鼠水牢
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うげげ、今度は世界の拷問の資料集めかい? あんまり残虐なものはご勘弁だよ。
拷問って秘密を吐かせるための、エクストリームいじめだもんな。人が嫌がることを徹底に行うことで、その人の心身を参らせ、屈服させようとしている。
これって、必ずしも激烈な苦痛を与えなくてはいけない、とは限らないよねえ。聞いたところによると、対象をイスに縛り付けて頭上に水桶を配置し、一定の間隔で絶え間なく額に水滴を落とし続ける、というタイプの拷問もあったとか。
文字通り、絶え間なく、だよ。四六時中、逃れられない刺激に身をさらさなくてはいけない。痛めつける拷問とはまた違った、心を折るための方法だったみたいだね。
水責めもまた、歴史の長い拷問の道具だ。日本でも有効活用する術が研究されてきたし、それに対する対策も考案されたらしい。
日常の枠の外にある責め苦に、どのように耐えてきたのか? その中でも奇妙な事例について、聞いてみる気はないかな?
江戸時代。すりを働いた一人の男が捕まってしまう。
懐から出てきた物は、すりをした財布に加え、明らかに10両以上の価値を持った品々。盗品であれば首が飛ぶのは明白だったが、出てきた品を確かめる際、ある者の訴えがあったことによって、事情が変わってくる。
訴え出たのは、その地域では指折りの豪商。裏では何かと悪いうわさが絶えない人物だった。彼は「灰毛の鼠」にやられたと供述したんだ。
灰毛の鼠は近年、界隈を賑わせていた盗賊だった。
当時は貴重な守り神たる、猫の絵を家々に飾ることが多かった。それを揶揄しているのか、盗みに入った家に、必ず灰色の毛を持つ鼠の絵を残していくことから、誰かがそう呼び出して広まったものだ。
出てきた品は、まぎれもなく豪商の屋敷から盗まれたものだった。ここで殺してしまうよりも、拷問にかけてつながりを吐かせた方がいいという意見が強くなる。
たとえ灰毛の鼠の一員でなかったとしても、品を受け取ったとあれば、それとつながりがあることは間違いない。
相談の末、彼は水牢の刑にかけられることになった。
水牢の刑は、腰くらいまでの高さまで水が溜まった牢屋の中へ、閉じ込められるという刑罰だ。
それだけ聞くと「なんだ、たいしたことないじゃないか」と思うかもしれない。
だが、これには大きな苦しみが伴う。
まず、刑罰が実施されるのが冬だということ。すでに辺りの地面に霜が下りようかという寒い季節。そこへ裸になって冷水に浸からねばならないというのは、想像するだけで震えてしまうものだ。
更に、水浸しで逃げ場がないとなれば、温かい布団はおろか、横になることさえもかなわない。水に触れる身体の面積が増えれば、体温が奪われる速度が増す。
そして、ずっと水に浸かるということは、皮膚に水が過度にしみわたり、内側から次々に皮膚を破れさせていく。それにより露わになった下の肉と傷に、刺すような冷水が浴びせられることになるんだ。
「財を食いつぶす鼠。徹底的につぶさねばならぬ」
商人の我欲に、これまでの被害に遭った面々の怨嗟が加わっている。そう感じられるほどの形相だったとか。
五間(約9メートル)四方の穴に、それを囲う石垣の壁を持って、水牢の用意が整った。
かの男は穴の深部に閉じ込められ、穴の上部に取り付けられた水路から、どんどんと水を流しこまれた。そして下半身がすっぽりと沈んでしまうところで、止められる。
捕らえられてより、いかようにも口を開かない男。寒風吹きすさぶ中、このような仕打ちに遭いながらも、きっと口を結んだまま。だが、すでにその身体はぶるぶると震えている。
そのさまを、穴の上から見下ろす牢番は嘲り笑った。
「さっさと白状することだな。本人なのか、品を預かりしものなのか……いずれにせよ、そこが嫌になったのならば、いえ。すぐに楽になれるぞ」
見張りを交代しながら、男の監視は続けられる。
最初の数日間は、男は水牢の中を震えながら、うろうろしていた。身体を動かし、熱を帯びさせることで、冷えを紛らわせようとするように見えたとか。
だが、半日ほどたつと、水かさを保つために、よく冷えた井戸水がつぎ足され、寒さも戻ってくる。あくまで男がやっていることは、悪あがきに過ぎないのだ。
四日目。時々、身震いしながら水の中へと身体を沈めて、あぶくをたてる男。水は嫌でも口にしなくては生きていけない。
だが、この水牢に用を足せるような場所はないのだ。牢番たちには見えないが、それらしいものは、すべてあの中で垂れ流すことになっている。水が足されても、ブツの掃除までなされるわけじゃない。
つまり彼の水分補給は、一部が「自給自足」で成り立つというわけでもあり……。
それでも彼は、まだ口を開こうとしなかった。
牢番たちは、あと何日で根をあげるか、ひそかに賭けの対象としていたくらいだったという。
五日目。この時から彼は、顔以外をほとんど水面に出さず、目立った動きを見せなくなる。
まともな食事をとっていないことにくわえ、そろそろ牢番には見えない位置で、皮がぶよぶよにふやけている恐れもある。
六日目。昨日と変わらず、彼は時折、瞬きすることをのぞけば、水に浸かり続けたままで動かなかった。真新しい水を加えながらも、賭けに負けた一部の牢番が恨み言を吐き散らす。
七日目も同じ。八日目も同じ。
足される水と、積み上がっていく掛け金。未だに彼の辛抱に賭けている者がいた。それが終わるか、上からのお達しがあるまでは、彼はこの戒めから逃れる術がないのだ。
そして、ついに半月が経った時だった。
その日も、昼間では彼は動きを見せなかった。見逃しているだけかもしれないが、まばたきの回数も、明らかに落ちている。昨日などは、数人が監視している中で、ほとんど目を見開いたままだった。
唯一、賭けに残っている牢番がいたが、ここを過ぎれば勝者がいなくなり、これまでの敗者分はそれぞれの持ち主へと戻る。この時、この場所では、彼が耐えしのぐことを期待する者の数の方が、勝っていた。
それが引き起こした事態なのかもしれない。
正午。いつものように、冷水から牢の中へ水を流し込み始めた時だった。
ほぼ鼻の上しか出していなかった彼の頭が、とぷんと水の中へ沈んだんだ。
これまでも何度かあったこと。存分に水を飲みたいのだろう、どうせ今までと同じようにいくらもしないうちに、顔を出すはずだと、多くの者が思っていた。
だが、四半刻(30分)が経過しても、彼は浮かんでこない。もしや溺死、と心配する者もおり、すぐさま牢の中を改めることになる。
長柄の熊手は突っ込まない。それをつかんで、脱出につなげた者の前例があった。
あくまで矢などの飛び道具が、まんべんなく水面へと打ち込まれた。多少の傷がついても、意識さえ残っていればいい。その考えのもとに、水牢はたちまち矢羽に覆われることになったが、反応はないまま。
これはさすがに、と細心の注意を払いながら、牢番たちが牢の中へ入り、じかに改めたものの、腰までしかない水の中のどこにも、彼の姿はなかった。
確かについ先ほどまでいるのを、全員が見ていたんだ。それがどこに消えてしまったのだろうか。
脱獄の報告が成され、付近に厳戒態勢が敷かれることになったが、ほどなく新しい情報が耳に入ることになる。
水牢からやや離れた川のほとりで、釣り人が糸を垂らしていた。
その糸がぐぐっと引かれ、すわ大物かと、釣り人は力を込めて竿を持ち上げようとしたらしい。
しかし、引っ張る力が思いのほか強く、やがて釣竿ごと川の中へ引き込まれてしまう。その時、川底の石に強く頭をぶつけたような衝撃があり、意識を失ってしまったとか。
次に彼が目を覚ました時、先ほどの釣り場よりもいくらか下流に流され、張り出していた岩に引っかかっている自分の姿を認めたという。
一糸まとわぬ、裸となっていた己の状態を。
結局、釣り人の服を盗んだ犯人は、見つかることはなかった。
数ヶ月後。再び、灰色の鼠が姿を現し、領主や豪商の屋敷から金品が盗まれる被害が相次ぐようになる。
その被害が収まったのは、実に数十年後の話だったとか。