英雄小話10 : 欠月ーTHE CRESCENT MOONー(前編)
いつの間にか、雨が降り出していた。
最初は、立体駐車場のコンクリート外壁を叩く、小さな音だった。
曇天はとうに頭上を塞いでいたが、ついにその腹を裂くようにして、冷たい雫がまとめて落ちてくる。吹き込んだ雨は上階の隙間から斜めに差し込み、砕けたコンクリの床を黒く濡らしていった。
その真下で、MSDマンは群れに呑まれていた。
「っ、うおッ、邪魔だクソッ!」
振るわれた包丁を、手首ごとひっつかんで止める。
そのまま捻れば簡単に折れる。そんな脆い感触が手のひらに伝わってくる。だから、折らない。奪うだけに留める。だが一本弾いた隙に、すぐ横から別の小さな身体が飛びついてくる。
「うわ、っと……!」
肩にしがみつかれ、背中に体重が乗る。
さらに脚へ抱きつかれ、腹へ頭突きを喰らい、横合いから錆びた鉄パイプが振り下ろされた。
――ちくしょう、オッサンの制圧術。真面目に覚えときゃ良かったぜ。
鈍い音。
まともに受けた額から血が流れる。
それでも、赤い炎はまだ首元に戻さない。
「やめろっつってんだろ、テメェら!」
怒鳴りながら、MSDマンは振り払うのではなく、抱きついてきた子どもの背を掴んで持ち上げる。そのまま壊れた車のボンネットの上へ、雑に、だが怪我をしない程度に放った。
「落ち着きやがれ、ガキども!」
別の子どもが泣き声混じりに飛びかかってくる。
包丁の切っ先が、革ジャンの脇を裂いた。浅い。だが、その程度でも今のMSDマンにはやけに鋭く感じる。
身体が重かった。
四幹部との戦闘。再生。強化。再生。強化。
英雄因子を使い続けた反動が、今になって脳髄の奥へ鈍い熱として残っている。視界の端がちらつく。呼吸が少し遅れる。頭に血が昇りやすい。普段なら踏めるはずのブレーキが、一枚薄い。
その状態で、子どもを殴れない。
笑ってしまう。
何をしてるんだ、俺は――と。
殴れば良いだろう。
いくら管理下の人間を守ってるとはいえ、もう充分手は尽くしたと言い訳できる時間だ。
それに、俺が死んでどうする。
誰がこの街を護るんだ。
だってのに。
心が、安い殺しを嫌がる。
子どもだからか。
そんなもん――
弱いものから利用されて、死んでいく。それがこの世界のルールだ。
それでも。
「くそっ!」
歯噛みしながら、MSDマンは押し寄せる小さな群れを押し返す。
子どもたちは泣いていない。
もう泣き止んでいた。グラザスの英雄因子に酔ったような、妙に硬い顔で、歯を食いしばり、震える手で、それでも武器だけは離さない。大人たちの姿はもうほとんどない。残っているのは子どもばかりだった。
そこがいっそう悪い。
大人なら、まだ殴れる。
ヴィランなら、なおさらだ。
だがこいつらは違う。街のガキだ。顔見知りもいる。路地でくだらねぇこと喚いてた連中だ。馬鹿みたいに笑って、腹減っただの腹壊しただの、どうでもいいことを喋ってた餓鬼どもだ。
それが今、包丁を握って飛びかかってくる。
「チッ……!」
腕に一本、浅く走る。
太腿にも一本。
数だけはやたら多い。威力はなくとも、躊躇いなく刃が飛んでくるのが厄介だった。
MSDマンは一人の子どもの襟首を掴み、別の子どもへぶつけるようにしてまとめて転がす。すぐにまた三人、四人と押し寄せてきた。
「おいおいおい、勘弁しろよ……!」
笑うような声音だったが、余裕の笑いではない。
自分で自分を煽るための、喧嘩屋の空元気だ。
子どもの一人が、錆びた果物ナイフを両手で握って突っ込んでくる。
MSDマンはその手首を片手で制し、もう片方の手で額を小突いた。ごつん、と骨に響く程度の加減。それでも子どもは尻もちをつき、目を白黒させた。
「だから大人しくしてろっつってんだろ。クソガキ」
吐き捨てるように言う。
だが、次の瞬間には別の子どもが背後から膝裏へ体当たりしてきて、ついに体勢が崩れた。
MSDマンの巨体が片膝をつく。
その途端だった。
一斉に、小さな影が群がった。
肩、背中、腕、脚。
包丁も、棒切れも、レンチも、どこから拾ってきたのか分からないガラクタの武器も、手当たり次第に叩きつけられる。
痛みより先に、嫌悪が来る。
こんなもの、本気を出せば一瞬だ。
一度だけ強く踏み込めば、床ごと全員まとめて吹き飛ばせる。
だが、それをやった瞬間、何人死ぬ?
「……っ、だァーッ、鬱陶しい!!」
叫びながら、MSDマンは背中に群がる子どもをまとめて振り落とした。
床へ転がった小さな身体が悲鳴を上げる。だが骨は折っていない。折っていないはずだ。そう自分に言い聞かせる。
再び立ち上がる。
だがその足元で、血が雨水に薄く滲んだ。
自分の血だ。
革ジャンは裂け、ヘルメットの内側にもぬるい液体が溜まり始めている。
被害自体は大したことではない。因子を焚けば、こんな傷はすぐ塞がる。問題はそこじゃない。
頭が熱い。
思考の芯が、じわじわと赤く膨張していく。
殴れ。
踏み潰せ。
簡単だろうが。
そんな声が、自分の中のどこかで笑っていた。
「……うるせぇな」
誰にともなく吐き捨てる。
子どもたちは、それを自分へ向けられた威嚇だと受け取ったのか、一瞬だけ足を止めた。だがすぐにまた、誰かの背を押すように前へ出る。
その時だった。
空が裂けた。
閃光。
遅れて、立体駐車場そのものが震えるほどの雷鳴が轟く。
子どもたちが揃って肩を跳ねさせた。
MSDマンも思わず顔を上げる。外の空は、さっきまでの薄暗さを通り越し、昼とは思えないほど昏い鉛色になっていた。雨脚が一気に強まる。まるで、空の向こうで巨大な何かがこちらへ歩いてきているみたいに。
冷たいものが、背筋を走った。
これまでのどんな敵とも違う、理屈の通らない悪寒。
そして、それは次の瞬間に“形”を持った。
駐車場の入口側。
吹き込む雨の向こうで、コンクリートの柱が――削れた。
爆ぜたわけではない。
砕けたわけでもない。
ただ、そこだけが月に喰われたみたいに、ごっそり欠けた。
子どもたちの誰かが息を呑む。
その欠けた柱の向こう側、豪雨を背景に、ひとつの影が立っていた。
金の長髪をたなびかせ、怨念とも呪詛ともつかない気配を撒き散らしながら、それは静かに立っていた。
二足で立ち上がったばかりの野獣のような、不自然な前傾姿勢。口から漏れる吐息は荒く、意味のない唸り声となって湿った空気へ散っていく。スラムの誰よりもぼろぼろの布切れから覗く肉体は、野生の獣みたいに張り詰め、隆起していた。
そして、目。
瞳は見えない。
ただ赤く、紅く光りながら、涙だけを流し続けている。
そして、それとはまるで対照的に、口は初めからその形へ固定されてしまったように、鋭い三日月型へ歪んでいた。
それは獣のような人間のようで、
笑いながら泣くその様は、人の情緒を真似している野獣みたいだった。
ソレの輪郭ははっきりしているのに、ひどく遠い。
そこにいるのに、初めからいなかったものが急に世界へ書き足されたような違和感だけが先に来る。
子どもの一人が、喉の奥で引きつった声を漏らした。
「……ぁ」
もう一人が武器を取り落とす。
甲高い金属音が、やけに大きく響いた。
MSDマンは知っていたわけではない。
だが、本能が理解した。
あれは、駄目だ。
戦うとか、逃げるとか、そういう段階の手前で、存在してはいけないものが立っている。
世界に否定されるべきモノだ。
聞いたことはあった。
最近、頻発する正体不明、追跡不能の、生きながら人間を解体する殺人鬼。英雄機関の所属ヒーローも何人もやられているという。
その名は――『殺人鬼 スマイル』
ちっ、と舌を打つ。
――オカルトは俺の領分じゃねぇよ。
MSDマンはそう思って、いつものように不敵に笑った。
スマイルは何も喋らない。
ただその身体のまわりで、仄かに金色の何かが揺らいだ気がした。
英雄因子の起動光とは明らかに違う。
だが、理屈抜きで分かる。あれは世界の法則そのものへ爪を立てる類の力だ。
スマイルが足を踏み出す。
次の瞬間、濡れたコンクリートが爆ぜた。
獣のような荒々しさで放たれた一撃を、MSDマンは横へ転がるようにしてギリギリで躱す。直後、振り下ろし。蹴り上げ。噛みつき。どれも格闘技みたいな合理的な術ではない。ただ目の前の敵を動かなくするためだけの、破壊衝動と殺意の発露だった。
一撃ごとに、どす黒い殺意が飛来する。
全てをすんでのところで避けたのは、MSDマンが英雄因子を未だ起動していなかったから。そして、その殺意に“何か危険なもの”を感じたからだ。言ってみれば、ただの勘だった。
だが、一瞬のその後に。
飛来する殺意の軌道に目を見張る。
その手が。脚が。
スマイルの放つ暴力は、硬い鉄筋コンクリートを音もなく削り取っていた。
チーズの目のような空洞は、怪物の拳足が通過した通り道であると同時に、存在を否定された世界の轍。
MSDマンは支部長としての経験故に、それの意味を瞬時に、そして正しく理解した。
ーーーそれは、“激突する消滅の理”。
終わりと呼ばれた怪物が引き連れた、存在証明。
彼のものの挙手投足は、凡てを否定するのだと。
大きく跳び、怪物から距離を取る。
そのままMSDマンは子どもたちを見やった。
子どもたちはもう誰も襲ってこなかった。
呆けたように立ち尽くし、眼の前の異形を見ている。その目には、さっきまでの熱がない。酩酊みたいな、あの妙な危うさは砕けていた。あるのは剥き出しの恐怖だけだ。
「う、ぁああ!!!」
誰かが泣き出した。
今度は舞台の囃子に無理矢理揃えられたような泣き方じゃない。本物の子どもの、喉が裂けそうな震えだった。
MSDマンは声を張り上げる。
「さっさと逃げろ!!」
怒鳴り声が、雷鳴を裂いた。
子どもたちがびくりと身体を震わせる。
MSDマンは振り向きもしないまま、さらに吠えた。
「さっさと行け! ここから逃げるだけじゃねぇ。大人も連れて第一支部に逃げろ!!」
ようやく何人かが後退る。
ひとりが走り、つられて二人、三人と雪崩れるように駐車場の奥へ逃げ始めた。転び、泣き、誰かの名を呼びながら、それでも必死にその場から離れていく。
スマイルは追わない。
ただ、ゆっくりと首を傾げた。
笑っているようで、泣いているような顔のまま。
MSDマンは子どもたちの背が消えるのを横目で確かめると、深く息を吐いた。
そして、自分の首元へ手をやる。
「ったく……今日はほんと、運が悪ぃな」
ぼそりと呟く。
「英雄因子――心のマフラー」
次の瞬間、青い起動光が肩口で弾けた。
それはMSDマンが諦めない限り、爛々と燃え続けるヒーローの証。
首元から、炎のようなマフラーが再び噴き上がった。雨に打たれてなお消えない、もはや彼の魂であり、彼の在り方ともなった一片の機械片。
ヒーローは笑う。いつものように。
裂けた革ジャンの上で、濡れた血を照らし、ヘルメットの赤と混ざり合って燃えるそれは、風にたなびくマフラーのようにも見えた。
チリチリと頭が痛む。
身体は諦めろと叫んでいる。
でも、まだ。
まだ心は折れていない。
MSDマンはゆっくりと首を鳴らした。
口元が吊り上がる。あの、いつもの憎たらしい笑い。喧嘩の前になると勝手に浮く、ヤンキーじみた笑顔だった。
「行くぜ、殺人鬼。殺れるもんなら殺ってみな。誰に喧嘩売ったか、今からきちんと教えてやるからよ!」
豪雨の中、雷光が二つの影を白く照らす。
立体駐車場の崩れかけたフロアで、最悪の災害と、第一支部長が向き合った。




