英雄小話09 : 心のマフラー(前編)
冬の雨は、冷たくて嫌だーーー。
窓の外は夜が今から始まるかのように、暗くて厚い雲。
雨はまだ落ちてこない。
落ちてこないくせに、どんよりとして薄暗く世界を塗りたくって、街を行き交う人の気持ちまで憂鬱に染め上げていく。
雲が低い。灰色が重い。街の音が吸われて、遠い。
MSDマンは支部長デスクの厚い天板に片肘をたてて、フルフェイスヘルメットの頬部分を拳で支えながら、退屈に沈む午後の勤務時間を過ごしていた。
あぁ、パトロールしてぇ。出来れば、絡んできたヴィラン何人かをボコボコにしたい。
そう思ったら即行動、つまらない事務処理を決裁箱にぶち込むと、すくりと席を立つ。
そんな彼を察したのか、秘書官の山梨が穏やかだが厳しい声で牽制する。
「……今日は内務です。もし、外出するとしても巡回は複数人で。単独行動は——」
「はいはい。わかってんよー」
英雄機関第一支部長MSDマン。
通常のプロヒーローならともかく、英雄機関支部長は殊更に現場に出るような人材では本来無い。
もっとも、単純に強さとしての階層が、他のどのヒーローより頭抜けているからこそ支部長という職にあるのだから、一般のプロヒーローではなんともならない案件であれば進んで現場にも出るだろう。
しかし、MSDマンは生来の大雑把な性格から内務が大の苦手であり、さらに現場で何も考えず戦うことが大好きだった。
山梨が真面目な顔で追いかけてくるのを、MSDマンは振り返りもせずに歩いた。むしろ引き離そうとしている。
赤いフルフェイスヘルメット。赤い革ジャン。
ヒーローの制服にしては軽薄で、街のヤンキーと紹介された方がしっくりくる。
「わかってないから言ってるんです。あなたが倒れたら——」
「倒れるわけないだろ、支部長だよ、俺」
おどけてそういうと、MSDマンは玄関の段差を二段飛ばしで降りる。
山梨がやれやれと言わんばかりに首をふってため息をつく。
「……せめて、非常事態のときは連絡をしてくださいよ」
「わあってる、わあってるよ。ほら」
ポケットから雑に端末を出して振ってみせる。
端末は画面が割れていて、何度か触るたびに勝手に明るさが変わる。
「……それ、いつのですか」
「いつのって、いつのだっけ。まぁいいっしょ」
MSDマンは片手を上げて、背中越しにひらひらと振った。
「じゃ、いってきまーす」
振り返らない。
止まらない。
頭を抱える山梨の姿が、フルフェイスヘルメットの後頭部の反射に吸われて消えた。
⸻
第一支部庁舎があるディスクラッドは、多くの商業エリアを擁する発展した都市だ。
大災厄という未曾有の滅びで全てを失った人々は、それまでの文明も文化も急に失って、たちあがるために、色々な意味で支えが必要だった。
結果、かつての文明の残滓をより多く抱え、何より巨大な力を持っていた英雄機関を支柱として、この世界が再生されたのは、当たり前のことだったのだろう。
だが、世界は平等ではない。
数多くの商業エリア、新しい製品を生み出し続ける工業エリア、こうした街を動かす裕福な人々のベッドタウン。そうして多層的に整然と形作られた美しい都市の一歩外側には、未だに10年前の滅びから時が止まったかのように。
虚無と退廃に彩られた世界が存在する。
廃都、リムネスト。
かつて人が行き交い、さまざまな人生を見送ったはずの街の残骸は、綺麗に整えられたディスクラッドの街並みと違い、欠けたタイルすら途切れ、継ぎ接ぎのアスファルトが露出している。
補修の跡すら無く、角が欠けていて、靴底が引っかかりそうになる。
足裏の感触が変わる。
空気の匂いが変わる。
街灯の色が変わる。
ディスクラッドと地続きの道は、同じはずなのに、同じじゃない。
建物の外壁は少しひび割れて、窓枠の塗装は剥がれ、雨樋が歪んでいる。
路地には使い古した自転車、傾いた看板、半分潰れたゴミ箱。
雑多で、整っていない。
でも、確かに人の息遣いがこの街にもある。
MSDマンは、肩の力を抜いた。
「いやー……。やっぱ、こっちの方が落ち着くわ。」
返事はない。
代わりに、子どもの笑い声がした。
「あー!赤いのだ!」
「んあ?」
細い路地から、子どもが二人飛び出してくる。
頬が汚れていて、膝は擦りむけ、靴のサイズが合ってない。
「またサボり?」
「サボりじゃねぇって。巡回だって。巡回」
「嘘だー」
「嘘じゃねぇし。……お前ら、鼻出てるぞ」
「出てない!」
「出てる。ほら」
MSDマンはポケットを探って、丸めたティッシュをひとつ投げる。
子どもは慌ててキャッチし損ね、地面に落ちたティッシュを拾って鼻をかむ。
「……いや、拾ったやつで鼻かむなよ。頭悪いな」
「お前が投げたんだろ、赤!あーか!」
「お前今、こっそり許される範囲内で俺を馬鹿にしようとしてない?泣かすぞ。コラ」
低い声で言い返しながら、MSDマンは笑った。
笑い方は、街のヤンキーが仲間にするみたいな笑い方だ。子ども達もそんなMSDマンを見て笑っている。
路地の向こうから、老人が手を挙げた。
「おい、MSD……また来たのか」
「来た来た。おっさん生きてる?」
「死ぬもんかよ。既にワシはお前より長生きじゃ!」
「俺より先に生まれただけだろ、クソジジイ」
老人が、湿った笑いを漏らす。
その笑いに混ざって、咳が出る。
MSDマンはフルフェイスメットの奥で怪訝そうな顔をしたが、老人にはそれも分からない。
MSDマンは、きっと見られたくなかった顔を直ぐに戻して、悪態をつく。
「俺はしぶといぞ、強いしな。俺より長生きしたけりゃ、俺をぶっ殺しにきな?」
「馬鹿いうんじゃねぇよ。どこの馬鹿がヒーローに喧嘩売るんじゃ」
「そうか。じゃあ、せいぜい必死で長生きしろ、んじゃあな。」
ひらひらと手を振りながらその場を離れようとするMSDマン。
でも老人は、そんな雑さに慣れているみたいに笑った。
「雨、降りそうだぞ」
「降るなら降ればいい。俺、濡れても平気」
子どもが言った。
「ねぇ赤?濡れるとさびる?」
「さびねぇよ。ロボじゃねぇし」
「じゃあなんでヘルメット?」
「カッコいいから」
「わー!言った!自分で言った!」
「うるせぇ。言うわ。言うよ。カッコいいからな」
子どもたちの笑いが、曇天の下で弾んだ。
商業街の明るさとは違う、濁った声の明るさ。
MSDマンは、その笑い声が少しだけ好きだった。
「じゃ。俺ちょっと用事」
MSDマンは彼らに背を向けた。
振り返らない。
足音を隠さない。わざと見せる歩き方で、路地を抜けていく。
後ろに、気配がひとつ。
遠い。薄い。
でも確かに“ついてきている”。
MSDマンは笑った。
「……つけてやがるな」
笑い方は軽い。
なのに声の底が冷たい。
「殺る気満々って感じだな。いい感じじゃん。久しぶりの馬鹿野郎だ」
⸻
棄てられた立体駐車場は、半スラム街区の一画に口を開けていた。
「P」の看板は半分剥がれて、色も薄い。
入口のチェーンは切れたまま、ぶら下がっている。閉める気がないのか、閉められないのか、誰も気にしていない。
中に入ると、コンクリの匂いが濃くなる。
湿っていて鉄臭い。雨の前の匂いが、そのまま閉じ込められている。
床には薄く白線が残り、「B-14」「C-2」みたいな番号がかろうじて読めた。
精算機は腹を割られて空っぽ。三角コーンは潰れたまま。車止めは外れて転がっている。
中央は吹き抜けになっていて、上の階の影が重なって見える。
天井の一部が剥がれて鉄筋が覗き、手すりはところどころ欠けていた。
壊れる前提で作られた舞台みたいだ、とMSDマンは思った。
思って、勝手に笑った。
「……そろそろ良いだろ。」
スロープを歩く。
足音が妙に響く。
響くくせに、音の反射が一定じゃない。場所によって遅れて返ってくる。
誰かがいる。
気配が増える。
さっきの“ひとつ”じゃない。
MSDマンは立ち止まって、首を鳴らした。
「——出てこいよ」
返事はない。
代わりに、上から風が落ちた。
MSDマンは顔を上げる。
最上階。パラペットの縁。
曇天の低い空を背にして、影が四つ並んでいる。
立っているだけで、圧が出る。
空がさらに暗く見える。
一番“現実”に見える影が、手すりの影に溶けるように立っている。
静かすぎて、最初からそこにいたのかと思う。
その隣。前のめりで覗き込む影。妙に楽しそうで、気持ち悪いほど軽い。
笑い声が、風に混じる。
さらに隣。動かない影。杖の宝玉だけが紫に光っている。
空間の解像度が、その周囲だけ微妙に違う。
最後。笑いが遅れてくる影。
声が先に届いて、姿が後から追いつく。舞台の袖から出てくる役者みたいに。
MSDマンは、口元を歪めた。
「……おいおい。マジかよ」
ワクワクと疼く体が、英雄因子の起動によって激しく脈動するように感じる。身体に埋め込まれた因子が近くで発動する因子の起動現象にあてられて、意思とは無関係に共鳴する。
「全員英雄因子持ちかよ。かぁー!本部の因子管理は毎度毎度どうなってんだ」
言葉とは裏腹にMSDマンは頭上を取る四つの影を心底楽しそうに睨め付ける。
全員強いーーー。
分かっているからこそ、笑った。
ポケットの中のボロボロの通信端末がかちゃりと音を立てる。
(……せめて、非常事態のときは連絡をしてくださいよ)
ーーー馬鹿を言うんじゃねえよ、こんな楽しいこと、邪魔されてたまるかよ。
風が吹いて、立体駐車場の埃が舞う。
雨の匂いが濃くなる。
「かまーん!」
人差し指を立ててクイクイと動かして相手を挑発する。
「まとめてかかって来な!一人残らず泣かしてやんよ!」
曇天の下、四つの影が、ゆらりと動いた。




