英雄小話09 : 心のマフラー(オープニング)
はじまりは、潜伏先の集合住宅で見かけた間抜けな広告だった。
『あなたの欲望叶えます。貴方の恨み晴らします。犯罪代行 クライシスゲート』
A4の色付きコピー用紙に、そうデカデカと臆面の無い宣伝文句。一瞬で信用とやる気を削がれる、素材共有サイトの間の抜けたイラストが紙面で踊る。
俺はかつて、多くの部下を持つ犯罪組織を束ねていた。粗悪で低ランクであったが、部下には英雄因子を持たせていた。英雄機関など恐るるにあたわないと信じていた。
しかし、結果は惨敗。
たった2人のヒーローによって、組織は壊滅したのだ。支部長であるMSDマンとは、直接戦った。奴の英雄因子は理不尽の権化だ。何度やっても、いや、生まれ変わったとしても勝てる気がしない。
自身が強者だと信じていた俺は、奴の強さに泣き喚きながら、命からがら、逃走することしかできなかった。
痛みが頭の中で鳴り響く。
この痛みを取り去らなくては、俺はこれから生きいけないのだ。
そうして、俺は電話機を取った。
ー*ー
くすんだ黒と鈍い金が、部屋の輪郭を締めていた。
大理石に似せた壁は模様が少なく、冷たく整っている。
床は深いチャコールグレーのカーペットで足音を吸い、天井から落ちるダウンライトは明るすぎない。——明るすぎないのに、影だけがしっかり残る。
窓はない。
正確には、片側の壁がスモークガラスになっているだけで、外の景色は一切見えなかった。
見えないのに、見られている感じだけが残る。天井の黒い点が、監視カメラにも、ただの意匠にも見える。
中央にガラス天板のローテーブル。
その向こうに黒革のソファ。沈む硬さのやつだ。座ると勝手に姿勢が崩れる。
反対側には、ひとり掛けの重い椅子が置かれている。オフィスチェアではない。仕事道具というより、座るだけで「ここが上座だ」と言い張る家具。
刺青の男は、ソファに腰を落としていた。
胸元から覗く刺青は、見せつけるためのものだ。
腕の太さも、首の太さも、普通じゃない。喧嘩慣れしている体格。
それでも——背筋は無意識に固くなり、指先はテーブルの縁を何度も撫でている。
正面にいる男を前にすると、呼吸の仕方まで意識しなければならなかった。
社長・ミスト。
白いスーツ。寸分の乱れもない。
揺るがぬ体躯。整った姿勢。
そして顔には、鬼面——人間の表情という概念を、最初から捨てたような面が付いている。
なのに、そこから聞こえてくる声は、しわがれていた。
高齢の男の、乾いた喉の声。
姿と声が噛み合わない。その不一致が、対面に座する刺青の男の胃を冷やした。
「……で」
ミストが、短く言った。
机の上には契約書類が整然と置かれている。
万年筆、名刺入れ、ガラスボトルの水。
どれも完璧に“企業の応接”なのに、どれも人間の温度がない。
刺青の男は、笑った。笑えたつもりだった。
「依頼だ。暗殺を頼みたい」
声が少しだけ上ずる。
それを隠すように、彼は言葉を強くした。
「英雄機関のヒーローだ。……しかも支部長。第一支部長、MSDマン」
ミストは頷きもしない。
面の奥で、何かが動いた気配すらない。
「ほう」
それだけだ。
刺青の男は、懐から厚い封筒を取り出し、テーブルに置いた。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた気がした。
「金は積む。かなりの額だ。こっちも命懸けなんでな」
ここは“客”だ。依頼をする側だ。
そう自分に言い聞かせるように、男は肩をいからせた。
ミストは封筒を見ない。
水のボトルにすら手を伸ばさない。
「構わんよ。むしろ手頃な標的だ……こちらも名前を売る良い機会だからな」
しわがれた声が、淡々と続く。
「斃すには丁度良い相手だ。……受けよう」
刺青の男の喉が鳴った。
(……即答?)
支部長クラスだぞ。
英雄機関の“支部長クラス”は、数字じゃ測れない怪物が揃っている。それは俺が1番わかっている。
相手が誰であれ、受けると言うのは——
刺青の男は、強がるために鼻で笑った。
「……軽いな。冗談か?それとも、英雄機関に俺を売るつもりじゃないだろうな?」
そして、問いを投げる。
震えが止まらないが、虚勢を張るしか無かった。
「あんた、知らないわけじゃないだろうな?」
男は身を乗り出した。ソファが沈んで、余計に前のめりになる。
「MSDマンは……いや、支部長クラスがどれほど強いか」
「だ、そうだ。お前たち、どう思う?」
代わりに——部屋の空気が、ほんの一歩だけ暗くなった。
スモークガラスの向こうではない。
部屋の中だ。
闇が、そこにあった。
ゆらり、と影が増える。
白衣の裾が揺れた。
薬瓶のカチリ、と小さな音。消毒液の匂い。
頬が紅潮した女が、両手で頬を押さえながら興奮気味に笑っている。
医者か?嫌、根本的にズレている。
それは、人間としてと言うだけではない。存在そのものが、この世界から排斥されたような。そんな恐ろしさ。
ボサボサのショートヘア。目の下には厚い隈。血で濡れた白衣。そうした要素が、元々の整った顔をぐちゃぐちゃに掻き回して混沌を成していた。
「アハッ! MSDマン!!!」
声が弾む。子どもみたいに。
「どんな人かな!? 早く、診察させてぇ!!」
ミストは振り返らず続ける。
「紹介しよう。彼女は殺人医師。」
さらに、照明が一拍ズレた。
光が揺れ、空間の解像度がわずかに変わる。
本当は最初からそこにいたのかもしれない。
老齢の男が、杖をつき、顎を撫でた。紫の宝玉が鈍く光る。カツカツと音を立てながら自信満々とでも言うように笑っている。
「実証実験無くては研究は完成せぬ」
「せっかくだ。我が力、存分に試させてもらおう」
ミストはそれに短く答える。
「存分に示せよ、ウェイテル」
湿った空気が混ざった。
笑い声が、どこからともなく転がってくる。
姿が見えた時には、もうそこにいる。舞台の袖から現れた役者みたいに。場違いなターバン。黒くくすんだローブ。そして、張り付いた下卑た笑い。絶対に信用してはならない、見た瞬間にそれを確信する軽薄さと禍々しさ。
「私もただ飯を食うのは申し訳ないからね」
ニヤリと邪悪に笑い、楽しそうに言う。
「演りたい演目があるんだ。そろそろ舞台に立たせてもらうよ」
ミストは短く笑って続ける。
「存分に遊び掻き回すが良い。グラザス」
最後に、初めからミストの横に立っていた秘書のような男・猫彦が、三人の様子に辟易したように短いため息をついて続ける。
「安心して下さい。我らは今は無名の組織だが、既に何人かは支部長クラスと闘った経験もある。」
「やられた奴もおるがな」
煽るようにグラザスに視線を流すウェイテルに、グラザスは楽しそうに笑いながら肯定する。
「クハハハ!葛藤のない人間など壊れた人形よ。改めて壊す気も起きんだけだ」
「フン、それが負け惜しみでないことを祈るぞ」
猫彦は小競り合いを広げる2人を睨みつけると、関係ないかのように続ける。
「ともかく。支部長クラスだろうが関係ない。むしろ、ある程度はやってもらわねば、我々クライシスゲートの恐ろしさは知らしめられないということです。」
刺青の男は、背中に汗を感じた。
支部長クラスを見てもなお、大したことではないと言いたげに話す目の前の男達に。
そして、異様な圧迫感に。
本来は金で雇える連中じゃない。
金で動くからこそ、怖い連中だ。
それを理解した瞬間、身体の芯が冷える。
“そら寒さ”というやつだ。笑えないほうの。
ミストが、ようやく言った。
「丁度良かったのだ、我々としても」
しわがれた声が、鬼面の下から落ちてくる。
「見せてやろう」
ミストは椅子に座ったまま、両腕を広げる。
部屋の中心がそこになる。
「クライシスゲートの四大戦力がいかなるものか」
ミストは刺青の男を見る。
見られた瞬間、刺青の男は“客”でいられなくなる。
「貴様にも、世界にも、な」
刺青の男は頷いた。
頷けたのは、頷く以外の選択肢が見当たらなかったからだ。
ガラスの向こうは相変わらず見えない。
それでも、見られている感じだけが強くなる。
ーーーとんでもない連中に依頼をしたのだ。
そんな確信と後悔が、刺青の男の内面に渦巻いていた。




