英雄小話10 : 欠月ーTHE CRESCENT MOONー(序)
夜が明けきらない早朝だった。
空は薄墨を溶かしたような色をして、東の端だけがわずかに白み始めている。路地裏にはまだ昨夜の湿気が残っていた。雨は止んでいたが、ひび割れたアスファルトの隙間には黒い水が溜まり、古びた室外機の下からは細い雫がぽつ、ぽつと落ち続けている。
そんな薄明かりの路地に、二人の男が立っていた。
一人は、くたびれた上着のポケットに手を突っ込み、煙草を咥えたまま気怠そうに立つ男。白髪混じりのオールバックは少し崩れ、徹夜明けの顔に似合うだらしなさを見せていた。
もう一人は四十前後。俳優じみた掘りの深い顔立ちを眠たげに歪め、壁にもたれて煙草を吸っている。
どちらも、場違いなほど落ち着いていた。
彼らの前では、自警団の人間が数人、慌ただしく動いている。個人的な飲みの帰りにこの路地へ差しかかった二人は、すでに初動で捜査に入っていた自警団を見かけ、そのまま現場の確認に付きあっていたのだ。
現場は凄惨を極めていた。
路地には血が飛び散っていた。
ただし、それだけではない。
もはや、誰のものかも分からないほど分断された人間の身体のパーツ。少なくとも5人以上。ペンキをぶちまけたような大量の血と、ごろごろと転がる手足の数がそれを物語っていた。
そして壁にも、路面にも、不自然な穴がいくつも空いている。抉った、というよりは、何か大きな口で柔らかなチーズでも齧ったかのような、無造作な世界の欠損。コンクリートも鉄も関係なく、ただそこだけがごっそり失われていた。
そして、その異様な欠け方は、路地に横たわる無数の遺体にも及んでいた。
「ひどいの。まるでスプラッター映画じゃな」
煙草を咥えたまま、シジミはしゃがみ込んだ。
唯一、人の形をギリギリで留めていた遺体を覗き込む。しかし、男の身体は、肩、脇腹、太腿、頬――あちこちが欠けていた。へし折られたわけでも、刃物で切り取られたわけでもない。肉も骨も、まるで壁や地面と同じように削り取られている。痕跡は生々しいが、削り取られたその断面は、“初めからそこに何もなかった”かのように綺麗に消え去っていた。
「で、ガイシャはどこの誰だ?」
シジミが訊くと、後ろに立っていた自警団の男がすぐに答えた。
「その男は、サブロウタ・エガワ。四十歳。この辺りの高層マンションに住んでる成金でしてね。かなり強引なやり方で事業を進めてたもんで、町の評判は最悪でしたよ」
シジミの背後から、ポケットに手を入れたままマイアヒーも遺体を眺める。
「じゃあ、怨恨が原因か?周りの死体はそいつの手下か?」
「いやぁ、分かりませんがね。何せここまでバラバラにされてちゃ。しかし……そいつは金持ちだったもんで、英雄機関所属のヒーローを何人か雇えてたんですよ。」
マイアヒーは、それを聞いて訝しむように顔を歪めた。
「プロヒーローがか?そいつぁ・・・」
手袋をしながら、バラバラになった肉片を見ていたシジミは静かに血に濡れたマシンチップを指先でつまみ上げる。
「良い勘じゃ」
真っ赤に染まった機械片。
ヒーローだけが身体に埋め込むチップ、英雄因子だった。血溜まりから拾い上げた数センチ四方の機械片を証拠品カートリッジに入れ込むと、マイアヒーに投げ渡す。
「っと。これ・・・英雄因子じゃねぇか!投げるんじゃないよ、親父殿」
マイアヒーの軽い調子の抗議に振り返りもせず、辺りを丁寧に探りながらシジミは答える。
「帰ってアタラシ博士に解析を頼むか。それから、全支部にヒーローの出動記録を照会じゃ」
「ここは第一支部の管轄エリアでしょ?第一支部のヒーローじゃないですか?」
「あそこは、今、人材不足じゃからの。所属ヒーローは支部長含めてたったの2人じゃ。日常警邏とエリア内のヴィラン掃討で手一杯じゃろうて」
右手で口元を覆うようにして煙草を吸うマイアヒー。沈黙が続く。
「はぁ。それとですねぇ。近くの住民から話を聞いてます。夜中に、子どもの泣き声を聞いたって」
自警団の男が付け足したその一言に、シジミとマイアヒーの動きがピタリと止まった。
「……子ども、ね」
「はい。で、そのあと、何か大きな音がしたと。見に来た時にはもうこの有様でした。正直、何がどうなったのかさっぱりで……」
男は壁の欠けを見やり、小さく身震いした。
「それと、事件が起きたのは間違いなく夜です。見回りの時間と、近隣の証言が一致してます」
シジミは短く頷いた。
「そうか」
マイアヒーは壁に背をつけたまま、視線だけ自警団の男に動かして聞く。
「強引な事業って言ってたよね。コイツは何してたの?」
自警団の男はさらりと答える。
「あぁ。チャイルドブローカーでさぁ」
朝の気配はまだ弱い。遠くでカラスが一羽鳴いた。
「なるほどな」
シジミはそれだけ言って立ち上がった。
ー*ー
ほどなくして、自警団の人間たちは遺体を運び出し、現場の最低限の確認を終えると引き上げていった。残されたのは、血と、削れた壁と、湿った早朝の空気だけだった。
路地に残ったのはシジミとマイアヒー、二人きりである。
やがて、マイアヒーが煙草に火をつけた。紫煙が冷えた空気の中に細く伸びる。
「やれやれ。酔いが醒めましたね、親父殿」
「そうじゃな。お前と飲むと、ろくな事が起こらん」
「あ、ひでぇな。親父殿が悪い酒の飲み方しかできないからでしょ。俺のせいにすんなよ」
指に挟んだ煙草をシジミへ向けて、マイアヒーがわざとらしく抗議する。
シジミは肩をすくめるだけだった。
そのまま、彼は削れた壁に目をやる。
「やれやれ。“奴”じゃな」
空気が、すっと冷えた。
マイアヒーも、さっきまでの軽さを引っ込める。
「あぁ。殺人鬼スマイルですね」
その名を口にした途端、この路地の異様さが一つの輪郭を持ったように見えた。
マイアヒーは欠けた壁に近づき、指先でその断面をなぞる。ざらついたコンクリートの感触。だが壊されたというより、そこだけが世界から食い千切られたような違和感が、皮膚越しにじわりと伝わってきた。
「泣き笑いながら人を殺す殺人鬼」
「ヒーローもヴィランも関係なし、ですもんね」
「関係あるもんか。名うての連中が何人も喰われとる。奴の出現条件は、陽の差さない夜か、雨の日であること。そして」
「子どもの泣き叫ぶ声が響くときーーー」
シジミは空を見た。ずっと大昔の明るい青空を見る目で、
薄ら青黒く伸ばされた明け方の空を見つめている。
「奴は、子どもが泣く暗い日に現れる。何処からともなく現れて、事が終われば霞のように消える。まるでーーー」
マイアヒーは煙草を咥え直し、小さく鼻を鳴らした。
「あぁ。まるで災害だ」
シジミが言おうとした事とは全く反対の形容を、マイアヒーは分かっていて、そう引き継いだ。戯けるマイアヒーにシジミは目線を送ってフッと笑った。
マイアヒーもまた、小さく笑った。乾いた、まるで面白くもない冗談に付き合う時みたいな笑い方だった。
「嫌ですねぇ。俺ぁ、殴れば黙る相手の方が好きだ」
「そんな奴は脅威にはならんじゃろう。人に御しきれんからこその“災害”だ」
「そりゃそうだ」
マイアヒーは煙草を指先で弾き、血に濡れた地面へ落とした。赤い火種がじゅっと湿気に消える。
「厄介ですね。ヒーローもヴィランも、結局みんな同じ顔して死ぬ」
「終わりとはそういうもんじゃ」
「今日は、えらい感傷的な親父殿だ。やっぱ安酒が身体にこたえたんでしょ」
「馬鹿を言うな。安酒で満たされるくらいがちょうどいい」
マイアヒーは肩をすくめた。
「違いねぇ」
二人はしばらく黙ったまま、路地の外を見た。
街はまだ起ききっていない。薄暗い空の下、遠くの建物の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
やがてマイアヒーが、ふと空を見上げた。
雲の切れ間に、白く痩せた月が残っていた。
満ちる途中なのか、欠けていく途中なのかも分からない、曖昧な輪郭の月。夜の名残みたいに空へ貼り付いている。
「……三日月か」
シジミも空を見る。
「あぁ」
「月も、壁も、人間も、何もかも欠けたーーー」
マイアヒーは低く呟いた。
「嫌な朝だ」
シジミは答えなかった。
ただ煙草の先の赤を小さく灯し、薄明の空に細く煙を流した。
その煙は、朝靄の下で、すぐにほどけて消えた。




