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青き島影

作者: せいいち

見晴かす、緑美しこの国―――。

これで幾度、上空から、この国の風光に接することになるのだろう。

私の膝の上には鈴木大拙居士の本がある。今回の日本への赴任では、ボストンと東京を往復する機内で、私はずっと大拙居士の本を愛読している。前回の五年に及ぶ東京滞在では、ずっと「エコノミスト」だったが。

ちょうど今、低空飛行に入り機体の降下を身体に感じている。飛行機が降下を始めると、私はいつも決まって窓の外に目を遣る。

―――私の大和。

待ちきれずに一時間程前から、私はすでに窓の日覆いを上げていた。

横では妻が、まだすやすやと眠っている。二度目となる今回の東京赴任も、もう三年になろうとしている。今回の赴任は、妻と私の二人きりの日本での生活である。妻も、私に伴って幾度、太平洋を渡ったことか。

毎回ありがたいことに、日本に帰って来る日は、このような晴天続きである。

いつものことだが、この国の遙かに連なる緑豊かな峯々は、本当に美しい。

さあ、居士の本もここまでだ。

今日も空港には、彼が待ってくれていることだろう。


私は仕事柄、身嗜みには気を使ってきた。スーツは落ち着いた色目と柄のものを、日本に来てから何着かオーダーした。その分ネクタイは、少し派手目の色柄のものを好んで合わせている。

髪には一層気を使っていて、少しでも伸びてくると気に懸かる。ボストンでは、勤め先の銀行が入っているビルの上階に、品の良い理髪店があって、月に二度は通っていた。

十三年前、最初の東京赴任が決まった時、今となれば笑い話だが、真っ先に脳裏に浮かんだ心配事の一つが髪のことである。私の気に入るように髪を調えてくれる床屋さんが、はたしてどのような所か見当もつかない、アジアの端の日本という国にあるだろうか、ということだった。

そして、赴任。住まいがある程度人の暮らせるほどに整った頃、ちょうど髪も調え、髭も剃ってすっきりしたくなって、マンションの近くをぶらりと歩いてみた。

幸運だった。異国に来て、初めて入った床屋の主人と見事に馬が合ったのだから。


私が初めて日本に来た当時、日本の店の多くは、まだどこも外から中の様子が窺いづらい造りをしていた。床屋とて同じことで、特にその店は、客にスタッフの働く姿を見せて入りやすくしようという気遣いを持たず、とにかく入ってみないことにはどういう人がどんな風にやっているのか、外からは判らなかった。

実際、この店に入るのに、私は少々意を決する必要があった。入ってみると、外観から受ける印象より、店内は広く明るく感じられた。と言ってもよくよく観察してみると、座席は三席あるのみ。広く明るく感じられたのは、店内の色調が青と白を基調にしていることと、入るとすぐさま元気な声が四方から私に向けて浴びせられ、店員たちがきびきびと働いている姿が、私の全身に伝わって来たからだ。

しばらく待ち時間があって、ソファに落ち着き、一呼吸置いたところでぐるりと見回すと、天井が思ったより高く、壁紙のトーンが柔らかな青で、室内の物は整然と整備されて置かれていた。すべての座席の斜め前には花の写真やルノワール風の明媚な絵が架けられていた。店の中ぜんたいに働いている人の気持ちが、よく響き渡っているのがひと目で解った。

入ったとき、店内は混雑していたが、思ったより早く順番が回って来た。案内された座席に着くと、口髭が色黒の笑顔によく映えた四十半ばの紳士が応対してくれた。彼がこの店の店主だということは、周りの店員の彼に対する振舞いからすぐに分かった。

腰に巻かれてよく使い古されている濃い茶の皮製の鋏入れと、私の髪に手を入れる物腰に、この日本人の日常の丁寧な仕事振りがよく表れていて、そうこの店の雰囲気が店主そのものであった。

私は、およそ一時間半、店主に身体をあずけていた。私は、この店では非常に珍しい外国人の客にちがいなかった。しかし、何ら特別に気を張った様子も見せず、調髪から髭剃り、シャンプーへと流れるように、彼のサービスは繰り広げられた。

とても心地良く、私の心の内側にいたるまで、赴任で積もった疲れと様々な埃をさっぱりと洗い流してくれたような気分になった。

彼の身のこなしからは、動く職人技を見ているようだった。これは、のちに判ったことであるが、店内に飾られた草花たちの写真たちは、巡る季節ごとに取り替えられていて、関西一円の古寺を廻って撮られているものが多かった。すべて、この店主の手に成るものであった。


二度目の日本赴任となる三年前、ふたたび東京に着任すると私は、真っ先にこの床屋を訪ねた。五年前に日本を離れたときと、まったく変わることのないよく整えられた店内と、相変わらずの客入りのよさであった。ただひとつ前回と違っていることは、店主が、さらに飛びっきりの笑顔で、私を迎えてくれたことである。

店の中には、五十代半ばになった店主と、奥さん、そしてこの人たち。初めて会った頃とふたりとも体型も変わらず、すらっとした長身で細めのブルージーンズがよく似合う店主の良き相棒たち。きびきびとした彼等の仕事振りは、年齢を重ねて益々、接する客に心地良さを感じさせる。

しかし、ここにもう一つ、年輪を重ねたこの店に変化が生じていた。五人目の、二十代そこそこの若い店員が加わっていたのである。その店員も、主に似て無口だが、顔はいつも笑っているように見えて、颯爽とした働き方に澱みがなく、動きに途切れるところがない。私はすぐに理解した、若者は、店主の息子であると。

この床屋の空間は、彼ら働き手たちと一つに成りきったものであって、まるで店の空気そのものが仕事をしているかのようである。これは、その店に行く度に、私に直感的に伝わって来ることである。またそれは、ここが日本であることを、もっともよく私に感じさせてくれる場所とでもいうべきか。


二年前、彼は店を完全に息子に任すことに決めた。それでも、私が予約を入れた時には、いつも彼が私の髪を切ってくれていた。また、私が日本に帰って来る度に、いつごろからか彼は大好きな車を駆って、わざわざ私たち夫婦を空港まで迎えに来てくれるようになっていた。

今、着陸のアナウンスが流れている。

今回、私は彼と一つの約束事がある。今後は、彼の息子さんに私の担当を任せるということだ。

さあ、これから車の中で彼から、この季節の日本の草花の話を聴こう。

そして次の土曜日には、初めてこの愛すべき紳士の子息の前に、私はゆったりと身体を投げ出していることだろう。

                               ( 了 )

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