1. 開店前
「ついにぃ…我が城を手に入れたぁぁぁぁっ!」
東京までは電車で一時間半程の、とある田舎街。
テンション高めの大きな独り言を草の匂いのする風がさらっていった。
田中 美久子
35歳独身彼氏なし。
ついでに実家暮らし。
結婚願望なし。
宝くじ当たりたい、当たらない。
2ヶ月ほど前、10年以上勤務していた会社を退職した。
傍から見れば何それ何重苦なの?って話だけど、結構幸せにマイペースに生きている。
30半ばになり、友達はほぼ結婚して子供がいる。
私も結婚した方が良いのかな〜なんて悠長に構えていたら婚活もしないうちに35歳になっていた。
自分が高校生の時は、35歳なんて言ったら想像もつかないくらいのオバサンだった訳だけど、いざその歳になってみたら実感が全然ない。
ただ、確実に歳は重ねている事は事実だから、美容にだけは手が抜けない。
そんな、食べたら食べた分だけ太るお年頃な私だが、食べる事も作る事も大好きである。
好きが高じて、お店やりたい!になり、店舗を探して自分の城を手に入れた…というところで、先程の私の大きな独り言になったのだった。
“私の城”と言ったが、完全に私の城な訳ではない。
入り口が引き戸の昔ながらの小さな和風の居酒屋店舗はカウンター席が五席。
四人掛テーブルが2つ。
テーブルも椅子も年季の入った焦げ茶の木製。
味のある風合いで使い込まれている。
厨房は1人で切り盛りするのが精一杯のコンパクト設計。
ぶっちゃけ狭くて少し使い難い。
作業台は昔の日本人サイズのままなのか、165センチある私からすると少し低い。
ここは、ここのオーナー自身が夜に居酒屋を営業されている店舗である。
居酒屋が空いていない日中だけ貸してもらう契約で、半日私の城となるのだ!
田舎ではあまりこういった営業スタイルが浸透しておらず、契約してくれる店舗さんを探すのにすごく苦労した…。
駅からは遠い立地にある店舗だが、田舎では然程問題ない。
だって、田舎はみんな車で移動するから!
公共交通機関が本当に使い勝手悪いからね、車の方が楽なのである。
店舗の横には地続きで大き目の空き地があり、そこが駐車スペースとなっている。
店舗よりも大きな敷地の為、余程変な停め方をしなければ10台は停められるだろう。
元々居酒屋さんで駐車スペースが必要なのだろうか?と思ったが、その疑問は店舗に入ってすぐ右の壁に“代行”のチラシが貼られていた事で解決した。
何はともあれ、私の城(時間限定)である。
テンションが上がらない訳がない!
ここを借りるに当たり、夜の居酒屋との区別化をするのに暖簾を作った。
設備はあるものを使えば良かったが、地味にこの暖簾が一番の出費だった。でもその甲斐もあってか暖簾は私の好みにバッチリで完成した。
白から薄紅色のグラデーション生地、店名は若草色の刺繍で作ってもらった。
その名も、“春眠亭”。
我が城の名前であーる。ふふん。
メニューは日替わりで一品のみ。
店主の気まぐれごはんだ。
ほら、よく“シェフの気まぐれサラダ”ってあるでしょう?
あれ、やってみたかったんだよね。
あと、一人で営業なので色んなメニュー用意するほど段取りも良くないだろうしまずはこんな感じで。
その日の気まぐれ内容は店舗の入り口付近に置いたミニ黒板で掲示。
このお店をやろうと思い立ってから、食品衛生責任者講習なるものを受け、睡魔と必死に戦って修了したのだ。
さほど人は来ないだろうけど、一日10組くらいきたらいいな〜とゆるーい気持ちでいる。
誰も来ないとかありそうで恐ろしいけれど。
こちらのオーナー曰く、夜の居酒屋はぼちぼち客入りも安定しているそう。
私も固定客を獲得する為に頑張らないとー!
そういえば、オーナーが契約の時に不思議な事を仰ってたんだよね。
カウンター席に向かい合う形の厨房から見て、一番右側の一席は常に空けておくようにねって。
契約書には書かなかった内容だけど、それを守ってくれるなら格安で貸すよと仰っていただいて。
満席を目指してはいるものの、最初からそんな高望みもしていないし、カウンター席の一席分で賃料格安になるなら勿論お約束しますよ!
と、言うことで…
“ワイヤーアート”とは言えないレベルではあるが、ワイヤーいじりも趣味の一つな私が、台座を作りまして完成しました『ご予約席』プレート。
これをオーナーの仰る例の席に常時置いておけばバッチリ!
まだ誰も来てない店舗なのに『ご予約席』があるなんて更にテンション上がる〜!
口元が緩んでしょうがないわっ!
なーんて浮かれていた私は、
何故“その席を空けておく”ように言われたかなんて考えもせずに、勿論理由も尋ねないまま、いそいそと今日のランチ内容を黒板に書くのだった。




