英雄小話09 : 心のマフラー(後編)
「……診察♡ 診察♡」
トテトテ、と軽い足音。
殺人医師が高台から降りてくる。
血に濡れた白衣を揺らしながら、まるで遊びに行く子どもみたいに、MSDマンの傍へ向かう。
「ヘルメットの中、どうなってるかなぁ? ねぇ、見せて。診察♡診察♡」
猫彦が、即座に声を投げた。
「不用意に近寄るな」
「えー? 近寄らなきゃ診察できませんよー」
殺人医師は笑って、しゃがみ込む。
指先がヘルメットに触れようとした、その瞬間——
首元で、赤い光が燃え上がった。
炎のような、マフラーの形をした赤光。
青い起動光を喰い破るように、輪郭を持って揺れる。
「っ——!」
殺人医師が息を呑む暇もなく、MSDマンが起き上がる。
立ち上がるというより、引きずり上げる。
燃える首元の赤が、身体を“折らせない”まま持ち上げている。
MSDマンは殺人医師の襟元を掴んだ。
そのまま、ひょい、と持ち上げる。
「ひぁっ⭐︎!」
殺人医師が笑う。悲鳴じゃない。歓声だ。
「おへそ見えちゃう」
本当に上着の裾を押さえて、くすくす笑った。
——その時。
上から、透明な塊が落ちてくる。
薬品が入ったビーカー。
空気を切る音が遅れて聞こえた瞬間には、もう手首の上で砕けていた。
濃硫酸。
湯気のような白い煙が立ち、肉が焼ける匂いが広がる。
襟元を掴んでいたMSDマンの手首が、音もなく溶け始めた。
「——ッ、……!」
痛みが走る。
だが、叫ぶより先に手がほどける。
殺人医師が尻もちをついて解放され、転がるように後ろへ下がった。
逃げる、というより——名残惜しそうに距離を取る。
「んふふ……♡ もう。乱暴なの、だめぇ」
殺人医師は頬を赤くして頬を押さえて悶えている。
MSDマンは、歯を食いしばった。
バイザーに手をかける。ガコン、と硬い音。
開けた隙間から、ヘルメットの中に溜まった血液を一気に吐き出すように流した。
赤が、床の白線を汚す。
点々と落ちて、滴が伸びる。
「ってぇなぁ……畜生」
吐き捨てるように言って、当たり前みたいにバイザーを閉める。
ガチャリ。
何事もなかったように。
猫彦が小さく頷いた。
「成程。支部長クラスは伊達ではないか」
「あーん?」
MSDマンが首を鳴らす。
赤いマフラーの炎は、まだ燃えている。
「当たり前だろ。俺の英雄因子《心のマフラー》はなぁ、そんじょそこらの再生能力とは訳が違うぞ」
親指で、自分の首元を指す。
「赤いマフラーはヒーローの証だ。“諦めなければ”無限に再生して、無限に強化される」
そこで、ウェイテルが口を挟んだ。
杖をカン、と鳴らす。
苛立ちというより、取るに足らない存在への辟易が音になった。
「馬鹿馬鹿しい。無限なはずがなかろう」
笑いもせずに言い捨てる。
「“諦めなければ”だと? そんな数式化できぬ条件に、どれ程の意味がある」
「英雄因子はランクが高ければ高いほど、発動と維持に莫大な脳の演算能力を用いる」
淡々と続ける。
「貴様の英雄因子、情報ではBプラスらしいの。貴様の心とやらがどうであろうと、能力を使えば使うほど貴様の処理能力には翳りができる」
殺人医師が、嬉しそうに手を叩いた。
「アハ! そうですょお」
笑い声に、ザザ……とノイズが混じる。
「無理してます、ダメです(乂’ω’)! 患者さん」
首を傾げ、うっとりした目で見つめる。
「だって身体は治ってもぉ、“痛み”までは取れないんですから♡」
猫彦が、静かに言った。
「やる事は何も変わらん」
ナイフを握り直す。拳銃の位置を確認する。
「お前が死ぬまで。擦り切れるまで。削り続けてやる」
ウェイテルは杖を突いたまま、手印の指をゆっくり組み替える。
殺人医師はビーカーをもうひとつ、指先でくるりと遊ばせる。
猫彦の目は、最短の殺し筋だけを見ている。
三人が、再び構えを取った。
MSDマンは、それでも笑った。
赤い炎が、首元で跳ねる。
「そういうのは、できねぇから意味ないって言ってんだァ!」
爆発するマフラーの炎が、第二ラウンドのゴングを鳴らした。
殺人医師が、笑う。
仰け反らせた身体が弓のようにたわみ、
息の摩擦が、不快なラジオノイズを混ぜて、立体駐車場の吹き抜けに反響した。
青い光が、彼女を包む。
狂笑が止むと、今度は力無く身体をたわませて前方に半身を倒して静止した。
ぐるんと、首だけがMSDマンを見据える。
目が爛々と光る。
その視線だけが、肉体の温度から独立しているようだった。
「英雄因子ーーー」
震えながら、唄うように叫ぶように。
「『死の商人』」
彼女の周囲の空間が、波紋を作って波打った。
水面のように現実がたわみ、中心から“せり出してくる”。
メス。注射針。鉗子。骨鋸。
薬品で満たされた試験管、ビーカー、アンプル。
あり得ない種類と量が、あり得ない速度で——「器具棚」のように展開される。
まず整列したのはメスだ。
規則的な間隔。手術台の上の並び。
次の瞬間、それが撃ち出された。
パイルバンカーのように、短く、重く、打ち込む。
刃が空気を裂いた直後、激しい音と共に床が抉れる。
コンクリが弾け、粉が飛び、破片が飛び散る。
それと連動するように、猫彦が身を屈めて走った。
意識を分断する、連動した殺意。
上からは刃の雨ではない“射撃”。
横からはナイフと銃で選択肢を潰す冷徹。
下からは地形と足場が崩れる兆し。
MSDマンは思考をまとめられないまま、2つの致命的な動きに対処する。
そしてウェイテルが、再度手印を切った。
硬いはずの床が——
泥土のぬかるみのような不確かさで、MSDマンの足を掴む。
「……ッ」
踏んだはずの固さが逃げる。
重心がずれたその瞬間、左右の軽量鉄骨が隆起した。
鋭い槍。
左右から挟み撃ちにして、MSDマンを貫いてMSDマンの動きを止めた。
止まった瞬間、猫彦の銃が鳴った。
乱射——に見えて、違う。
一発一発が致命的な臓器を狙う、精密射撃。
弾丸の衝撃でMSDマンの身体は踊る。
前へ、後ろへ、無理やり揺らされる。
意識が、古いフィルム映像のようにぶつ切りになる。
映像が途切れ、砂嵐になる。
次のコマが映り、また砂嵐。
そのたびに、死にかける。
——いや、正確には死んでいる。
死んで、戻って、死んで、戻る。
それでも——首元の赤が、強く輝いている。
《心のマフラー》。
折れない限り、燃える。
諦めない限り、再生し、強化する。
その能力の最大の恐ろしさが何かーーー。
波状攻撃の中で、身体を“前へ出す”ことだけを選ぶ。
赤い炎が、ひときわ強く跳ねた。
これまで動きすら取れなかったその身体が、波状攻撃をものともせず踏み出し、猫彦へ突っ込む。
爆発のような鉄拳が突き刺さる。
猫彦は辛うじて両腕で防御する。
だが衝撃は受け止めきれない。
「——ッ!」
猫彦の身体が吹き飛ばされ、立体駐車場の支柱に激突する。
コンクリが粉を吐き、鉄骨が震えた。
内臓を叩かれる衝撃で、息が勝手に吐き出され、身体に失神しそうなほどの痛みが走る。
MSDマンの身体から立ち上る光が更に体を強く発光させる。
「……殺しすぎだ、間抜け共。俺の能力の説明、聞いてなかったのかよ!」
そう言いながらMSDマンが、アッパーのように拳を振り上げると、空気が破裂した。
爆発する空気の断層が殺人的な圧力差を生み、周辺空間を引き裂いていく。
それは衝撃波となってウェイテルと殺人医師が同時に吹き飛ばす。
だがMSDマンは、一足でウェイテルに追走する。
真横へ並ぶ。
次の瞬間、鉄槌のような握り拳がウェイテルへ叩きつけられた。
拳は——頭上十二センチほどで、見えない壁に阻まれた。
「……っ」
結界はギリギリで間に合った。
が、MSDマンは止まらない。
止まった拳を、そのまま無理やり叩きつけた。
見えない壁ごと、床へ。
強烈な一撃が、老朽化した鉄筋コンクリートの床を粉砕する。
三階、二階、一階へ。
階層を“床ごと”軽々と砕き抜きながら、ウェイテルの空間結界ごと——吹き飛ばして地下へめり込ませた。
あまりの破壊力に、殺人医師が口を開けたまま見入っている。
その背後へ、MSDマンが回り込む。
超スピードで。
「後ろわぁ!ダメッ!!」
殺人医師の周囲を浮遊していた試験管が割れた。
薬品が飛び散り、MSDマンの身体にかかる。
殺人医師の目が見開かれる。
「毒、猛毒ですよぉ? 触ったら即死できるはずの——」
言葉が途中で止まる。
MSDマンが首を掴んだからだ。
ぐ、と力が入る。
殺人医師の身体が宙に固定される。
「あ……が……が……」
悲鳴のような音が漏れ、足がぱたぱた動いている。
MSDマンは笑った。
邪悪に。
「俺、さっき言ったよなぁ?無限に再生し、無限に強化されるって」
殺人医師の頬が赤い。
視線が蕩ける。
彼女は、あと僅かに力を加えられれば頚椎が折れる状況に——喜んでいる。
猫彦は、柱に刺さったまま、体勢を立て直そうとしては力が抜けた。
ウェイテルは地下へ叩き込まれ、身動きすら取れない。
そして今、宙で足を動かす殺人医師は——
MSDマンの指先ひとつで死ぬ。
まさしく次元違い。
MSDマンが語ったそのままに、支部長クラスの実力をクライシスゲートは思い知る。
だが。
MSDマンは忘れていた。
経験したことのないほど、内側で膨れ上がった力の高揚で。
この戦場の熱の酩酊で。
クライシスゲートの幹部は、もう一人いたことを。




