英雄小話07 : 他我合一(ワンネス)(後編)
死は歩みを止めず、我らを飲み込まんと近づいてくる。
我らは死を恐れ、遠ざける。
それが万物の終わりであるが故に。
ー*ー
第六支部庁舎内。
普段は依頼者や出入り業者、そして支部職員らで賑わう建物内は、今は重い沈黙の底に沈んでいた。
無人の受付。倒れた装飾品。
ベンチやゴミ箱、ロッカーを不恰好に積み上げて作られた即席のバリケード。
壁面に穿たれた弾痕は、つい先ほどまでここに銃声が存在していたことを、無言のまま告げている。
強く、近未来的な設計美を追求された庁舎ビルは、異常事態の痕跡を各所に刻み込まれながらも、その本来の在り方を損なうことなく、まるで何事もなかったかのように泰然とそこに在り続けていた。
そして――
煌々と輝くLED照明を煩わしく反射する白壁の大廊下を、ただ一人、悠然と歩く者がいた。
第四支部を統括する支部長。
ンジンガ・アム・トゥワナ。
老境に足を踏み入れた女性でありながら、世界で五指に入るとされるヒーロー。
支部長クラスにおいては最強とすら評される存在。
癖が強く、力を誇り、己の名声を飾り立てることを厭わない他のヒーロー達が、その評価に対して一切の異議を唱えないのには、当然理由がある。
彼女の実績は、議論を必要としない。
英雄機関が所属ヒーローに与える異能の源――英雄因子。
それには機関によって定められた明確なランクが存在する。
“失敗作”“ゴミ能力”と揶揄されるDマイナスを最下層とし、十二階級に分けられたその頂点域。
彼女が保有する因子が分類されるのは、第二階位――Aイコール。
本来であれば英雄機関本部所属のヒーローのみが保持を許されるランクである。
どれほど高難度の依頼であろうと、大規模な殲滅任務であろうと、彼女は散歩に出るかのように現れ、任務を達成し、そして必ず無傷で帰還する。
その現実の積み重ねが、もはや“生ける伝説”という言葉すら説明として機能しない領域で、彼女の存在を確固たるものにしていた。
だが。
その栄光の裏側には、同量の危険が存在する―――。
ー*ー
第六支部司令室。
普段は複数の職員がエリア内の情報収集や本部からの指令、他支部からの様々な情報を交わし合うその場は、今はたった二人の男によって支配されていた。
「ふむ。想定内とはいえ、彼女が出たか。本当に、難儀なことだ」
コンソールモニターに映し出された監視映像を覗き込みながら、リン・ユーヘンはわずかに顔を歪めた。
その表情は恐怖ではない。
計算が狂ったときに浮かぶ、純粋な不快感だった。
「支部の蜂起と占拠だぞ。三光が出張ってくる可能性すらあり得た話だ。“最悪”よりはずっとマシだろう?」
リンの横に立つ鬼面の男が、喉の奥で擦れるようなしわがれた老人の声で応じる。
声だけを聞けば衰えた老体のそれ。
だが姿勢は寸分の揺らぎもない。
背筋は槍のように伸び、両手は手にした剣尾の柄に静かに重ねられている。
歴戦の軍人の直立。
真白な上下のスーツ。老いた声。無機質な鬼の面。
そのすべてが互いを拒絶するように混在し、男の存在に言いようのない不気味さを与えていた。
「ふん。そうだな」
リンは鼻で笑う。
「情報があまりにも不足しすぎている三光と比べれば、ンジンガは英雄因子のタネが割れてはいる」
リンは指先で端末を弾くように鬼面へ投げ渡す。
鬼面の男は片手でそれを受け取り、わずかに画面へ視線を落とした。
端末の光が面の凹凸に沿って歪み、別の表情のような影を生み出す。
「英雄因子『ワンネス』。ランク、Aイコール」
しわがれた声が、静かな室内に低く響く。
「有する能力は、“思考盗聴”、“未来予知”。相対する敵の思考を正確に読み、さらに数秒先の動きまでも予知する……か」
わずかな間。
「脅威ではある……」
面の奥で視線が細められた気配がした。
「しかし、こんなものがAイコールであるはずがない」
「先があるはずだ」
リンはその言葉に対して何も返さず、ただモニターへと視線を戻す。
白い廊下を歩くンジンガの姿が、無音の映像の中で静かに近づいてくる。
やがてリンは身体を前に傾け、コンソールに手を置いた。
指が走る。
命令が、演算が、配置が、回線を駆け抜ける。
「せっかくだ」
小さく笑う。
「試させてもらう」
ー
悠然と歩くンジンガの直横――
磨き上げられた白壁が、内側から炸裂するような爆音とともに破砕された。
強化コンクリートが霧状に砕け、鉄骨が捻じ曲がり、礫の奔流が廊下を横切る。
その破壊の中心から、常識外れに太い豪腕が突き出た。
第六支部所属ヒーロー――ボリス・ドラグノフ。
二メートルを優に超える巨躯。
積層された筋肉は装甲のように膨れ上がり、踏み込むたび床材が悲鳴を上げる。
身体能力だけで支部上位に食い込む怪物。
英雄因子C+《タイラント・フォージ》。
極限まで鍛え上げられた四肢は、因子発動と同時に超高周波振動を帯び、内部では赤熱した炉のような発熱反応が走る。
ただの打撃が、接触点から対象の内部構造を粉砕し、装甲すら融解させる致死の破壊へと変わる。
攻撃と同時に衝撃を分散させるその性質は、防御としても機能する攻防一体の能力だった。
壁の破壊など、児戯に等しい。
轟音とともに踏み込み、振り抜かれる右腕。
続けざまに繰り出される膝、肘、回転を乗せた裏拳。
そのすべてが――
ンジンガの身体に触れることなく空を裂いた。
すり抜けたのではない。
ンジンガはただ歩いている。
目的地へ向かう歩調を一切乱すことなく、ほんの半歩だけ進路をずらし、わずかに肩を傾け、視線を動かすことすらなく、そこに存在しない位置へと移動しているだけだった。
回避動作ですらない。
廊下に置かれた障害物を無意識に避けるような自然さ。
その程度の動きで、ボリスの必殺の連撃はすべて空を切った。
理解が追いつかない。
ボリスの呼気が荒くなる。
振動する四肢が空間を裂き、熱が床材を焦がす。
だが――当たらない。
咆哮を上げ、再び踏み込もうとした瞬間。
ボリスの視界の上方から、影が落ちた。
湾曲した三枚刃の投擲ナイフが、彼の脳天に深々と突き刺さっていた。
それは、ンジンガが歩きながら無造作に放り投げたものに過ぎない。
放物線を描き、強烈な縦回転を伴って落下した刃は、超振動で強化された頭蓋すら抵抗なく貫通し、巨体の中枢を一瞬で断ち切った。
ボリスの身体から力が抜ける。
慣性に従って前方――すなわちンジンガの進行方向へと倒れ込む。
彼女は一瞥もしない。
突き立ったナイフを引き抜き、そのまま手首の返しだけで前方へと放った。
回転する刃が空気を裂き、甲高い悲鳴のような風切り音を残す。
はるか前方、廊下の奥。
狙撃姿勢を取っていた二人のヒーローの腕と銃器の隙間を縫うように通過し、喉元を同時に切り裂いた。
二人の身体が、糸を断たれた人形のように崩れ落ちる。
ンジンガの紺青のカンガが静かに揺れる。
袖口から小型拳銃が現れる。
歩みは止まらない。
照準も取らない。
無造作に放たれたはずの数発の弾丸は、まるで光に吸い込まれる夜虫のように飛び込んできたヒーローたちの眉間、心臓、頸椎を正確に撃ち抜いた。
倒れたヒーロー達は二度と動かなかった。
ンジンガは言葉を発さないまま、白壁の廊下の奥へ歩を進める。
その後ろに、死だけを残して。
ー*ー
ギッ――という軋んだ音を立て、大扉が開く。
白壁の廊下の終点。
司令室へ続く三叉路の分岐点。
その中央に、オレグ・カラディンは立っていた。
無言。微動だにしない。
ンジンガは――そこで初めて歩みを止めた。
視線が交差する。
「なぜ、裏切った?」
静かな問いだった。
「なぜ? 聞くのが遅いだろう」
オレグは感情のない声で答える。
「アンタがさっきまで殺してきた連中にも聞いてやれ」
「必要のない問答はしない」
ンジンガの声は穏やかだった。
「奴らの理由は、金、立身、所有欲、怒り。移動のついでに覗いたが、月並みすぎてどうでもいい」
一歩も動かず、オレグを見据える。
「だが貴様は違う」
「貴様の内側は今、凪いでいる。怒りも迷いも欲望も絶望もない。理想的な戦士の心だ」
「そんな貴様が、なぜ先のない反乱に加担した?」
オレグは少しだけ笑った。
右手を見る。
その手は、幾千回も死を撃ち出してきた手だった。
「理想の戦士……か」
小さく呟く。
「ああ。“そう“なら、きっと良かった」
「もっとずっと前に、心も希望もない戦士でいられたなら」
「ただ戦場で力を振るうだけの機械でいられたなら」
右手を差し出す。
「教えてくれ」
小指が折れる。薬指が畳まれる。中指が巻かれる。
人差し指が伸び、方向を定める。
親指で距離を測る。
儀式。
呼吸が整い、心拍が戦闘の律動に同期する。
「アンタはなぜ、生きている?」
ンジンガは諭すように言った。
「我らにとって死は、いずれ逃れ得ぬ終焉だ」
「死ぬことに意味はない。生きることにも意味はない」
ああ――きっとそうだ。
オレグの足元から青い光が渦を巻いて立ち上がる。
空気が軋み、圧縮され、背後の空間が歪む。
質量が、出現する。
「なら教えてくれ」
「生きることと、死ぬことは同じなのか」
⸻
監視室。
リンが笑う。
「さて、どうする? 最強」
「思考が読めても、未来が読めても――ここまでチャージされたロッズは躱せない」
「時速一万キロ。この廊下では逃げ場もない」
鬼面は答えない。
ただ、見ている。
⸻
――まだ。
――まだだ。
――行け、ロッズ。
右手が弾かれる。
次の瞬間、背後の質量が消失し、空気の壁がオレグの背を叩いた。
⸻
「死はいつも我らの傍らに横たわっている」
ンジンガは歩き出す。
ロッズが通過した廊下は、抉り取られていた。
壁も床も天井も、直線状に“存在を失って”いる。
粉塵と衝撃波が遅れて押し寄せる。
「生もまた、常に我らを見ている」
変わらぬ歩幅で、歩く。
「我らが死を受け入れるのではない」
三叉路の奥へ進む。
「死が、我らを受け入れるのだ」
その背後。
そこに――本来ならオレグが立っていた位置。
そこには、両脚だけが残っていた。
膝から下。
床に“置かれている”のではない。
さっきまでそこに「人間が立っていた」痕跡として、切り取られて取り残されている。
それより上が――ない。
胴体も、腕も、頭も。
血も、肉片も、骨片すらも。
何ひとつ残っていない。
一拍遅れて、断面から血が噴き上がり、
支えを失った脚が崩れ落ちて床に倒れる。
それでようやく、
そこにオレグがいたことだけが分かる。
ンジンガは振り返らない。
ただ、歩く。
司令室へ向かって。
ー*ー
「馬鹿な……!」
コンソールを叩きつける音が、司令室の静寂を引き裂いた。
「思考盗聴? 未来予知? あれが、そんなものであるものか!!」
リンは、確かに見ていた。
オレグはロッズを放った。
照準、チャージ、発射――すべてが成立していた。
質量は解き放たれ、廊下という廊下を一直線に消滅させ、遅れて到達した衝撃波が建造物そのものを軋ませた。
破壊痕は今も残っている。
物理現象としての結果が、真実を保証している。
――だというのに。
ロッズを撃ったはずのオレグが、吹き飛んでいた。
ンジンガのカンガは、揺れてすらいない。
鬼面の男――ミストは、顎に手を当てた。
「反射……? いや、それでは思考盗聴の説明がつかん」
低く、思索する声。
「一つの英雄因子が、関連のない能力を二つ持つことはない」
「ならば――ワンネスの本質とは何だ」
リンの心臓が、嫌な速度で打ち始める。
もう来る。
あの女が、ここまで来る。
「ミスト! お前、勝てるんだろうな!? 同じAイコールだろ!!」
足に縋りつく。
ミストは見下ろし、
「天秤を傾け合う危険は犯さん」
とだけ言った。
「どの道、ここでの目的はほぼ達成した」
その身体が、足元から電子映像のように解け始める。
粒子となって下から上へ。
「貴様も命が惜しければ、さっさと逃げた方が良いのではないか?」
鬼が笑った気がした。
そして、消えた。
残されたのは――自分だけ。
直後、司令室のドアが静かに開いた。
音はほとんどしない。
それでも、リンの神経は雷鳴のように受け取った。
ンジンガ・アム・トゥワナが入ってくる。
後ずさる。
脚が床に張り付くように重い。
「貴様がリーダーか」
静かな確認。
「あぁ、そうだ! 理由が知りたいだろう!? 僕を殺せば、二度と分からなくなるぞ!!」
一秒でも稼げ。
生き延びろ。
「理由など、あえて貴様の口から聞く必要はない」
即答だった。
「それに――ミストとかいう男から重要なことは何も聞いていないようだな」
薄氷が砕ける音が、確かに聞こえた気がした。
「クソッ!!」
青い光が、リンの身体を包む。
浮遊。
秘書官用因子――飛行能力。
床が遠ざかる。
窓へ突進。
――反射だとしたら、戦わなければいい。
――距離を取れ。干渉するな。逃げろ。
ガラスを破り、夜空へ飛び出す。
風が顔を打つ。
生きている。
まだ生きている。
――逃げ切れる。
――身を隠す。
――やり直せる。
下方。
司令室の窓枠に、ンジンガが立っている。
追ってこない。
拳銃を手にしているだけだ。
こちらを見ている。
撃たない。
距離がある。
届くはずがない。
そのはずだった。
ンジンガは、遠ざかるリンを見つめたまま呟く。
「なぜ逃げる。何から逃げる」
スライドを引く音。
夜気の中でも、はっきり聞こえた。
「死は常に我らの傍に横たわり」
「我らの魂は、世界を通じて繋がっている」
銃口が、自分のこめかみに向けられる。
「だから」
穏やかな声。
「貴様の生も、欲望への執着も、そして今の逃走すら、何の意味もない」
「貴様は何も手にせず、抱かず――我が合一から剥がれるがいい」
引き金が引かれる。
銃声。
夜空を飛翔していたリンの頭部が、内側から破裂した。
血と脳漿が空中に散り、身体は慣性のまま進み、
やがて重力に捕まり、墜落していく。
夜の地面に落ちたリンの身体は、
自分の死因を理解することなく、完全に沈黙した。




