27. その、背
調理台を布巾で拭く。
ステンレスの台は、年季が入った小さな擦り傷だらけではあるものの、鈍く光りながらこの店舗を今も昔も支えてきたのだろう。
閉店後の春眠亭。
後片付けをしながら、スープのご婦人の言ったことを考える。
スープのご婦人だけじゃない。
今考えても答えは出ないのに、本当は色々考えてしまう。
“ゆきこちゃん”のこと。
名前を忘れてしまったこと。
魂のこと。
肉体があるということ。
“死”とは。
こういう重い事は、なるべく考えないようにしようと決めていたのに。
人生ももう少しで折返し、という年になり、親戚や知人のお葬式に行ったりする事もある。
何より、私は同世代の中でも少し早めに父親を見送っている。
薄情かもしれないが、当時泣いて暮らしはしなかった。
突然の事過ぎて、うまく受け入れられなかっただけなのかもしれないけれど。
当時は、これからどうするかを冷静に考えた自分がいた。
今ではよく聞く“心筋梗塞”。
人が死ぬのは、本当に呆気なく、あっという間だ。
良い父であったかと聞かれたら、分からない。
仕事人間だった。
働き蟻のように規則正しく働き、口下手だった。
ごくたまに、その口から私に向けられる言葉は、世間一般で言うところの正論ばかりで、だからこそ嫌だった。
“私の何が分かるのよ”
いつも腹の中でそんな風に思っていた。
休みの日は、一緒に出かける訳でもなくテレビで囲碁や将棋を見ていた。
学生だった私は、父のそのつまらない休日の過ごし方に嫌悪感を抱いていた。
背中ばかり覚えている。
あんな大人になんてならない。
そんなつまらない人生なんて嫌。
何故、きちんとその背を見なかったのか。
囲碁や将棋のルールなんか分からなくたって、隣に座ってみれば良かったのに。何か違ったかもしれないのに。
“して欲しい”ばかりの私は、
与えられる事に慣れすぎて与える事はしなかった。
ありがとう
お疲れ様
ゆっくり休んでね
何故、そんな簡単な言葉すら、かけることができなかったんだろうか。
私は掛けてほしかった。
自分が会社で、いっぱいいっぱいだった時、掛けてほしかった。
たくさん使えば、“安い言葉”になってしまうのかもしれない。
それでも良かった。だから、自分はたくさん使った。
でも、自分の大切な人には言えなかった。
気付くのが遅過ぎたからだ。
自分が、して欲しいと思う迄気付かなかったし、そう思ったからこそ気付けたのだ。
“与えて欲しいから与えた私”に、同じく“与えて欲しい”ばかりの人達から返ってくるものは無かった。
父の背に、
『いつもお疲れ様、ありがとう』って言えたら良かったのに。
それが言えなかった、それに気付けなかったあの頃の私は、私が嫌だと切り離した同僚や上司達と何も変わらない。
浅漬けさんに魂の話を聞いた時、父が“ご予約席”にくるだろうかと少しだけ、本当に少しだけ思った。
でもその後に、名前は忘れてしまうという言葉を聞いて、父は来ないと分かった。逢いに来ないと。
だってもう、“私の父”ではないのだろうから。
そんなに恋しいと思って生きてこなかった癖に、もしかしたらと期待するなんて、私は勝手だ。
会えたら何て言おう、そんな事を考えてしまうなんて、本当に勝手だ。
魂さんたちがあんなに気ままな存在なのだから、もし父が魂になってたら好きだった囲碁や将棋をしているかも知れない。
全ては私の想像で、希望だけれど。
好きなだけゆっくりしてくれていれば良いと思う。
あなたが全てから解放されて、
穏やかに過ごしていますように。
後悔と願いを織り交ぜて、ただ祈るしかないのだ。
*********
「おかえり!」
「ただいまー」
オーナーのお店に行こうかと思ったけど、真っ直ぐ帰宅してそのままご飯支度を始めてしまった。
あっという間に母が帰ってくる時間になってしまった。
…今日は時間の流れが早い。
会社の制服から素早く部屋着に着替えた母は、にこにこと一足先に食卓に着いている。
「「いただきます」」
鯵の開きを焼いただけ。横に大根おろしを添えて。
白米と豆腐となめこの味噌汁。
ほうれん草の胡麻和え。
なんてこと無い食卓。
「あー、こういうのが良いんだよねぇ」
「分かる。結局ここに戻るんだよね」
しみじみと呟く母に同意する私。
「今日さ、お父さんの事ふと思った」
「そうなの?」
「うん。私、可愛くない娘だったよね」
「そんな事ないわよ」
ふふふと笑いながら味噌汁に口を付ける母。
あぁ、美味しいと、小さく呟いて目を細めた。
「お父さんが死んじゃう前、私反抗期みたいな感じだったじゃん」
「そうだったねぇ」
「…もっと優しくすれば良かったなってたまに思う」
シンとした会話の切れ間に、つけっぱなしのテレビから明るい笑い声が聞こえる。
「あの人ね、あの時の美久ちゃんの態度に寂しがってたし、多分ちょっと傷付いてたけど」
「やっぱりそうなんだ…」
「でも、美久ちゃんのこと愛してたわよ」
「可愛くない娘だなんて思ったことなかったと思うけど」
そう言いながら鯵の開きをつつく母の手元を見つめていた。
グニャグニャに視界が歪んで、ボロボロと生ぬるい感触が頬を伝う。
「今更泣いてどうすんの!もう天国行っちゃてるわよ!」
カラカラと笑いながら、私にティッシュペーパーをとって差し出す母の瞳も、少し潤んで見えた。
悔やんでも、取り戻せないものがある。
結局、今あるものしか大切には出来ないのだから。
「お母さん、いつもありがとう。愛してるよ」
「なにいきなり!もうっ」
照れる母の手は、確かに昔より小さく感じた。