1.ルビーヴィル
晴天の空の下、まるで宝石のように輝く熟れた赤い実。鮮やかな緑の葉との色合いは目の覚めるようなコントラストを生む。嘗てその実はルビーに例えられたことから村はルビー・ヴィルと呼ばれていた。
ルビー・ヴィルの特産はトマト。どこを見渡してもトマト、トマト、トマト。トマト畑が一面に広がり、トマト農家が人口の半数以上を占めている。この地域の気候と土壌がトマトを育てるのに適しており、逆に山を隔てた周辺の地域ではトマトが育ちにくい。その為村から一歩出ればルビーヴィル名産のトマトはそれなりの値段で取引がされるのだ。故にトマト農家が増えるのは必然的なことなのだろう。
その小さな村で生活を送る少女が居た。名前はアリス。
ボロボロの納屋を家代わりに使い、そこに小さなトマト畑を持っている。アリスはそこで生活していた。生活は非常に慎ましやかだった。
アリスの朝は早い。陽も昇らないうちに目を覚まし、まずはトマト畑の様子を見る。トマト一つ一つの状態を見て今日も元気に育っていることを確認するのが日課だった。水をやり朝日を受けて真っ赤に輝くトマトは宝石のようで、手塩にかけた作物は彼女の誇りであり、生き甲斐でもあった。
週末は丸々と熟れたトマトを隣町へと売りに行く。道のりは決して近くは無いが山を越え、谷を渡り、その先では少なからずアリスが作ったトマトを心待ちにしている人間が居た。彼女の作るトマトは実が大きい割には大味では無く、ルビーヴィルのどの農家が作るトマトより美味しいと評判だった。アリス一人で畑を管理している為少量しか作ることができないのが難点ではあったが、隣町では笑顔で迎えてくれる人が多くアリスはそれに心を癒されていた。
ただそれは週末だけの話。それ以外の日は苦痛であり、地獄でしか無かった。
アリスの日常はトマトの世話から始まるが、その後は地獄へと向かう準備をしなければならなかった。食事はいつもトマトのスープ。簡単に済ませてから数着しか無い汚らしい服に袖を通す。汚れたブラウスと色の褪せてしまったスカート。アリスはそれをずっと恥ずかしいと思っていた。出来ることならばこんな汚い服は着て行きたくなかった。けれど他の洋服を買うお金は無かった。
髪を手櫛で整え、まるで戦地へ赴くかのような顔つきで家を出る。その地獄はこの村にたった一つある学校だった。
学校は嫌いでは無かった。勉強も好きだったし、運動もどちらかと言えば好きだった。
ただ一つ嫌いなこと、否、厄介な人間と関わるのが嫌なだけだった。
「あら、アリスってばまたあんなに汚い格好で来てる。恥ずかしく無いのかしら」
如何にも意地悪そうな目つきの巻き髪の女。アリスが関わりたくないという彼女の名はヴァネッサという。
「ヴァネッサとアリスは同じ家に住んでるのではなくって?」
「今は住んでないわ。あの子が勝手に出て行ったんだもの。それに、あんな子と一緒の家に住めないわよ」
ヴァネッサの言葉に本人と取り巻きは高笑いを響かせた。これは日常茶飯事。教室に入って始まる儀式のようなものだ。アリスはそんなものに構いもせず席に着く。くだらない儀式からこうして地獄が始まっていくのだ。
ヴァネッサとは嘗て同じ家に住んでいたことがある。
今も住んでいておかしくない関係なのだが、息の詰まるような家から逃げ出したくて自ら懇願したのだ。故に今では納屋を家替わりにして住んでいる。
ヴァネッサはこの村では珍しい資産家の家系、ヘンウッド家の人間だ。アリスも元々はヘンウッド家の一人として生活をしていた。今も名前はアリス・ヘンウッドであるが、こんな名前は捨てられるものならとっとと捨てたいくらいだった。けれどそれは義母のグレタ・ヘンウッドが決して許さなかった。
ヴァネッサとアリスの関係は姉妹に当たる。認めたくは無いが家族ということになるので、ヴァネッサとは同じ家に住み生活を共にしていた。ただその生活というものは最悪に等しいものだった。
アリスは家族として認められて居なかった。義母のグレタ・ヘンウッドはヴァネッサを溺愛し、アリスを家畜同然に扱っていた。ヴァネッサには大きな部屋に天蓋付きのベッド、それから誰もが羨むような高級メゾンのお洋服が与えられていた。
然しアリスに用意されていたのは屋根裏の納戸として使われていた部屋と使い古された時代遅れの服、そして最低限の食事だけ。屋根裏部屋は夏は暑く冬は寒い。その上小さな窓が一つあるだけで、陽の光など殆ど入ってこないような陰鬱な部屋だった。けれどアリスはそれなりに幸せだった。グレタともヴァネッサとも顔を合わせなくて済むのだから。一人だけの空間は心地よかった。
時にそれは侵害されることがあった。ヴァネッサは当然ながらアリスのことを良くは思っておらず、家の中では陰湿ないじめを仕掛けてきた。
ある日、珍しく家族での食事の場に呼ばれた。いつもはパンとスープが用意され、それを屋根裏で食べている。しかしその日はヴァネッサが「お父様とお母様が今夜はダイニングにいらっしゃいって」と声を掛けてきたので出向くことにした。ダイニングには義父のジェフリー、義母のグレタ、そしてヴァネッサが座っていた。
「貴方からアリスに声を掛けるなんて珍しいわね、ヴァネッサ」
「たまにはいいんじゃないかと思って」
グレタとヴァネッサはそんな会話をしていた。ヴァネッサに呼ばれた時点で何か企んでいることは予測できたが、果たして何をしたいのかはわからない。気味が悪いと思いながら運ばれてきた食事に手をつけた。
最初はアミューズ、次に前菜、そしてスープが運ばれた時に違和感を感じた。目の前には人参のポタージュ、その中に茶色いような黒いような何かを見つけた。それが何か分かった瞬間、アリスはゾッとした。
スープスプーンでそれの“頭”を持ち上げて確信へと変わる。ポタージュに沈んでいたのは“鼠の死骸”であった。
「どうしたの、アリス? 普段は食べれないような食事ばかりでしょう? 早く食べなさいよ」
ヴァネッサはにやにやといやらしい笑みを浮かべていた。こんなタチの悪い嫌がらせ、ヴァネッサ以外の何者でも無い。今目の前で笑う意地汚い女の仕業に違い無かった。
「アリス、具合が悪いなら無理に食べなくてもいいわ」
「ママ! シェフが作った料理よ? 勿体無いわ!」
グレタの言葉は決して優しさでは無いのは分かっていた。「食べないのならとっとと居なくなれ」という意味で言ったのだ。けれどヴァネッサは騒がしくアリスをまくし立てた。
「アリス、早く食べなさいよ。とっても美味しいポタージュよ? せっかくディナーに呼んであげたのに残す気なの?」
アリスはじっと堪えていた。しかし苛立ちは沸々と募っていく。
「食べなさいよ! 早く食べなさいよ!」
うるさい……うるさい、うるさい、うるさい!
「アリス!!!」
「だったらあんたが食べなさいよ!!!」
瞬間アリスは立ち上がりその悍ましいスープを、ヴァネッサめがけて頭から勢いよくかけてやった。
ポタージュに塗れたヴァネッサは唖然とし、そして膝下に転がった鼠の死骸を見て絶叫した。それはダイニングは愚かヘンウッド邸全体に響き渡り、地球の裏側まで届いているのでは無いかと思うくらいだった。
その後アリスを待っていたのはグレタの酷いせっかんだった。何日も消えないような痣ができ、食事も与えられない。ヴァネッサはそれを見て笑っていた。
勿論これは嫌がらせの一つであり、他にも耐え難い仕打ちは何度も受けていた。その度にアリスはヴァネッサに仕返しをし、グレタにせっかんを受けていた。
その生活に耐えられなくなりアリスは自ら家を出ていくと告げる。12歳の誕生日を迎えた日だった。学校の小等部が終わる年に願い出たが、グレタは最初それを聞き入れてはくれなかった。
義母のグレタがアリスを疎ましく思っていることは分かっていた。これまでの酷い仕打ちを思い返してみれば分かる。けれどグレタはアリスを家から追い出すような真似は決してしなかった。最低限の衣食住は与えられていたし、学校には必ず通うように言われていた。食べ物と住むところには困らなかった事には感謝している。それでもアリスはヘンウッド家から、この村から出ていきたいとずっと考えていた。
グレタを説得するには時間を要したが「学校へは高等部卒業まで通うこと」を条件に家を出ることを許して貰った。
ヘンウッド家は大きな屋敷を郊外に構え、少し離れた丘の上に小さなトマト畑を持っていた。せいぜい一人で世話をするのがやっとという程度の広さで、畑は荒れトマトは枯れ果てていた。聞いた話では嘗てはジェフリー・ヘンウッドの母が趣味程度に世話をしていたらしい。しかし彼女が亡くなったと同時に世話をする者はいなくなり、残ったのは荒れた畑と井戸とおんぼろ納屋という訳だ。
ほんの少しの荷物を持ち、アリスはヘンウッド邸を出た。それだけで気持ちがすっとした気がした。納屋は納屋でしか無く人が住むようにはできてはいない。夏は暑く冬は寒かった。それでもアリスは幸せだった。
納屋の中を綺麗に掃除し、持ってきた荷物を並べ、近くの農場からもらってきた藁でベッドを作りそこに布団を敷いた。摘んできた花を気持ちばかりに飾って自分だけの空間を作る。誰にも口出しされない静かな生活を手に入れたのだ。
暫くしてアリスは自立する為にトマト畑を蘇らせようと考えた。畑と呼べるまでは大きな農場で雇ってもらい、トマト栽培の勉強をしながらお金を工面していた。生活は楽では無かったが、アリスは楽しかった。約2年の歳月をかけてアリスの畑のトマトは立派に成長し、隣町では評判になるまでになった。最低限生活できるくらいの収入は出来た為、農場の仕事は見切りをつけ自身の畑仕事に専念することにした。
アリスは誇りを持っていた。自身でここまで成長させた畑とトマト。毎朝つやつやと実る赤いそれを見る度に愛らしいとさえ思っていた。学校でヴァネッサからどんな嫌がらせを受けようが、辛いことがあろうが、週末隣町でトマトを手に取る人々の笑顔を見ればどうでも良くなった。
事件はそんな慎ましい生活の中、突如起こった。その日の授業は美術で、皆石膏像をモデルに無言で鉛筆を滑らせていた。アリスも集中してひたすら石膏像を見つめ、スケッチブックにそれを投影していく作業に没頭した。
「下手くそな絵」
背後から聞こえるのは紛れもなくヴァネッサの声だった。聞こえるように、けれど騒ぎにはならないような声で言う。ヴァネッサはこういう絶妙な嫌がらせをすることに長けていた。取り巻きはクスクスと笑いアリスの神経を逆撫でする。
少し気分を落ち着けようとアリスは手を洗う為に外へと出た。廊下にある備え付けの水道でざぶざぶと手を洗い石鹸を泡立てた。どうにか苛立ちを抑えようと思っていた最中、視界の隅に人影が入る。案の定ヴァネッサだった。アリスはそれを気にも留めずただ手を動かした。それをヴァネッサが面白く思う訳が無い。
「少しは何か言ったらどうなの?」
その時は珍しくヴァネッサの取り巻きは居なかった。廊下にアリスとヴァネッサ、たった二人だった。
「話したくもないのに話す必要なんて無いでしょ」
酷く冷たい視線だったと思う。とは言ってもヴァネッサと目を合わせるようなことはしなかったが。
「お話しましょうよ。家族でしょ?」
その言葉に反吐が出そうだった。家族? 一度も家族として扱ったことなど無かったくせに。
「気色悪いこと言わないで。私はヘンウッド家の人間じゃないし、あんたともグレタおばさんともジェフリーおじさんとも血は繋がってない。だからあの家を出たの。もう放っておいて」
アリスは手にまとわりついた泡を洗い流す。苛立ちは募るばかりで一刻も早くここから立ち去りたかった。
「そこが不思議なのよね」
今までの口調とは少し変わった声色でヴァネッサが呟く。
「血も繋がっていない、自ら出て行きたいって言ってる貴方を、お母様は何故気にかけているのか。現にヘンウッドの名前を捨てることは許していないじゃない?」
正直それはアリスも疑問に思っていた。厄介に思っている筈なのに、ヘンウッド家から出て行きたいと言っているのに、グレタはそれを許してはくれなかった。別居は許してくれたもののヘンウッド家の所有地ではある。名前を捨てることも止められ、学校には必ず行けと強要された。
「そんなの私が知る訳無いじゃない。グレタおばさんに直接聞いたら?」
「教えてくれないのよ。お母様は昔からそれだけは教えてくれない」
「じゃあ分からないままね」
それだけ言い放ちヴァネッサの横を通り過ぎようとした瞬間、左腕に痛みが走った。ヴァネッサがアリスの左腕を掴んだのだ。咄嗟のことで驚いてしまい声も出なかった。
「なんであんたみたいなドブネズミ! 私の方が可愛くて、頭も良いのに!」
「あんた、試験で私よりいい点取ったこと無いじゃない」
冷静に言い放った後に「しまった」と思った。その一言でヴァネッサの頭に血が昇るのが手に取るように分かる。そしてついにヴァネッサはアリスの胸ぐらを掴んだ。
「頭が良かろうが何だろうがお母様の子は私! 血が繋がってるのは私よ! なんであんたみたいな余所者が家に来たのよ!!!」
けれどアリスは冷静だった。ヴァネッサと同類にはなりたくない。
「案外、あんたも同じ穴の狢なんじゃない?」
ヴァネッサは押し黙る。
「――どういうこと?」
「わかんない? あんたもあの家の子じゃないんじゃないかって言ってんのよ」
アリスは殴られる覚悟をしていた。ヴァネッサはきっと怒りのやり場が無くなり、堪えきれずに手を上げる。
しかし、アリスの予想は覆された。
ヴァネッサの怒りは手に取るように分かった。それが一瞬にして引き潮のように引いていき、ヴァネッサは踵を返してその場を無言で立ち去った。その時のヴァネッサの表情は酷く冷酷で、気味が悪かった。
このことがある大きな出来事に繋がるとは、アリスはまだ思っていなかった。
その後は何事も起こることは無かった。
机の引き出しに何か入っているのでは無いかとか、自分の持ち物が隠されているのではと心配していたが、ヴァネッサは何事も無かったかのように取り巻きたちと笑っていた。
温かい日差しに涼しい風が吹く気持ちの良い気候の中、アリスは帰路へと着いた。帰ったらトマトの世話をする。害虫を取り、雑草を毟る。少し畑を広くするのもいいかもしれない。少し土は硬いが時間をかけて耕して、そんなことを考えながら歩みを進める。足取りは心無しか軽かった。そう、その瞬間までは。
アリスは風が少し暖かくなるのを感じた。急に風の温度が変わるなど有り得ない。そしてどことなく顔が熱くなるような感覚--。アリスは顔を上げて遠くを見渡す。360度目を凝らして見つめる。すると心のどこかで予想した方向に赤くぼんやりと灯る光を見た。アリスは堪らず駆け出した。これは、火事だ--。
弾む息をそのままに全力で走った。喉が、肺が痛い。玉のような汗が滲むのがわかる。けれど今はそれどころでは無い。
炎は明らかにアリスが住む家の方角に見えていた。徐々に顔が熱くなっていく。炎が近い証拠だ。案の定それはアリスのトマト畑から立ち上がる炎に間違いは無かった。
「あ……、あぁ……!!!」
言葉にならなかった。目の前には火の海が広がっていた。ぱちぱちと音を立てながらトマトが、葉が、燃えている。アリスは涙が頬を伝うのにも気づかぬまま井戸から水を引き上げる。必死に何度も何度も引き上げては水をかけた。炎に向かって。何度も、何度も。けれどもそんなことは無駄だと分かっていた。この炎を一人で消すなど、無理に等しい。
アリスはその場にへたりこんだ。火の海を目にして自分の無力さを痛感した。ただ赤い炎を見つめることしかできなかった。
その炎と共に情念の炎が燃える。こんなことをするのは一人しかいない。これは明らかに放火だ。
アリスは精悍な表情を浮かべその場を走り去った。
喉が、肺が痛くなるほどに走った。ヘンウッド邸に着くまでにぽつぽつと雨が降りだし、徐々にアリスの髪と肌を濡らしていく。けれどそんなものはどうでも良かった。
ヘンウッド邸には既に明かりが灯り、ヴァネッサの部屋にも同じ様に電気がついていた。ヴァネッサの部屋は一階の南側。アリスは外側からぐるりと回り込み窓ガラスを割った。
ガシャンという日常生活では聞きなれない音にヴァネッサは体を震わせた。窓ガラスに空いた小さな穴から腕がにょきっと入り込み、室内にある鍵を外す。窓を開けて入ってきたのはアリスだった。けれどヴァネッサは知っていた。否、わかっていた。アリスがこうやって遅かれ早かれ自身の元へやって来るということ。この現れ方は想定外だったが。
開け放たれた窓からはヒューヒューと雨風が入り込んでいた。ずぶ濡れのアリスは肩を上下させヴァネッサをただ睨んでいた。酷く静かな時間が二人を包む。
「表から入ってくれば良かったじゃない」
ヴァネッサは宿題をしていたようだった。机の上に見覚えのあるテキストが並んでいる。
「ま、表から入れば止められるものね。貴方はこの家の人間じゃないもの」
ヴァネッサは勝ち誇ったかのように笑っていた。
「な……で燃やしたの?」
「何? 聞こえないわ」
「何で燃やしたかって聞いてるのよ! あのトマト畑を!」
ヴァネッサはついに声を上げて笑った。
「あの貧相な畑、火事に遭ったの? お気の毒ね」
ケタケタと笑う姿を見てアリスの頭にカッと血が昇る。自分でもそれがわかった。ヴァネッサもそれを察したのか、さも楽しそうに言葉を続けた。
「私がやったっていう証拠はあるの?」
「それは――」
証拠は何も無かった。あの場には何も無かったし誰もいなかった。ヴァネッサがやったということを決定づけるものは何も無い。
「でも教えてあげる。私はね、ただ言っただけよ」
気味が悪いくらいに楽しそうなヴァネッサは口角を上げ、戸惑うアリスから決して目を離さなかった。
「あのトマト畑は病害を持っていてこのままだと村全体に広がるらしいわよ、ってね」
アリスは怒りで体が震えた。それを必死でこらえる為に唇を噛んだ。
「噂話って怖いわね! 私がちょっと話しただけでこの村の人間はすぐに信じてるんだから! でも別にいいでしょ? あんな見窄らしい畑が一つ無くなっても世界が変わることなんて--」
「ふざけるな!!!!!!!!!」
アリスは堪えきれずヴァネッサの胸ぐらに掴みかかり、床に叩きつけ馬乗りになった。ヴァネッサはそれに驚きながらも、その痛みを怒りに変換しているようだった。
「私が何したって言うのよ! あんたにもこの家にも関わらないように生きてきたじゃない! だからこんな忌々しい家出てったのよ! それで満足じゃないの!?」
訴えは止まらなかった。感情が溢れ出てて洪水のようにせき止められない言葉が後から後から湧き出てきた。ヴァネッサが何か言おうとしたのでアリスはそれを防ぐために首に手をかける。そしてギリギリと喉が開かないように力を強めた。
「いい気味ね。滑稽よ、ヴァネッサ。何か言ってみなさいよ!」
ヴァネッサは口をぱくぱくとするだけで声を発することができない。小さくうめき声を上げて目を見開き、アリスの手を離そうと必死で爪を立てていた。
「畑一つで世界が変わる訳無い? あんたには関係無いでしょうけどね、私の……私の世界は変わったのよ! あんたのせいで変えられたのよ! 私にとっては、何よりも大切な物だったの!!!」
じわじわと熱い涙が溢れてきた。この村でヘンウッド家の言葉は何よりも影響力がある。ヴァネッサだとしても資産家の令嬢が言っているとなれば話は別だ。その何気ない一言でアリスのトマト畑が、唯一の拠り所が消え去った。
ヴァネッサの手の力がいよいよ弱まってきた時、物音に気づいたのか誰かの足音が聞こえた。「お嬢様の部屋からか」という声が遠くから聞こえ、何人かがこちらにやってくるようだった。アリスはヴァネッサの首から手を離し、侵入した窓から脱兎の如く逃げ出した。
ヴァネッサの咳き込む声と部屋に何人かの召使が入ってくる音、ヴァネッサを案ずる声が遠くで聞こえた。雨はもう止んでいた。地面や草木の湿った匂いを感じながら、アリスは走った。涙が風にさらわれていくのがわかった。
目の前に広がるのは灰と化した畑だった。真っ黒で、燃え跡しか残っていないそれは畑とはもう形容できない。雨のお陰で火は既に鎮火しており煙の匂いがツンと鼻を突く。そのせいでじわじわとまた涙が溢れ出てくる。
アリスわ大きな口を開けてわんわん泣いた。小さな子どものように「うわーん」と堪えきれない物を全て吐き出すように、形振り構わず泣いた。あの青々とした葉を茂らせ、宝石のような赤い実をつけていたトマト畑はもう無い。自分の全てと言ってもいい、時間をかけて愛した畑はもう無い。それを思うと悲しくて仕方が無かった。
暫くして泣き疲れアリスは膝を抱えてその場に座り込んでいた。陽はとっぷりと暮れ月がぼんやりと辺りを照らしている。少し肌寒く感じたが小屋に入る気にはならなかった。
もう守る物も捨てる物も無くなった。さて、どうしてしまうおうか。全てをかなぐり捨てて隣町へ行って、なんとか一人で生きていける方法を探そうか。そんなことをぼんやりと考えていた時だった。
「おや? 昼に来た時にはこの場所に畑があったかと思いましたが?」
見知らぬ人の声だった。そもそもアリスの家や畑に人が来ることなどまず無い。家事が物珍しくて来た野次馬かと思った。視線をその人物に向ける気すら起きず、アリスは膝に顔を埋め真っ直ぐ燃え尽きた畑を見ながら返答を考えていた。
その男性は地べたに座るアリスの横に立っていた。横目で足元をちらと見れば上質な革靴を履いていた。どうやら杖をついているらしい。足元に杖の先が見えた。
「火事ですって。全部燃えたみたい」
初対面の人間に素っ気ない返事をしてしまったなと思った。けれどそれを謝る気分にはなれなかった。それに言われた本人はさほど気にしてないように思えた。
「おや、それは残念ですね。ここの畑は一際美しかったというのに」
その言葉がアリスの心を震わせた。
「美しかった?」
「ええ、非常に美しい実が生っていましたからね。あの実は何と言うのです? 赤い宝石のような輝く実は」
「――トマトよ」
「トマト! また面白い名ですね。あれはトマトというのですか」
この男はトマトを知らないらしい。そんな人間が居るのだろうか? 少なくともルビーヴィルとその近隣の人間では無いだろう。
「しかしここは美しい土地ですね。のどかで平和で空気が美しい。星も月も美しく輝いている」
アリスはずっと抱いていた好奇心から男の顔を見ようと視線を上へと向けていく。
隣に立つ男の顔が視界に入った瞬間、アリスは目の前の現実が信じられなかった。
「なのに何故悲しそうな顔をするのです、アリス嬢」
隣に立つ人間の頭部が、兎だったのだから。