前編
わたくし、エルテ・フォクシーズはベッドの端に座ったまま、
ぎゅっと拳を握り締めた。
不安、焦燥、混乱、そういう感情がごちゃ混ぜになって、
全身が冷えてしまったかのよう。
(本当に、本当なのかしら……彼に、愛する人がいるというのは……)
わたくしの結婚相手は、アーカム・ベオライト。
『氷騎士』の二つ名を持つ、容姿端麗な王国騎士です。
容姿だけではなく強さも凄まじく、
敵国の兵士が彼の姿を見ただけで怯えて逃げ帰ったという噂すらもあるのです。
ともあれ先の戦争で功績をあげた彼は、
王都の外れに小さな領地を褒美としていただいたそうです。
そんな彼とわたくしは元から結びついた訳ではなく、政略的な事情による結婚。
わたくしはつい一ヶ月前まで、別の婚約者がいた身でした。
侯爵令嬢の時に住んでいた絢爛な館からも引っ越し、
王都の外れにあるという小さな村が、わたくしと彼の領地となります。
当面は、ここ王都の別邸で暮らすことになるのですけれど。
侯爵令嬢にしては、あまりに慎ましい結婚式を挙げてからの初夜。
もしかすると、いや多分きっと。
彼は自分を愛することはない……のでしょうか。
何しろ王命による結婚、わたくしたちは結婚式の前に一度会ったきり。
「あなたはこの結婚、問題ないだろうか?」
という彼の問い掛けに、
「はい、もちろんです」
と答えたのが最初のやりとりなのです。
噂に伝え聞いたところによると、結婚相手には既に愛する人がいる……とのこと。
だとするならば、この結婚は『白い結婚』になるのかもしれません。
それならそれで好都合ですわ……そう考える一方、
わたくしは覚悟の上でやってきたのにと怒りを感じないでもありません。
「……いえ、まだそうと決まった訳では」
考えれば考えるほどに陰鬱でたまらなくなり、
平民たちの間で好まれる恋愛小説のような展開を連想してしまう。
彼には愛する女性がいて、
わたくしは無理矢理彼と添い遂げる邪魔者。
夜が更けていく。
やはり、彼は来ないのでしょうか。別にそれで何がどうなるという訳ではありません。
訳ではないのですが、やはり……傷つくものは傷つきます。
ツカツカツカ。
コンコンコン。
……来た?
「ど、どうぞ」
部屋の扉を開いたのは、わたくしの夫であるアーカム・ベオライト。
彼はその、『氷騎士』という二つ名に相応しい、
凍るような美貌で表情一つ変えないまま、こう宣言しました。
「君を愛することはない、」
その言葉に、わたくしは一瞬気が遠くなりました。
予想していたとはいえ、あまりと言えばあまりに無体な言葉で――
「という訳ではないのだが何しろ急に決まった案件なのでお互いに混乱しているのも当然だと思うというか私も混乱しているままだなのでここは一つ白い結婚とはいかないまでも結婚即初夜とかではなく節度あるお付き合いをしてお互いに歩み寄ることが大事だと思うのだがどうだろうか」
……。
……ん? んん?
わたくしはこてんと首を傾げました。
一気呵成にまくし立てられた言葉は、それほど不穏でもなかったような。
「あの……ええと、つまり今日は……」
「ああ。今日は……君が望むなら別々に寝ようと思う。問題なければ、共に寝ることを許されたい」
「わたくしを抱くことはない、のですね?」
「……そういうことは、もう少し深く分かり合ってからの方がいいと思うのだが……」
「わたくしを嫌いではない?」
「嫌いではない。が、今は愛している訳ではないと思う。君もそうだろう?」
それはまあそうだ、とわたくしも内心で頷く。
「加えて……もう一つ、重要かつ懸念すべき事実がある」
「は、はあ。あの、それは一体……」
「俺は女性と睦み合った経験がない」
騎士アーカム、わたくしの夫となった方は平然と、凍るような美貌でそれを告げて、
「即ち――完全無欠の童貞だ」
もう一度、念を押すように言ってぐいと胸を張った。
その生々しい言葉に、わたくしは思わず照れました。
「そ、それは、その……お、お疲れ様です?」
「いや、特に疲れてはいない」
「ですよね!」
「お互いに知り合って間もないまま、しかも私は童貞。うかつにその状態で睦み合おうとすれば、それは最早泥沼で戦うが如きになるのではないだろうか」
言われてみればみるほど、初夜に失敗する条件が揃っている、
とわたくしもなけなしの知識を動員しつつ同意した。
「……分かりました。わたくしもその、け、経験などございませんので、そういう方向性であれば、その、問題はない、と思います」
話の流れからして仕方ないが、わたくしもわざわざ経験がないことを言わざるを得ず、大変に恥ずかしい。
「そうか……。受け入れてくれて感謝する」
アーカム様は笑うことなく、真面目に頷いた。胸に手を当てているあたり、ちょっと不安だったのかもしれない。
「それでは、本日はいかがいたしましょう」
わたくしの言葉に、アーカムはふむと考え込む。
「俺と君は知り合って間もない。で、あれば。で、あれば。まずは対話からではないだろうか」
「そうですね。その……互いに、好きなことも知らないままですし」
「では、そこからいこう。俺の好きなことは……仕事だな」
「さ、左様ですか」
話がまったく弾まない予感を抱きつつ、わたくしは自分が好きなもの、たとえば平民たちの間で流行している演劇などについて、とにかく話し始めた。
とはいえ、とはいえだ。
アーカム様の『愛する人』が本当にいるのか、
いるとしたら誰なのかは聞くことができませんでしたが――。
◆
軍に所属する騎士は騎士爵と呼ばれ、男爵よりも身分的には低い。
従って、本来であれば侯爵令嬢であるエルテとの婚姻が成立するはずはない。
では、なぜこの婚姻が成立してしまったのか。
まず、騎士アーカムがその美貌を第三王女ファナリアに見初められたことが一つ。
彼を是が非でも自分の配偶者に! と執心するファナリアを国王と重臣たちは危惧した。
王女と騎士が婚姻することも問題ではあるが、
そもそも王女ファナリアには既に隣国に婚約者がいる。
いかに自分の娘といえども、否、自分の娘だからこそ婚約の身勝手な破棄など許されない。
その一方、騎士アーカムの縁談も頭を悩ませた。
同格の騎士爵、あるいは伯爵クラスでも王女ファナリアは絶対に納得しない。
恐らく、権力を乱用して奪い取る算段を整えるだろう。
そこで、王家の目に留まったのがエルテ・フォクシーズ侯爵令嬢である。
彼女は幼い頃から隣地であるハルパー伯爵家との縁組みが決まっており、結婚も間近のはずだった。
ところが幼馴染みであるハルパー伯爵家嫡男、ユーリは彼女との婚姻を嫌がっていた。
かつて所属していた学園で、エルテが勉学、マナー含めてあらゆる面で好成績を修めた淑女であるのに対して、ユーリは教師たちが顔をしかめ、同級生たちが『釣り合わない』と噂するほどにはパッとしない存在だった。
唯一、ユーリは容姿端麗であることだけが自慢であり、伯爵より下位の令嬢には大変もてはやされた。
婚約破棄の理由は、そんな下らない劣等感だった。
エルテはユーリに対して、少し出来の悪い身内のように感じていた。
正直に言って、勉学も何もかも見るところがない。
しかし、それまで培ってきた思い出とか、そういうものがエルテのユーリに対する愛情を支えていたのだ。
もしかすると、その家族的な接し方や愛情こそが、ユーリの心を歪ませたのかもしれない。
今となっては、誰にも分からないことである。
学園を卒業して数ヶ月後、彼はある日突然、エルテに婚約破棄を迫った。
「父も認めている」と告げて、彼女に同意書へのサインを強要した。
あまりに突然の行為に混乱したエルテは、そのままサインをしてしまった。
ユーリはその足で、学園の頃から密かに付き合っていたという子爵令嬢との婚姻を結んだ。
子爵令嬢は少々浮世離れしていた少女だったせいか、ユーリの「婚約は円満に破棄され、自分は自由の身となった。だから結婚しよう」という言葉に、全く何の疑問も持たなかったのだ。
その後は、大惨事であった。
まず寝耳に水だったフォクシーズ家は当然のように激怒。隣地であるハルパー家に厳重な抗議を行った。
ハルパー家は即座に動いた。当主であるメイグ・ハルパーは嫡男であったユーリから継承権を剥奪、ユーリの弟であるキーノに譲った。もちろん、子爵令嬢との婚姻など無かったことになった。
その上で、当主は責任を取って伯爵を辞任。キーノが成人するまでの四年間、王家の助力を乞いつつ何とか領土を維持することとなった。
無論、フォクシーズ家とハルパー家の間の婚姻がご破算になったことで、賠償金は発生。
フォクシーズ家に罪はない……のだが。
エルテが婚約破棄書にサインをした、ということが若干の障害となった。
◆
「まあ、基本的には連中に全面的な瑕疵があり、私だってそう思っている」
わたくしの父、ダーマ・フォクシーズは難しい表情を浮かべ、腕組みしながら告げました。
悄然としたわたくしにはもちろん同情はしているが、
それはそれとして侯爵としても、あるいは父親としても幾らか問い質したいことがある、というように。
「……」
「だが、いくら混乱したとはいえ、婚約破棄を承諾してしまったのは少し不味かったな。普段のお前であれば、状況を一旦把握するために、どうにかしてサインをしない、程度の知恵は回るだろうに」
「……はい」
「その……それほど、ユーリが……好きだったのか?」
「……どうでしょう。分かりませんわ、わたくし」
家族として、好きでした。
このまま彼と、穏やかな家庭を築くのだと考えていた。
彼の素質の無さは、自分が補えばいいと思っていた。
あの時、全てが裏切られて……少し、自棄になっていたかもしれない。今思うと、ですが。
お父様は軽く嘆息して、難しい表情で話を切り出しました。
「……元々この縁談、王家が進めていたのは知っているな」
わたくしはもちろん、と頷いた。
「ええ。ハルパー家の遠戚にあたる王妃からの要望であり、王妃の狙いは我らフォクシーズ家の宝石鉱山ですよね? ハルパー家との領境にあるあの鉱山を、どうにかして王家の直轄地にしたい、と」
「そうだ。宝石鉱山は莫大な収入を生むこともさることながら、もう一つ大事な点がある。令嬢たちとの間に生まれるコネクションだ」
宝石鉱山で採掘された宝石は、当然ながら職人の手に渡り、加工され、名品として王都の宝石店に並ぶ。
そしてそれを手に入れた令嬢は、これがフォクシーズ家の領地にある宝石鉱山産であることを知る。
そしてフォクシーズ家は「あなた方には大変お世話になっている。もしよろしければ、ご令嬢に今後も素敵な宝飾品を融通しましょうか?」と悪魔の囁きを行うのだ。
このコネクションは、かなりの効果がある上に、どこまでいっても合法であった。
これがたとえば禁薬、あるいは武器などであれば、王家も睨むし、何なら処分の理由となるだろうが……。
貴金属で令嬢たちの歓心を買う程度は、まったく問題ないのだ。
「王妃もまた、このコネクションを狙っている」
「……宝石には、もう一つ大事なものがありますのにね」
「まったくだ。ただ、ともかく我々は王家の顔に泥を塗った、ということになる。婚約破棄を申し出たのはハルパー家であろうともな」
政治とは結果が全てではございませんが、やはり結果がモノを言う世界であることに間違いありません。
王家は二家の婚約を薦め、祝い、そして侮辱された。
ハルパー家は王妃の遠戚であり、重い処分は免れるだろう。一方、我がフォクシーズ家は……。
「立場が少し苦しい。鉱山を手放すほどではないが、少なくとも何かしら王家に恩を売らねばならない」
「でしょうね。お父様、わたくしに可能な償いは?」
「償い、というな。……父としては、お前は悪くないとは思っているよ」
優しい眼差しに、わたくしも微笑みを返す。
侯爵であると同時、彼は紛れもなく父親として自分を愛してくれている。
「――騎士爵、アーカム・ベオライトを知っているか?」
お父様はそう話を切り出した。
◆
かくして、わたくしは婚姻を承諾。
アーカム・ベオライトと添い遂げることとなったのでありました。
(……こうして考えると、どこまでいっても政治の都合よね……。わたくしはともかく、アーカム様は気の毒だわ)
朝食の席、対面でパンを千切って食べているアーカムに目をやった。
結局、二人は初夜で睦み合うことはなかった。だが、穏やかな話し合いがあった。
フォクシーズ家とベオライト家は、資産も身分も何もかもがあまりに異なる。
「さすがに騎士爵の財産でお前を養うという訳にはいかんだろう。いずれ領地に向かうとしても」
今住んでいるのは父親が買った別邸で、使用人もフォクシーズ家が選んで雇い入れたものだ。
「お父様。わたくしが親しかった者たちは止めてください。それが原因で、不和に繋がるかもしれません」
「そうだな。男というのはプライドが高い。妻の財産で暮らし、あまつさえ冷遇されているとなれば、暴発するかもしれない」
……とまあ、そういう風に気を遣っていたのだが。
アーカム様は家に到着するなり、なるほどと頷いて良い家だと褒めた。
「うん。守りが堅く、壁の材質も良い。おお、使用人の彼らは剣術を嗜んでいるのでは? やっている? ますます良い。廊下が広く取られているから、私も剣を振るいやすいな。もちろん、それは大人数が押し寄せたときの欠点にも成り得るのだが……」
「旦那様、落ち着いて」
「……失礼」
アーカム様は変わらない表情のまま、使用人に「これからよろしく頼む」と告げた。
強引な婚姻事情もあって多少なりとも身構えていた彼らは、毒気を抜かれたかのように粛々と従ってくれました。
◆
そして、数日後。
お父様に呼び出されたため、アーカム様に出かけることを伝えると、かつてわたくしが住んでいた屋敷に戻ることにいたしました。
「本日は遅くなるかもしれませんので、夕食は先に摂って頂いて結構ですよ」
「そうか……」
アーカム様は手を振り、わたくしを見送ってくださいました。相変わらず、『氷騎士』らしく、彼の表情は変わることがありません。
でも、彼が思ったよりも冷血でも非情でもないことは、夫婦として数日過ごしただけのわたくしにも分かりかけてきています。
アーカム様は、その、何と申しますか。
……可愛い方なのです。
お父様は、こほんと咳払いしてから話を切り出した。
「アーカム・ベオライトとは上手くいっているか? 彼はお前の権力が強いことに不満を漏らしていないか? あるいは、暴力を振るったりなどは……してないようだが。ともかく、夫婦生活は順調なのか?」
その質問に、わたくしはちょっと思い出し笑いを浮かべながら、答えました。
「アーカム様は、」
「うん、彼は?」
「もしかすると、もしかするとなのですが」
「もしかすると?」
「――天然、なのかもしれません」
そう。数日の間、言葉を交わして得た結論。
それは、多分アーカム・ベオライトはド天然だという事実でありました。
「まさか。あの美貌だぞ」
「その……旦那様……アーカム様はですね。ご両親は生まれてすぐに亡くなり、叔父である方に保護者として育てられたのです」
「ああ、もちろんその辺は私も調べた。叔父であるマウティー子爵は私も知っている。後ろ暗いところのない、好人物だ」
「はい。で、マウティー様は幼い頃から卓越した美貌であったアーカム様に懸念を抱き、育てる乳母や世話をする使用人を、彼が孫かひ孫にしか見えない人間で固めたのだそうです」
若いメイドを雇ってしまえば、万が一の過ちが起こるかもしれない。起こらないとしても、顔があまりに良すぎる人間が主人では、何かしら歪むかもしれない。
「そういう訳で、アーカム様は自分の美貌にほとんど関心の無い環境で育てられました」
「ま、まあそういうことも……あるか」
「大人になり、騎士となってからようやく『俺はもしかして顔が良いというやつなのか』と自覚なさったようで」
「おっそ」
お父様が反射的にそう呟いた。
はいそうです、とわたくしも同意した。しかも、遅かったせいか未だに自覚が足りないようで。
「そうは言っても、女性の反応を体感すれば……」
「アーカム様は騎士であり、部隊に女性騎士はいらっしゃいませんでした。そして上官の命令で基本的に兜で顔を覆っていたそうです」
何しろ男女問わずときめいてしまいそうな美形だ。
顔を出していれば、同僚の士気が妙なことになりかねない。そしてアーカム様は上官の命令であれば、大抵のことは了解する性質であったのです。
かくしてアーカム・ベオライトは自分の顔が美形かどうかにまったく関心のない、趣味が仕事の一途な人間に育ったのでありました。
「では、夫婦生活は……耐え切れない、という訳ではないのだな」
「はい。アーカム様はちょっと、かなり天然なだけで、やるべきことはやってくれますし、どんな仕事にも手を抜かないところは、好感が持てます」
「お前自身はどうだ?」
「わたくしは……あまり変わりありません。ああ、でも社交の付き合いがなくなったので、しばらくは情報を仕入れることが難しいかと存じます」
何しろ侯爵令嬢から騎士爵の妻です。
既に王都では口さがない令嬢たちの噂が飛び交っていることでしょう。もちろん、フォクシーズは宝石鉱山を持つ有力な貴族。あまり表立って言われることはないでしょうが……。
「その辺の心配はしなくていい。今は、身を潜める時期だからな」
「第三王女が輿入れするまでは、ですか」
「ああ。上手く利用すれば、王家に大きな貸しを作ることができるかもしれない。お前なら分かるな?」
ぎゅっ、と。無意識に、わたくしの両手が強く握り締められました。
そう、例えば。
例えば、アーカム様を撒き餌に使い、王女殿下が手を出すように仕向ける。
わたくしたちは王女殿下に夫を奪い取られたと侯爵家として激怒、抗議する。
あるいは闇に葬ることを条件にして、王家に大きな貸しを作る……侯爵家にとって、どう転んでも得になる策だ。
わたくしと、そして何よりアーカム様が傷つくことになるけれど。
「ええ、もちろんです」
「だが、それは劇薬だ。使う予定はない、今のところはな」
握られていた拳が、安堵で開いた。
「――ありがとうございます、お父様」
「お前が幸せなら、それを壊す権利は私にはないからね」
お父様はそう言って、話を締めくくった。
◆
そんなこんなで、夫婦となって二ヶ月。
わたくしは夫婦生活も落ち着いたことだし、領地である村に行こうと提案。
アーカム様と共に最低限の使用人を連れて、かっぽかっぽと王都外れの村に赴くことにした。
「これは……」
到着した使用人たちの顔は険しい。
ぽつんぽつんと数軒の家があり、村はずれにある大きいだけで半ば腐りかけのそれが領主の屋敷なのだという。
「君は……帰るべきだと思う」
この村に宿泊させる訳にはいかないと思ったのか、
そう告げたアーカム様に、わたくしはいいえと答えました。
「ここはアーカム様の領地であり、わたくしの領地ですわ。でしたら、ここでしばらく暮らすのも当然です」
そうか、とアーカム様は呟きました。
その『氷騎士』の異名に相応しい玲瓏な美貌は、崩れることはなかったのですが。
握り締められた手は、氷などとは思えないほどに温かかった。
◆
やるべきことは多々あったが、少ない村人たちはわたくしたちを歓迎してくれた。
「正直、まさかと思いました。こんな猫の額みたいな領地に領主様とは」
村長正直すぎますわ。
ともあれわたくしたちは村人たちに挨拶を済ませ、屋敷をある程度住めるように急いで修繕することにいたしました。
体力お化けである旦那様の手によって、屋敷がどうにか宿泊可能になった頃、村の子供たちがわたくしたちに会いに来たのです。
「あーそーぼー!」(子供)
「いーいーぞー」(旦那様)
即答でしたわ。
まだ体力残っているのですのね旦那様。すごい。
「全軍、突げーーーき!」
「うおー!」
夫であるアーカム・ベオライトは真面目な顔で近所の子供たちの戦争ごっこに付き合っていた。
なお、アーカムは指揮官ではなく馬役であり、指揮官をおんぶして走り回るのが役目である。
「お止めした方が良かったでしょうか……?」
申し訳なさそうに尋ねる初老の使用人に、わたくしはまさか、と笑った。
彼は侯爵ではなく、騎士爵。身分的にはほぼ平民であり、騎士としての義務はあっても貴族としての義務は無きに等しい。
体裁が悪い……というのも、正直に言って馬鹿馬鹿しい。
今さらというやつだ。
それに。
「ぱからっぱからっぱからっ」
「いいぞー、アーカム! じゃあくなドラゴンからおひめさまをたすけだすのだー!」
「ぱからっ……待って欲しい。敵は邪悪な帝国ではなかったか」
「どーでもいいじゃん!」
「……ひひーん!」
大真面目に馬役をこなす自分の夫は、間抜けで、でも真面目で、何というか……。
「かわいい……」
「はい?」
「あ、いえ。何でもないわ、何でもないの」
こほんこほん、と咳払いをして誤魔化しました。
いやもう本当に。馬鹿馬鹿しいほどに真面目に、馬役をこなそうとする我が旦那様は、何とも言えない愛らしさがある……と思ってしまったのです。
その日の晩、ベッドに潜った夫とわたくしは、いつもより親密に話をして。
「……いいだろうか?」
「ど、どうぞ」
そして、いつになく盛り上がって。
夫婦として結婚式以来、二度目の口づけを交わしました。