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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

仕組み

作者: 神城弥生

ノンフィクションですが、フィクションかもしれない。


そんな物語。


これがノンフィクションだと、貴方は言い切れますか?

「ごめんね。ごめんね……」


 薄暗い部屋のフローリングに横たわる娘のしっとりとした髪をなでながら、紗枝は涙を流し膝を付く。体に纏わりつくようなじめっとした空気がカーテンを揺らし、二人の疲れた体の体力を更に奪っていった。


 母親の暖かい手に撫でられ、傷だらけの顔で美香は無表情のまま空虚を見つめる。まだ小学生だというのに、その顔には、その潤んだ瞳には悟りを開いた者の目をしていた。。紗枝は思わず美香を覆い被すように抱きしめ、美香は体中の痛みを我慢しながら、その優しく暖かい背中にゆっくりと手を回し静かに涙を流した。


「ありがとうね。ママは美香に何度も助けられているね。美香のおかげでママは救われているわ。ありがとう。本当にありがとう。これからもママを助けてね……」




「本当に、本当に家庭でDVはあ行われていないんですね?」

「……はい」


 次の日、紗枝は学校の会議室で、紗枝は美香の担任の教師に呼ばれていた。服の上からは分からないが、美香の体には常に消えない傷が残っていた。子供が遊んで付けた傷にしてはあまりにも多すぎる。素人目でも、そこには家で何かあったと考えるのが普通だろう。


 だが紗枝はそれを否定した。否定する事しかできなかった。もし話せば、次に狙われるのは自分だと分かっているから。卑怯な母親だと、最低な母親だと理解している。だけどどうすることもできなかった。親だからって、一人の人間だ。一人の女だ。映画やドラマ、物語の中の母親たちは常に子供の為に行動し、人々の心を掴んでいる。だが、自分にはそれはできない。寧ろ大抵の人間はそうだと思う。いくら子供の為だからって、自分を犠牲に出来る人間はそう多くはないと思う。それが現実だと思う。結局わが身が一番可愛い。


「そうですか……。何度も言っていっていますが、事件というのは、被害者がいて初めて成立します。事件が起きなきゃ、警察も、学校だって動けない。その辺りは理解していただけますね?」


 休みの日には地域の野球チームの監督もしている先生は、梅雨明けの時期だというのに既に肌がやけて浅黒い色になっている。体格もよく、太い男らしい腕を組み、半袖もシャツがとてもよく似合う好感の持てる先生だ。


 紗枝はそんな先生の腕や胸元辺りから視線をそらさず、ゆっくりと頷いた。先生はゆっくりとため息をつき、視線を落とす。彼女はこの部屋に来てから一度も目を合わせてくれない。それどころか顔も見ず、視線を落としたままだ。恐らく真実を話していない。後ろめたい部分があるのだろう。だがだからといって学校側もこれ以上どうすることもできない。既に児童相談所や警察には話をしてある。だが彼らとて、被害者がいなければ動けない。母親が首を縦に振らない限りは。


「分かりました。もうすぐ夏休みに入ります。その間しっかり子供を見てあげてください。子供にとって今は大切な時期です。目を離さず、また夏休み後に学校に来れる様にしてあげてください。子供の体に傷があってはがっかりする人もいますから」


 紗枝は先生の言葉をしっかりと理解し、そしてまたゆっくりと頷き席を立ち、先生に見送られ学校を後にした。不安はあるが、いい先生だ。あの先生のいる学校を選んでよかった。結婚当初、何度も何度も学校の事を調べ、いい噂を集め此処に決めた。これで家以外での美香は大丈夫だろう。後は家の事だけだ。


 子供のころから夢見た大きな庭付きの一軒家。そんな家を買えたのも、今の旦那の収入がいいおかげだ。外資系の会社のエリートサラリーマン。外見も人当たりもよく、仕事もできるため兎に角モテる。よそで女を作っている事は分かっている。でもそれを口にすれば暴力を振るわれる。彼は家庭内暴力を行っている。だけどお互いバツイチという共通点もあって意気投合。多少酒癖も悪かったが、それでも背に腹は代えられない。


 昔の旦那は酷かった。収入も少なく安いアパート暮らし。おまけにギャンブル狂いの酷い人。子供は一人いたが、旦那が保育園に子供を送る途中で事故に合い、二人とも即死だった。何もかも最悪だった最初の結婚生活。だけど、少しだけよかったこともある。私は兎に角我慢強くなった。そして、要領がよくなった。何をどうすれば上手くいくのか分かってきた。私ならうまくやれる。


 玄関の前で立ち止まり、一度深呼吸をする。瞳を閉じ5秒数える。子供の頃死んだお母さんに教えてもらった。これでいつだって冷静に行動できた。


 次に笑顔の練習をする。大丈夫、上手くやれてる。そう自分に言い聞かせ、玄関の扉を開いた。


「あの女はどこ行った!!酒がねぇじゃねぇか!!」


 玄関の扉を開ききる前に、家の中からあの人の叫び声が聞こえた。紗枝は思わず固まり、そして玄関の扉を開いたままその場に立ち尽くす。


「おいクソガキ!!酒を買ってこい!ああ!?口答えすんじゃねぇ!俺を誰だと思ってる!!」


 家の中から聞こえる叫び声と、何か物が落ちる鈍い音。そして何度も聞こえる少女のうめき声。紗枝はその場で瞳を閉じ、もう一度5秒数える。そしてゆっくり瞳を開け、ゆっくりと扉を開き中に入る。その時、背後に人の気配を感じ、振り返ると、家の近くで話をしていた近所の方々がこちらを指さしながら不安そうに話をしていた。紗枝はそれを確認した後、慌てて家の中に飛び込んだ。


「やめて!子供に酷い事をしないで!!」

「うるせぇ!どこ行ってやがった!てめぇ酒はどうした!?」


 リビング入ると、蹲り倒れる娘と、それに馬乗りになって拳を振り上げている旦那が目に映る。美香はまだ息をしているようだ。


「もうやめて!何度もいってるじゃない!」


 美香から旦那を引き離そうと、紗枝は叫び鞄を振り回す。旦那は今度は怒りの矛先を紗枝に向けようと立ち上がる。が、紗枝の鞄が近くの棚にあたり飾ってあったガラスの器や写真縦が落ち大きな音を立てたため、一瞬時が止まったように皆が驚き止まる。


「……チッ。外で呑んでくる」


 ガラスの砕ける大きな音で、少し冷静になったのだろう。旦那は紗枝に肩をぶつけながら家から出て行ってしまった。


「ごめんね、私のせいで。私がお酒を用意するのを忘れたから」


 紗枝は慌てて美香を抱き寄せ、そしてそう呟いだ。美香はすすり泣きながら何もわず、ただ壊れた人形のように母親に抱きしめられていた。


 なんで上手くいかないんだろう。こんなに頑張っているのに。なんで、なんで……。


 紗枝は何度も呟き、自分を責める。前回色々学んだはずなのに。こんなに手を尽くしているのに。なんでこうなってしまうんだろう。


 家の中にインターホンの音が鳴り響く。先ほど玄関の扉を閉めずに家の中に入ってしまった為、外にいた近所の方々には声が丸聞こえだった。心配した誰かが様子を見に来たのだろう。紗枝は一度美香の頭を撫で、「ありがとうね」と呟き玄関に向かう。旦那は別の扉から直接ガレージに向かい車で出かけたようだ。


「あの、凄い音と声がしたんだけど、大丈夫だった?」

「ぐすっ。な、なんでもないんです。すみません、すみません……」


 近所の人の顔を見るなり泣き崩れる紗枝を見て、近くで様子を見ていた近所の人々が集まり、紗枝に優しい言葉をかけてくれる。「警察には言った?」「いい弁護士紹介しようか?」「何か力になれればいいのだけれど」。そんな言葉を聞き、紗枝のすすり泣く声は一層強くなる。


 大丈夫、私は上手くやれる。こんな立派な家も、綺麗な服も、高級な鞄も手に入れた。私は出来る女だ。私なら、上手くやれる。




「ゴホッゴホッ……。テ、テメェ……、こんな事していいと思ってんのかよ……」


 人通りの多い大通りの脇道。脇道といっても、狭いビルの隙間で、こんな所を通るのは酔っぱらいか野良猫位なもんだ。そんな日の光の当たらない路地に数人の若者がうずくまり、そしてその中心には一人のスーツの男が立ちタバコに火をつけるところだった。


「あ、いたいた。先輩探しましたよ。って、またですか?」

「おせぇぞ倉本。てめぇはそんなんだから出世できねぇんだよ」

「はいはい。とりあえずこの状況はいつものっすか?」

「そんな顔すんな。これもお国の為の尊いお仕事の一環さ」


 煙草に火をつけた男性と親しそうに話す倉本は、やれやれとため息をついて、胸ポケットから携帯を取り出すと知り合いの同僚に電話をかけた。


「あ、倉本だけど。西新宿で酔っぱらった若者4名が先輩に絡んだらしくて、公務執行妨害で逮捕するから二台ほどよこしてくれる?そう、いつものだよ。場所は……」


 倉本は手慣れた様子で話をし、そしてそれを聞いた若者たちは絶望した様子でそれを見る事しかできなった。


「ったく橘さん、今月4件目ですよ?いい加減にしないとそのうち刺されますよ?どーせまた先輩から絡んで殴りつけたんでしょ?」


 若者たちを仲間の警察に引き渡した後、二人は黒いセダンに乗り車を走らせる。聞いているのかいないのか、橘は窓を半分開け、流れゆく風景にタバコの煙を吹き付け眺めていた。


「ったく、全くゴミだらけだなこの街は。ゴミはゴミらしくアリンコみたいに働いとけってんだ。で?何でタバコ買いに行くのにあんなに時間かかってんだお前は」


 自分の質問には答えず、一方的に話すのは先輩の悪いところだ。倉本は頭をガシガシ掻きむしった後、再びハンドルを握りしめ目的地へと車を走らせる。


「殺しですよ、殺し。まぁ犯人は現行犯で逮捕したらしいですけどね」

「んだよ、ただの後始末かめんどくせぇ。そんなの適当に誰か暇な奴ににやらせとけよ」

「その暇な奴が先輩だと上は判断したんですよ」

「チッ、可愛くねぇ後輩だなお前は」

「はいはい。もうすぐ着きますから。タバコ早く吸ってくださいね」


 倉本はハンドルを握り視線を変えず、聞いた情報を簡単に橘に説明しながら車を走らせた。被害者は加野美香。小学3年生の少女で、犯人はその父親。妻の紗枝と三人暮らしらしい。犯人の父親は外資系の会社員で、自宅は三人に住むには広すぎるほど大きな家らしい。今の所分かっている事はそれだけ。今他の人が会社と学校に話を聞きに行っているそうだ。


 現場に着き、倉本は現場の刑事と情報交換をして遺体の様子を見に行った。少女は裸のまま横たわり、綺麗な顔についた傷がなければ、まるで穏やかに眠っている様にしか見えなかった。倉本は締め付けられるような胸の痛みを抑え手を合わせる。どうかこの子が安らかに眠れますように。祈りをささげた後、気持ちを切り替え目を開く。お仕事の時間だ。


「どうやら、そこの棚に飾ってあった陶器で頭部を殴りつけて殺害、即死だったでしょうが、体には複数の傷があり、なかには古い傷もいくつもあったそうです。恐らく日常的に暴力が振るわれていたそうですね。って先輩聞いてます?」

「陶器、ガラスの灰皿に、お高そうな花瓶。どれも重たいな。そして至る所に高級な飾り物ね。食器は人数分だけ。」

「はぁ。まぁ裕福な家庭みたいですし、家具には拘っていたようですね」

「玄関にはスリッパ3つ。ま、予想通りだな」


 独り言を繰り返し、いつも通り倉本の話を聞かずに、庭先で泣き警察と話をしている妻の紗枝の顔をカーテン越しに眺めに行ってしまった。全く本当に自由な先輩をもって幸せ者だ。倉本はそんな事を思いながら、淡々と仕事を進めていった。




「ったく、暑くてかなわねぇな。こんな仕事誰か暇な奴にでもやらせとけよ」

「その暇な奴が先輩だと上が判断したんですよ。って先輩またですか?」

「ゴミ掃除だ。気にすんな」


 事件から数カ月。夏も終わりに近づいた頃。加野家殺人事件が漸く終結に向かい、今日がこの山の最後の仕事の日だ。仕事といっても、裁判所で最後の判決を聞き、そして署に帰って書類を書くだけの簡単な仕事だが。


 裁判に来なかった橘を迎えるべく、倉本は裁判所の前で合流したのだが、橘の白いワイシャツには、いくつか赤いシミが付いていた。どうせまた暇つぶしに若者をしょっ引いたのだろう。


 今回の山は、流れるように解決に向かい、特に苦労することなく裁判も終える事が出来た。といっても、被害にあった少女にとっては悲惨な事件だったが。


 倉本たちの予想通り、被害者の美香は日常的に暴力を振るわれていたそうだ。その音や声は近所の人の証言からも立証できた。そしてあの日、妻の紗枝が加害者の夫の休みの日にお酒を買い足さなかった事、そしてその時たまたま紗枝が外出していた事が重なり、加害者は頭に血が上り娘を殺害。まぁよくある流れだ。


 聞き込みの結果や状況証拠から、妻紗枝は事件の被害者として片が付いた。事件の事を隠していたにしろ、学校、会社、近所からも評判は良く、良く家庭に尽くしていたという声が多く挙げられたからだ。だが今回の件で彼女は心に大きな大きな傷を負ってしまった事だろう。


 今回の件で、学校は記者会見を開き世間から非難の的となっていた。勿論、学校側は出来るだけの対処をとっていた。それだけなら、ネットの住人たちが好き放題騒ぎ、数日で忘れされらるようなよくある日常の一つになっていた事だろう。だが、そうはならなかった。


 検死の結果、被害者の少女の子宮にはまだ新しい精子が残っていた。だがそれは加害者のものではなく、なんと被害者の少女の担任の先生のモノだった。なんと、少女は日常的に担任の先生に性的暴行を受けていたのだ。これが世間に漏れ、そして学校側は避難の的となった。まぁ、警察官の倉本たちからしたら、これもまたよくある日常に過ぎないのだが。


「娘さん可哀そうでしたが、残された奥さんもまた辛いでしょうね。まだあんなに若くて美人なのに……」


 倉本は、裁判の内容を橘に話しながら頭を整理させ、そしてまだ中に残っているだろう紗枝の事を想い、そして拳を握りしめる。橘は、服に着いた血をハンカチで拭いていたが、取れない事を察したのか舌打ちをして辺りを見回す。それに気が付いた倉本は、また話を聞いてなかったな、とため息をつく。確かに警察官の倉本は、今回のケースのような事件には何度も立ち合い慣れていた。が、慣れているからといって、そこに何も感じないわけではない。


 元々正義感の強かった倉本は、警察になり本気で正義の味方になろうとしていた。が、そんな倉本の目に映るものはどれも悲惨で、そして悲しいものばかりだった。日常的に起きる事件の数々。窃盗、強姦、麻薬に殺人。犯罪は息をするように日常に潜み、そして気が付けばそこにある。テレビやネットニュースになっている事件なんて、それこそ氷山の一角だ。この街は、この国は、この世界は実は本当に残酷で醜いものだった。

 

 だが、それでも倉本は何とか自分の中にある正義の心を折らずに戦ってきた。まぁそれも最近失いかけてきていたが。恐らく橘の心には、最早そう言ったものはないのだろう。だがそれは仕方のない事だと倉本は感じている。繰り返される事件の中に身を投じていると、醜い人間ばかり見ていると、本当にこの世には希望はないのではないかと思ってしまう。そう感じ、ただ毎日事務的に事件にあたっている警察は少ないくないはずだ。


 喫煙所を見つけたのか、橘はほっとした顔をしてたばこを口に咥え歩き出そうとしたところでピタリと足を止めた。倉本が拳を強く握りしめているのを見つけたからだ。橘はため息をつき、一瞬何かを考え頭をガシガシと掻き、そして加えていたタバコを手に戻すと口を開いた。


「お前まだそんなんだから、ひよっこなんだよ」

「……どういう意味です?」


 その一言に、倉本はむっとなり橘を睨みつける。何となく今の一言は、自分の中に残っている残り少ない正義感、今感じている虚無感や悔しい気持ち、そんな感情を全て否定された気がした。


 橘はそんな倉本の顔を見て、再び頭を掻き、そして裁判所を見つめる。が、いつもとは違い、その足はすぐには喫煙所には向かわなかった。だから倉本は、橘の次の言葉を待った。長くコンビを組んでいると分かる。橘はクズな先輩だ。日常的に国家権力を使って、適当に犯人を作り上げ、そしてそいつらを捕まえては手柄にしている。橘曰く、しょっ引いた数だけ、そいつ等から金を巻き上げられ、それが警察の資金となり、そして自分達の給料となる。いいことずくめだろ?これが橘と組んだ最初の日に彼から言われた言葉だ。


 だが、同時に橘は優秀な警察官でもあった。頭は良く、昔は難事件を何度も解決に導いた優秀な若者だったらしい。それが何故こんな男になってしまったのか。想像は付くが、詳しくは知らない。知りたくもない。だがそんな彼だからこそ、色々経験してきた彼だからこそ、彼がこうして時間をかけて倉本に何かを言うときは、必ず大切な事だ。だから倉本は黙って橘の言葉を待つ。どんな辛辣な言葉が来るのか。だがそれでも自分の中にある正義の炎は消えないと信じているから。


「あー。今回のヤマ、お前はどう見てる?」

「どうって、見たまんまですよ。裁判通りの事件。被害者の少女は日常的にDV受け、同時に学校でも性的被害にあっていた。そして被害者の母親である紗枝は、その事実を知りながらも助けを求められなかった。もしそうしていたら、次に被害にあうのは自分だという恐怖があったのでしょう。こう言った事件、もし警察や施設が保護したとしても、それは一時的なもの。犯人だって一生刑務所に入れておくことは出来ない。今回の山が解決しても、またいつかその矛先が自分に向かってくるのではないかという恐怖からでしょう。そう言ったケースは少なくないし、こういう事件を起こす犯人は執念深い奴が多いですからね」



 倉本は落ち着きはっきりした口調で、聞いているのかいないのか、ボーっと裁判所を見つめる橘に向かい話をする。日常的な事件の内容。だが、それを口にすると、どうしても自分の中に抑えられない怒りが込み上げてくる。それを必死に押さえつけ、倉本は冷静に務め再び口を開く。


「更に言えば、母親の紗枝がバツイチだったことも原因の一つだったと言えるでしょう。紗枝は前の旦那の酒癖が悪く、その時も娘が父親に性的虐待に会い、更には事故で全てを無くしている。繰り返される恐怖は、きっと彼女の心を蝕み続けていたのでしょうね。男運がないというのは彼女のような女性を差すのでしょうね。二度も悪い男に捕まり、二度も全てを失った」


 そう締めくくると、橘同様裁判所の入り口を見つめた。そろそろ紗枝が手続きを終え出てくるはずだ。それを見送ったら、もう彼女と会う事はないだろう。今回の山は、倉本にとって過ぎ去った日常の風景の一部として消えていくことだろう。


「はぁ。だからお前はひよっこのままなんだよ」


 そんな感傷に浸っていた倉本に、橘から受け入れがたい言葉が浴びせられる。倉本は思わず振り返り、橘の胸元に掴みかかりそうになるが、その手は橘の目を見て思わずピタリと動きが止まる。橘の目は、先輩の目はいつもの死んだ魚のような眼ではなく、鋭く真実を見据えたような眼をしていたからだ。恐らく、これが本当の橘という警察官の眼なのだろう。難事件を解決してきた、優秀な警察官の。その鋭い目つきは、倉本の動きを止め、そして唾を飲み言葉を失ってしまう程だった。


「聞くがお前、常に被害者な人間って本当にいると思うか?」


 だが、その口から発せられた言葉は事件の話ではなく、突拍子もない話だった。だが橘の真剣な眼差しに、倉本は一瞬出かけた言葉を飲み込み、そして一度瞳を閉じ冷静に考えてから答えた。


「……いると思います。今回の被害者の母、紗枝がまさにその言葉が似合う女性ではないでしょうか」


 倉本の言葉に、橘は表情を変えず倉本の瞳から目を逸らさずに聞きいていた。そしてゆっくりと視線を逸らし、天を仰ぐ。その表情からは何を考えているかは分からないが、視線を外されたことで、倉本は自分が蛇に睨まれたカエルのように心が縮こまっていた頃に気が付く。


「まぁ、いるんだろうさ。常に被害者の奴は。だがそれは、中東アジア辺りの子共だけだろうさ。戦争のど真ん中で生まれて、銃弾の音楽しか聴いたことのない子共。そしてそれが楽しい音楽じゃないと理解したころには死んじまうような不幸な子供がな」


 一体彼は何の話をしているのか。一体先輩は何を見ているのか。分からないが、何となく、話の結末だけが、倉本の脳裏によぎる。どんな結末になるかは分からないが、それはきっと恐ろしいものな気がする。逃げ出してしまいたいほど、嫌な予感を倉本は感じていた。


「だが、それはアイツじゃねぇよ。紗枝って女じゃねぇ。寧ろ俺は、今回の本当の犯人は紗枝だと思ってる。因みに上の見解も同じだ」


 倉本は、心臓が跳ね上がるのを感じていた。だが、その話はあり得ない。何故なら、状況が、裁判がそうではない答えを出したからだ。だが、倉本は口を開くことが出来なかった。目の前にいる優秀な警察官が、それが真実だと言っているからだ。


「勿論、法的にはあの女は被害者だ。だが、結果と真実ってものは、常に同じだとは限らねぇんだよ」


 橘は、手に持っていた煙草を箱に戻し、一呼吸置いた後、今度は裁判所を見つめ話をつづけた。


「いいか?通常子供がDVを受けた時、それが片方の親だった時、もう片方の親はどうする?勿論どこにも相談できない状況でだ。その状況はさっきお前が話していたのが原因だろう。いつか自分がっていう恐怖だ」

「……それでも何とか子供を守ろうとする?」


 聞きたくない。だが、真実が知りたい。知らなければならない。自分の足が動かないのを感じつつ、倉本はそれでも頭を必死に働かせて答えを探す。


「ああ、普通はそうするだろうよ。どうしようもない状況でも、最終的には子供を守ろうとするのが親だ。まぁそうじゃないやつもいるがな。じゃあ次に、どうやって子供を守ろうとする?」

「……暴力から、子供を庇う」

「ああ、だろうな。日常的に行われる暴力に立ち向かえる者は少ない。だが、恐らくそんな奴らでも一度はそういった行動に出るだろうさ。だが、あの女は傷一つ負ってない。それも、以前の旦那と一緒だった時からだ。あの女が最後に病院に行ったのは高校生の時に学校の体育祭で膝を擦りむいた時だったそうだ」

「で、ですが。それはただ病院に行けなかっただけじゃ。事件が明るみになるのを恐れたのでは?」


 いつの間にこの人はそんな事を調べたのか。倉本は自分の中にある嫌な感覚が大きくなっていくのを止められないでいた。


「そうかもしれない。だが、恐らく違うだろう。確かに医者は、それが転んだ傷か人為的な傷かは見れば大体わかる。だが、分かるからといってどうしようもできないし、どうもしない事がほとんどだ。他の刑事に調べさせたが、あの女が大人になってから傷を負っているのを見た人間は居なかった。」

「ですが、それだけじゃ」


 倉本は膨れ上がる嫌な感覚を押さえつける様に声を出すが、それを橘に手で止められてしまう。


「次に、あの家に何も感じなかったか?玄関には家族の人数分だけのスリッパ。とても客が来ていた気配がない。食器も同じだ。客の分がなかった。恐らくあの家は他人を招き入れたことがないのだろう。確かに金持ちのプライドがあったのかもしれない。だが、日常的に子供が暴力を振るわれている中で、重たい陶器やガラス細工の物ばかりを飾るか?しかもそれはリビング中にあった。あれじゃまるで、男が怒り狂った時の為に、近くに凶器を用意していた様にしか見えないだろ」


 倉本の背中に冷たい汗が流れ、自分の体温が下がっていく気がした。周りの音が遠くなり、橘の声だけが倉本の頭にうるさいくらい響いている。


「だがそれは加害者の趣味かもしれない。しかしだ。加害者の寝室には驚くほど物がなかった。更にあまり装飾品も好まなかったのだろう。金持ちのくせにクローゼットの中には腕時計が二つだけ。アクセサリーの類は一切なし。仕事部屋、会社のデスクでさえ物が整理されて小物などの無駄なものは一切なかった。恐らく性格的に無駄だなものが好きではなかったのだろうな」


 倉本の脳裏に被害者宅の風景が浮かぶ。何度も足を運び、何度も実況見分した家だ。隅々まで思い出せる。確かにそうだ。だが、リビングには目移りしてしまう程沢山の装飾品が置かれていた。


「つまりあれらの物は、妻紗枝の好みの物だったと言える。次に、虐待を受けている子供の周りには、ぬいぐるみなどを置く家が多い。それは、子供の不安を紛らわす為、そして止められない暴力を受けた時、柔らかいもので身を守るためだ。これは多くの家で実施している簡単な防衛手段の一つになる。が、あの家ではそういったたぐいのものが一切見当たらなかった。それどころか、子供の遊び道具らしきものが一切なかった。だが、学校で聞けば、被害者はぬいぐるみやアニメのキャラクターなど、可愛らしいものが大好きだったそうだ。あの女は本当に子供を愛していたのか?あの女は、本当に子供を守ろうとしていたのか?」


 息をすることすら忘れてしまう。聞きたくない事実に、倉本の眼の前が暗くなっていく。もう止めてくれ。そう願う倉本に畳み掛ける様に、橘の話は続いていく。


「次に、妻紗枝は、加害者の休みの日に、月に一度必ず友人らと外食を楽しんでいるようだ。それ自体は別に変ではない。だが、近所の証言だと、その日は決まってあの家から加害者の叫び声が聞こえるそうだ。酒がない。あの女はどこ行った。クソガキ酒を買って来いと。確かに他の日もそう言った叫び声は聞こえるらしいが、どうやら酒を切らして叫んでいるのは、毎月決まった日らしい。あの女は頻繁にスーパーで買い物をするらしいが、毎月決まった日から二日前になるとスーパーにはいかなくなるらしい。ありえるか?不定期にいく買い物。自分のいない日から遡って3日間だけ酒を買い忘れる。そして自分がいない日に必ず娘がDVにあっている。あり得ないだろ」


 最早否定できない。だけど倉本はそれを必死に探していた。そうしないと、心に残ったほんの僅かな正義の炎が消えてしまいそうだから。


「状況から見て、女はわざと夫を怒らせて、その矛先を子供に向けさせている。そしてその証拠に、以前の旦那の時も妻紗枝には不自然な点が多かったらしい。そして事件当日、何故か妻紗枝が急用が出来て、そしてその前夜、夫に大量の酒を購入していたらしい」


 橘は、倉本にこれ以上話すべきか悩んでいた。だが、ここを乗り越えられなければ、可愛い後輩には未来がないだろう。例え心を失っても、それでも自分のように事件を負い続ける道はある。だからこそ、そろそろ甘やかすのはやめる時だと感じ、今回はすべてを話すことを決意していた。刑事に正義感は必要だ。だが、それだけでは真実を追い求める事は出来ない。寧ろ、その正義感が真実を欺く子原因になることもある。倉本にはそろそろ大人の刑事になってもらわなければならない。


「それから、あの担任の噂は以前からあったそうだ。だが、それが事件になっても立証されることはなかった。因みに、妻紗枝の前の子共がいた時も同様、静岡県の学校で担任に暴力を振るわれていた。そしてそれらの学校に子供を通わせると決めたのは妻紗枝で、彼女は問題のある担任がいる学校を探し回っていたという証言も多かった」


 冬でもないのに、倉本の両手はかじかんでいた。血の巡りが悪いのか、本当に体温が下がってしまったのか。今は夏の終わりだっていうのに。


「ああ、それと上からの指示を伝えておく。あの女は次の事件を起こした時にしょっ引く。前回、そして今回の件で、あの女は大金を手にした。多額の保険金に遺産金、それに賠償金他もろもろな。もう少し溜めてもらってから俺たち警察が頂く。いいか?事件が起きれば、犯人がいる。犯人を捕まえれば、罰金やら何やらで国に、警察に金が入り、そしてそれが俺たちのお給料になる。世の中ってのはそうやってできているんだよ」


 倉本は橘に肩を優しく叩かれ、そしてハッと我に帰る。気が付いた時には、橘はいつもの死んだ目をして煙草を咥え、そして喫煙所に向かい歩き出すところだった。


 暑い日差しにセミの鳴き声、アスファルトに反射してまとわりつく空気。倉本は今が八月の終わりだという事を想いだしていた。


 ふと後ろの方から女性のすすり泣く声が聞こえ、倉本は反射的に振り返り、そして後悔した。


 丁度裁判所から薄着の白い服を身に纏い、色っぽく大きく開いた胸元に汗をかいた妻紗枝が、スーツを着た優しそうな男性に肩を抱かれて出てきたところだった。どうやら男性は新たな婚約者らしい。この短期間でよくと思うが、彼女が身をまとう色っぽい雰囲気を見れば、男なんてコロっと騙されるだろう。


 そんな彼女を見て、倉本は絶望した。両手で目を覆いすすり泣く彼女の口角は、いやらしいほど

上がっていた。全ての仕事を終えすすり泣く彼女の口元は笑っていたのだ。

 

 そんな様子を見て倉本は、自身の心の中にある正義の灯がフッと消えたのを感じていた。

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