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01



「婚約を解消してほしい」


 リズ・テトラス侯爵令嬢は、婚約者であるカイン・ランドールの言葉を他人事のように聞いていた。


「アンネが俺の子を妊娠した。俺は父親として、その責を果たしたいと思っている」


 自身の後ろで怯えたような瞳をしている女を安心させるようにちらりと視線をやってから、カインはリズに向き直ってそうはっきりと告げた。


 リズはそこで、初めてその女に目を向けた。カインの後ろで守られるように立っている金髪の女。確か名はアンネ・マリーといったか。ランドール家が治めている領地の荘園に住む領民で、首都であるエルフの(いち)に織物を売りに来ていた時に偶然彼女の売る毛織物が目にとまって声をかけたのだと、カインに以前聞いたことがある。


 もっとも、荘園の差配人をしているのはランドール家の老執事であってカインではないから、それまで面識はなかったようだけれど。


 それ以降、カインがアンネと親しくしていることは知っていた。リズという婚約者がいても、カインにとってこの婚約は、親の決めたものでしかないということも。


 けれどさすがに、子どもが出来るほどに親しい関係だったなんて知らなかった。



「本気で……仰っていますか」


「ああ。本気だ」


 いつでも強い意思を持って前を見据えている深緑の瞳が、迷うことなく頷いたことに目眩がした。


 その言葉の意味を、重みを、彼は分かっているのだろうか。



 もともとこの婚約は、ランドール家からの懇願だった。


 ランドール家からの申し出を渋る両親に、婚約しても良いと進言したのはリズだ。幼い頃から一途に恋心を抱いていたカインを助けたい一心で。


 ランドール家は代々優秀な魔導騎士を輩出し王家から優遇されてきた家系ではあるが、才能が希薄だった先代の頃から王家の信が別の良家に移り始め、当代――つまりカインの父親は焦っている。


 だからこそ。


 代々王家を深く信仰し、王家からの信頼も厚いテトラス家の娘であるリズをカインの婚約者とすることで、王家との昵懇を取り戻す機会を今か今かと狙っていたと聞いている。


 今現在ランドール家が昔のように栄えているのは、そしてカインが魔導騎士として特出した才を持たずとも王に重宝されているのは、テトラス家の長女であるリズの婚約者を、王として無下に扱うことが出来なかったからだ。


 リズの――ひいてはテトラスの後ろ楯がなくなってしまえば、ランドールの名に振り向く者など一人として居なくなるだろう。それほどに、今のランドール家は没落してしまっている。


 それくらい、この人は分かっていると思っていた。


 この国では重婚は罪だ。だから、カインがアンネと親しくしているところを見てもリズは何も言わなかった。

 カインの心がたとえリズに向いていなくとも、カインが魔導騎士としてこの国での地位を確かなものにするために、彼は必ずリズのところへ戻ってきてくれると愚直に信じていたから。


 そこにあるのが利害関係だけでも構わなかったのだ。だって利用されても良いと思える程度には、カインのことが好きだった。カインの助けになれるのならば、自身に利用価値があることすら誇りだった。


 ――それなのに。


「悪いと思っている。だから婚約破棄はリズから願い出てくれ」


 当のカインはいけしゃあしゃあとそんなことを宣った。


 まるでリズの世間体を気にしているかのような口振りだが、その本心はリズを捨ててアンネと一緒になりたいが故ではないのか。さすがに、リズとの婚約を一方的に破棄してアンネと結婚するのでは世間体が悪すぎるとか、そんな浅いことを考えているに違いない。


 いや、もしくは本当に、リズの矜恃を守ったつもりでいるのか。だとしたら、そんな気遣いなどお門違いだ。


 カインの不貞を理由にテトラス家が婚約破棄を申し出たりしたら、ランドール家には破滅の道しか残されていないというのに。


「カイン様は……ご自身のお立場をお考えになっていますか?」


「もちろんだ。身勝手な理由で婚約を破棄されたことへの非難ならば、どんなものでも慎んで受けよう。不貞を働き婚約者に捨てられた者として後ろ指を指されようとも、誇り高き魔導騎士として国のために生きていく覚悟は出来ている」


 どうか目を覚ましてほしい。一時の感情に身を任せて、身を滅ぼすようなことをしないでほしい。僅かな望みをかけてゆっくりと諭すように問えば、カインからは見当違いな答えが返ってきた。あまりに真面目な顔で言うものだから、呆れて何も言えなくなった。

 というか、不貞を働いておきながら誇り高き魔導騎士だなんてちゃんちゃら可笑しいわ。


「……そうですか」


 ――嗚呼。この人は本当に、何も分かっていなかったのだ。


 気持ちを落ち着かせるようにリズが溜め息をこぼすと、瞳に涙をたたえたアンネがカインの後ろから飛び出してきた。


「あの、私が悪いんです! 私が、カイン様を好きな気持ちを抑えられなくてっ」


「いや、アンネは悪くない。君がいるのに彼女を好きになってしまった俺が悪い」


 目の前で繰り広げられる茶番に、また溜め息を吐きたくなる。カインの言葉を聞いたアンネの唇が小さく笑みの形に歪んだのを見て、そしてカインがその笑みに気づかず彼女を背後に庇ったのを見て、リズは完全に冷めた。


 まともな女なら、貴族の婚約者を寝取ったりはしないでしょう。婚約者の前で男に庇われて、勝ち誇ったように笑ったりなんてしないでしょう。そんな女に手玉にとられて、まんまと大切なことを見失ってしまったカインに失望した。


 こんなことになるのなら、あの時、両親に進言などしなければ良かった。好きな人に裏切られて捨てられる痛みなど、知りたくなかった。



「あなたとアンネ様とでは、あまりに身分が違いすぎますわ。結婚するのは容易ではないでしょう。それでもなお突き進む、その覚悟はおありですか?」


 貴族には貴族のしきたりがあり、農民が簡単に馴染めるものではない。それに、重婚の認められないこの国では、王族や貴族の婚姻は政略結婚が主流だ。

 貴族である以上、せめてそれくらいはカインも理解している筈だと、過去のリズは確かに信じていたけれど。


「もちろん心得ている。しかし王から祝言を賜れば、父上とて許してくださるだろう」


 リズの信じていた男は、リズが思っていた以上に無知で愚かだったらしい。


 騎士団などの王家に仕える者が婚姻を結ぶ際には、王から許諾を賜らなければならない。騎士として王に重用されている自身の婚姻ならば王から祝言を賜れる筈だとカインは考えているようだが、テトラスの娘を捨てた男に王が祝言など与えられるはずもない。王からの重用はあくまでテトラスの後ろ楯あってのことなのに、カインは自分の力を過信しすぎている。

 ランドール家当主からして見れば、許すどころか勘当ものだ。


「……そうですか。では、最後にひとつだけ。念のために聞かせて頂きたいのですが、私ではなくアンネ様をお選びになった理由は何でしょう」


 愛される努力はしてきたつもりだった。カインの気持ちがリズに向いていないことを薄らと感じていたから、妻となった時に少しでもカインの役に立てるよう努力を重ねてきたのに。


 気付いた時には、カインは他の女に夢中になっていた。


「君はいつも刺繍やら勉強やら、自分のやりたい稽古事ばかりだっただろう。彼女は荘園の仕事がない時には毎日のように会いに来てくれた。君とは違う」


 馬鹿にするように告げて、そしてカインはアンネの肩を抱いた。仮にもまだ婚約者という立場であるはずの、リズの目の前で。


「健気に尽くしてくれるアンネを、守って生きていきたいと思ったんだ」


「――健気、ですか」


 荘園の仕事はほとんどのところが一日毎の交代制だが、だからと言って休みの日にのんびりしていられるわけではない。荘園の仕事がない時には機織やその商売、農具の手入れなど、やるべきことがたくさんあるのだ。荘園が休みの度に街まで会いに行けるほど、農民の仕事は少なくない。

 家の仕事を放り出してまで会いに来るような女の、いったいどこが健気なのだろう。


 それに刺繍の練習も勉強も、全部カインのためだった。確かに刺繍は好きだったし勉強も楽しかったけれど、それは決して“趣味”なんて軽い言葉で表されるような、自分の満足のためだけにやっていたわけじゃない。


 カインが外で、立派な妻が居るのだと胸を張れるように。夫の持ち物に美しく家名を刺繍できるよう腕を磨いたし、大陸でも通用する教養だって身につけた。


 もし、もしもその努力を少しでもカインが認めてくれていたならば、せめてカインがこの先路頭に迷うことがないよう、父上やランドール家当主に根回しをするつもりだったけれど。


 ここまで尽くして捨てられるのなら、もう良い。



「……分かりました。お父様には私から、婚約破棄をお願いしておきましょう」



 ――私は確かに未来を見ていた。あなたの隣に立ち、あなたと寄り添って生きていける未来を。


 けれど、あなたの見ている世界に、ずっと私がいなかったのならば。


 あなたの隣に立つために重ねてきた努力に、気づいてさえくれていなかったのならば。


 そんな恋なら、あなたなら、要らない。


「……お幸せに」


 出口など見えぬ奈落の底で、せいぜい幸せに生きれば良い。




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