では、助けを呼ぶとするか」
まったく……。
わたくしはくいくいと旦那様の袖を引っ張った。今の台詞、見逃せない点があります。
「旦那様。先ほどの台詞ですが……」
「うん、本当にいざとなればその腹づもりだった。幸い、俺たちはまだ『白い結婚』だからな。その宣誓書は既に作ってある。それを持って行けば、君はどうとでも……!?」
おだまりなさいませ、旦那様。
もう大丈夫かもしれませんが、もし、もしそんな事態に陥っていたならば。
わたくしもまた、もちろん命を絶つ心づもりですわ。
そんな意志を強く、強く籠めて。
わたくしは彼と口づけを交わしたのでした。
◆
ファナリア王女とその取り巻きは、茫然自失でいるところを使用人に発見されました。
国王陛下には(旦那様の最後の脅迫を除いて)、洗いざらい報告しており、わたくしたちは結果を知るよりも先に旦那様の領地へと帰還しました。
王都にいて、口封じなどされてはたまりませんものね。
ファナリア王女はほぼ軟禁状態で他国へと輿入れ。
相手の王子には相思相愛の正室の方がいらっしゃり、彼女は側妃としての扱いです。
そして、これはあくまで国家間の結びつきの意味合いが強い、政略結婚。
王子が側室である王女と心を通わすことはないだろう、というのがわたくしの見立てでした。
……もちろん、それが辛い生活であることに疑いはありません。ですが、決して全てが束縛された囚人ではないのです。
ファナリア王女が相手の王子と心を通わせ、側妃としての人生を送るのか。
あるいは我が国で暮らしていた時のような、傍若無人な真似をして囚人並みの扱いをされるのか。
それは全て、彼女次第でございますね。
取り巻きの方々は、王女とは関係なくわたくしにちょっかいを出そうとした不逞の輩として処罰されました。
いくら王女の命とはいえ、聞いていいものと悪いものがあり、彼らはいざという時に真っ先に切り捨てられる存在だったのです。
その事実をよくよく噛み締めながら、残りの人生を送って欲しいものですわ。
そして最後まで選択を間違えたユーリ・ハルパーは、大変可哀想でありますが、旦那様の荒技によって腰を痛めたそうでございます。
もちろん、伯爵家のコネクションなら高名な医者に治療してもらうことも可能でしたでしょうが……。
ハルパー家の跡取りであるキーノ様は、断じてそれを許さなかったそうです。
「腰をこれほど痛めた状態であれば、女性にちょっかいを出すこともなくなるでしょう。いやありがたい」
とはキーノ様の言葉でした。
そんなこんなで、わたくしとアーカム様は再び田舎の小さな小さな領地へと舞い戻ってまいりました。
馬車で揺られ、戻ってくれば夕暮時。
橙色の温かな光が、古めかしい館に差し込む様は何とも郷愁めいた美しさがありました。
わたくしたちの帰還を知る使用人たちが温かい食事を作り、待っていることでしょう。
「ふふ、王都にいたのは一ヶ月もありませんのに。少し懐かしいですわね、旦那様」
「……エルテ、大事な話がある」
その真剣な声色に、わたくしは振り向きました。
相変わらずの無表情。でも、今のわたくしには分かります。その苦悩するような顔が。
「旦那様……?」
「俺たちを取り巻く騒動は、全て終わった。本来ならば、俺は、私は、君を手放すべきなのかもしれない」
その言葉に、わたくしは沈黙する。
何が言いたいか、手に取るように分かってしまう。
「それでも――俺は、君の全てが好きだ。故に、二度目ではあるが、この振る舞いを許されたい。……そう、かつての言葉を借りるなら。愛していない訳ではないのだ」
かつてと同じ、けれど今は意味合いが違う言葉。
跪いた彼は、わたくしの手を握り締めた。
「結婚して欲しい。心から愛している」
「承ります。そして、わたくしも心から愛していますわ」
その後のことは語るまでもない。
古今東西、やるべきことをやってのけた夫婦の結末など、当たり前の言葉に決まっている。
――二人は、いつまでも幸福に暮らしましたとさ。
「あ、ところで旦那様。『愛している人がいる』と結婚前に風の噂で伺ったのですが」
「家族と領民を愛しているし、これから先もずっと愛し続けるが?」
「やっぱりそういうことでしたのね」
「もちろん、家族である君も愛し続けるとも」
「わたくしたちの子供も、ですわよ」
「…………おお!」
読んでくださってありがとうございます。
どうか点数をつけていただければ、感謝の至りです。
小説を書くのは楽しいですね。
書籍化決定いたしました。詳細は後日になります。
また、それに伴って長編版も投稿いたしました。リンク先は以下の通りです。
よろしくお願いいたします!