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村の守り神様

作者: 重弘 茉莉

 ある暑い日の昼下がり。人の気のない街道を駆ける男が1人。男のちょんまげは大きく乱れ、その麻で出来た着物は、まるで水を浴びせられたように男の肌にピタリと張り付いていた。男の年は10代のあどけなさが抜けてない、まだまだ若輩者であった。

 男はある手紙を持って街道をひた走っていた。息は荒れ、額からは滝の様に汗が地面に落ち、手足が疲労により悲鳴を上げて、心の臓が破裂しそうになっていても、男は足を止めることはない。


「これで、豊臣の裏を掛けるだっ……」


 男の名は吉兵衛(よしべえ)。彼は北条家の間者であった。元々は北条家に仕える下級武士の家に生まれた吉兵衛であったが、今では彼は故郷の小さなあばら屋で、老いた母と2人暮らしをして食うや食わずやの生活まで落ちていたのだ。

なぜなら、彼が小さい頃に父親が酒の席で上役に無礼を働き、上役から冷遇されてしまった。そのことから父親は精神を病んで、程なくして首を括り、残されたのは母と子の2人。周囲にどうにか母の面倒を頼み込んで、郷里に老いた母を残して敵対している豊臣の城へと潜り込んだのであった。

 そして吉兵衛は小姓として豊臣家に入り込み、常日頃から豊臣家の動向を探っていたのだ。

だが、昨夜に状況が一変する。吉兵衛はいつもの通りに豊臣方の宴会へ料理を運んでいたところ、偶然にも『豊臣が小田原攻めの準備をしている』ことを聞いてしまったのだ。


「これは一大事だ……!」


 吉兵衛は豊臣家が小田原の北条に攻め入ると聞き及び、荷物をまとめると急いで主君の元へ参じたのであった。

吉兵衛の早足でも駿河の駿府城から相模の小田原城まで、5日は優に掛かる。だが、この情報を1日でも早く主君である北条氏直に届けなければ、主君の命運に関わる。

そのため、吉部衛は一刻も早く主君の元へ行くために最短の道ではあるが、普段は野党が出たり、道が崩れていたりして危険なため通らないような街道や小道を通らなければならなかったのだ。


「さ、流石に、これ以上は、は、走れねぇ……」


 吉兵衛が豊臣方の城を出て早2日。男の足は血豆がいくつも出来ては潰れて草履に滲み、血と体液の足跡が出来ていた。

吉兵衛は息も絶え絶えになり、持っていた竹の水筒の中身を飲み干すと、街道脇にある手頃な岩に腰を掛けた。そして大きくため息をつくと、虫に刺されて赤くなった頬を気怠そうに掻いた。


「少し休んだら、すぐに行くベ……」


 吉兵衛は一息を着きがてら、辺りを見渡す。

辺りは静まりかえり、遠くからの川のせせらぎ以外は何も聞こえない。そこで吉兵衛は違和感を感じた。

この暑い夏の日なのに、鳥や蝉の声1つ聞こえないのだ。それどころか、辺りには生き物1匹の気配すらない。

そこまで気がついた吉兵衛の背に冷たい汗が流れる。


 普通ではない。


吉兵衛の直感が、ここから早く逃げなければいけないと、警鐘をがんがんと鳴らしていた。


 吉兵衛が岩から腰を上げた瞬間、遠くから蹄が地面を駆ける音が聞こえていた。

ここはまだ豊臣の領内。自身が居なくなったことに気がついた豊臣が、己を捕らえるために放った追っ手かもしれない。

そのことにはっと気がついた吉兵衛は、ふと街道脇の森の奥に、古びた社があるのに気がついた。その社は古びていたが、見た目はしっかりと管理されているようであった。


「神様、仏様、おらをお助け下せえ」


 吉兵衛が社に飛び込んだ瞬間、馬に乗った武士が今まで吉兵衛が居た街道を駆けていった。

その武士に吉兵衛は見覚えがあった。たびたび城に出入りしていた豊臣方の1人で、吉兵衛とも面識があったのだ。

これでは、しばらくは外へ出られまい。吉兵衛は社に座り込むと、社の薄暗い奥に何かが置いてあるのに気がついた。


「神様、仏様、おらを守って頂いてありがとうごぜぇます。ちょいとこのまま、おらを匿ってくだせえ。これはおらの気持ちですだ」


 吉兵衛は懐から小さな握り飯を取り出すと、社に安置された”ソレ”に備えようと近づいた。

だが吉兵衛は奥にあった”ソレ”の姿を認識した瞬間、世界が大きく揺れた。


「ああああっあああっあああっあっっ!?」


 吉兵衛の視界は右へ左と自身の意志に関係なく動き、体はまるで荒波に揉まれた小舟の様に揺れる。

胃からは吐瀉物が逆流し、昼に食べた握り飯の残りかすが床に細かくまき散らされる。

 そして膝から崩れ落ちた吉兵衛は、まるで赤ん坊のように体を丸め、精神は暗い闇へと霧散していったのであった。



*



 吉兵衛が社に入り込んでから、翌日の朝。

近くの村より、いつも通りに社を掃除に来た彦三郎が社の異変に気がついた。


「社の扉が開いてるだ……?」


 不審に思った彦三郎が中を覗くと、そこには目の焦点が合わず、よだれを垂らしながら不気味な笑い声を上げる、すっかり気が触れてしまった吉兵衛を見つけたのであった。

彦三郎は急いで社を飛び出すと、彼の居る村へ村長を呼びに走り出したのであった。


 2時間ほどして、村長と村の若い衆を引き連れた彦三郎は社に戻る。

社には先ほどと変らない様子で居る吉兵衛がおり、若い衆数人掛かりで社から引きずり出すと、村へと運んでいく。

 そのまま、若い衆と吉兵衛は村を目指して森の奥へと消える。社に残された村長と彦三郎は、吉兵衛が居た後を見つめて首を捻る。


「にしても、あいつは”村の守り神様”の社で何をしていたんだべ?」


「どうせ、盗人か乞食か、いずれにせよまともなヤツじゃなかろうて。まあ、”守り神様”を盗もうとした不埒な輩にはお似合いな末路じゃて」


 社に入った彦三郎は”守り神”を、丁寧に拭き始める。大人と同じくらいの大きさのそれは、彦三郎に拭かれる度にその光沢を取り戻していく。


「このとんがったところが良いんだなぁ。ところで、村長、なんで守り神様は村の人間以外は見ちゃいけねぇんだ? 外の人間ならまだしも、嫁いできたおっ母にすら見せちゃならねえなんて」


「ふむ、それはよく分からんが、乳飲み子の頃より、守り神様に触れていないと護って頂けないとか聞いたのぅ。昔、わしの目の前で彫り上げたお方はそう言っておられたぞ」


「村長は彫っているときに、守り神様を見ても平気だったんで?」


「その時は、まだ”魂”が入っていないと、そのお方が言っておられたよ。魂を入れた瞬間に、村人全員で立ち会ったから気が触れずに済んじゃ。そしてその時よりわしらは”守り神様”より、護られたんじゃ」


「へぇ……それで、そのお方の名前は?」


「えぇと……確か、田中(たなか) 宗易(そうえき)と名乗っておられたよ。今では千利休と呼ばれておるがの」


「利休様がこんなところに、何をしにきたんだべか」


「さぁの。ただ”しあぇが”のためだとかなんとかは言っていたがの……。おい、そこのくぼみを拭き忘れ取るぞ」


 村長と彦三郎は”守り神様”を拭き終えると、若い衆の後を追って村へと歩き始めたのであった。


 その後、吉兵衛の行方は分からなくなり、数年後にはこの村も戦火に巻き込まれて消滅する。

”守り神”は戦火に巻き込まれて焼失した、信心深い村人が運び出したなどの説が囁かれているが、平成になった現代では確かめようがない。

そもそも”守り神”がどのような姿であったのかは、詳しくは記されていない。記された姿は巨大な赤き1つ目、天を貫く千の手とだけであり、一番近い姿として千手観音が考えられる。

そして木製なのか、あるいは石材より削り出したのか? そういったことすら分かっていない。

 

 ただし、少なくとも、その”守り神”を見たことで、吉兵衛を除いて30人余りは、精神錯乱を引き起こしたという記述は、詳細に現代にも伝えられている。

また、戦火に巻き込まれた理由が、豊臣方にも”守り神”が被害を与えたため、戦乱に乗じて村の消滅を謀ったというのが真相らしい。


 これが本当なら、村人たちは”村の守り神”ではなく”邪神”を崇拝してしまっていたのかもしれない。



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駿河郷土史研究委員会 『消えた村』第2集 第6章182P

『厄災をもたらした”守り神”の考察』より抜粋

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― 新着の感想 ―
[一言] おお、まさかの茉莉しゃんからの時代ものがでてくるとは!! 怖不思議で理不尽な伝承は、どれも魅力的!
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