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あなたは狭霧町の高校に通う学生だ。
通学するとき、いつも同じ道を通っている。
その途中に、何年も無人のアパートがあった。昔、なにか事件があったらしい。
なんだか不気味で前を通るのも嫌なのだけれど、ほかの道だと遠回りになってしまう。
朝の5分と引き換えにするほどの恐怖ではなかったので、あなたは毎朝毎夕そのアパートの前を歩いていた。最近はもう、不気味だと思うことも少なくなっていた。
昨日の帰り道のことだ。
あなたはそのアパートの前になにかが落ちているのに気づいた。
今あなたの手に爪を立てている、干からびて縮んだ土気色の手だ。
もちろんそんなもの、拾いたいと思うわけがない。
大きく迂回して通り過ぎようとしたあなたは、子どもの泣き声を聞いた。
ウソ泣きなんかじゃない。
胸を締めつける、悲痛な嗚咽だ。
声に気を取られたことでできた意識の空白になにかが入り込んで、あなたはそれを拾ってしまった。
それからのことはぼんやりしている。
食事を摂らずジュースも飲まず、冷水のシャワーだけ浴びてベッドに入ったことは、今この龍神の祠がある空間に入った瞬間に思い出していた。
「……断食に禊、巫女の必須科目じゃのう」
あなたの左側、方角的には西に立つ和装の少年が言う。
彼は天狗だ。
背中の白い翼が、月光を浴びて風に吹かれている。
「巫女?」
「そう。お前はその悪霊の巫女に選ばれたんだ」
あなたの背後、方角的には南に立つ赤毛の少年が言う。
彼は鬼だ。
あなたは振り向いて、赤い髪から伸びるねじれた角を見た。
「その悪霊は、龍神さまの力を奪って復活しようと企んでいる。だけどこの場所は結界が張られていて、穢れた悪霊は入れない。だからあんたを巫女に仕立てて、自分を運ばせたんだ」
あなたの眼前、方角的には北に立つ短髪の少年が言う。
彼は河童だ。
頭の皿も背中の甲羅もないけれど、疑う理由などなかった。
彼ら妖怪少年たちは、操られてこの山に来たあなたに初めて会ったとき、すでに悪霊の存在に気づいていたのだという。
しかし迂闊な発言をすれば、退治しようとしていることを悪霊に悟られる。
自棄になった悪霊にあなたが殺されたりしないよう、彼らは気づいていない振りをした。
食べ物を勧めてきたのは、そうすることであなたを巫女でなくし、悪霊の呪縛から解き放つためだった。白いもの、丸いもの、硬いもの、は、木気の悪霊が苦手とする金気の象徴だ。
あなたは目を閉じて、これまでのことを思った。
(……ずっと、守ってくれてたんだ)
彼があなたをここに連れてきたのは、龍神の結界の中で悪霊を退治するためだ。
ふたりの友達を呼び出したのは、三人の妖怪少年が、霊気だけ遺して姿を消した龍神の名代を務めているからだった。
あなたは右側、方角的には東になる龍神の祠の上に重ねた両手を載せていた。
開いた手の上には、土気色の手がある。
あなたに爪を立て、外そうとすれば指を伸ばして血を吸おうとする悪霊の手だ。
「吾ら龍神の名代なり。五行の理をもって悪霊を浄化する」
鬼の低い声。
あなたたちの配置は五行に従っている。
東は木気、西は金気、南は火気、北は水気、そしてあなたが立つ中央は土気を意味するのだという。
「悪霊は木気なり。木気は火気を生み、火気は土気を生む。土気は金気を生み、金気は水気を生む。水気は木気を生むが、新たな木気は穢れた悪霊を浄化する龍神の霊気なり」
朗々と河童が告げる。
これは『相生』と呼ばれる、五行の法則だ。
いつつの属性の霊力が互いに互いを生じ合って、世界は回る。
『相剋』と呼ばれる、互いに害し合う法則もある。一応簡単に説明はされたが、今回は関係なかった。
「吾ら龍神の名代なり。五行の理をもって悪霊を浄化する」
少し甲高い天狗の声が言って、三人は声を揃えた。
「「「悪霊は木気なり。木気は火気を生む!」」」
龍神の祠に載せたあなたの手、その上に爪を立てた土気色の手から、なにかが沸き上がった。煙のようで、吐き気を催すほど穢れたなにかを視ているのは、目ではなかった。
蘇った記憶の中で霊感少女だった覚えはない。
見えないなにかを『視る』のは生まれて初めてだった。
ふたつの目ではなく、額が感知している。
鬼が後ろから太い腕を伸ばし、その煙を掴んだ。
煙は炎に変わった。もちろん目では見えない炎だ。
「火気は土気を生む!」
鬼が手を突き出して、あなたの背中に熱いなにかを放つ。
あなたは吐きそうになった。
鬼が炎に変化させたことで浄化されつつあっても、あなたの中に入ってきたそれは、邪悪で穢れていた。気持ち悪くて涙がこぼれ落ちてしまう。
(……でも……)
儀式を始める前、あなたは妖怪少年たちに、土気色の手を拾ったとき聞いた泣き声のことを聞いた。
死後復活するための犠牲として悪霊に殺された、子どもたちの霊だろうと教えられた。
悪霊が浄化されるまで、子どもたちも解放されることはない。
あなたは食道を上ってきた胃液を飲み込み、叫んだ。
「土気は金気を生む!」
体の中から泥のようなものが噴き出して、左に立つ天狗を覆う。
「金気は水気を生む」
しゃらしゃらと鈴を鳴らすような音を響かせて、前に立つ河童に向かうなにかは、もうかなり浄化されているらしい。
あなたは涼やかな風を感じた。
ほんの少しだけ含まれていた腐臭は、すぐ消える。
「水気は木気を生む」
前の河童から右の祠の上に、水気を含んだ風が吹きつける。
冷たく感じるほど清浄な風だ。
きゅっ、と手の平の上で土気色の手が縮むのがわかった。
皮膚に食い込む爪の力も弱まっている。
「「「悪霊は木気なり。木気は火気を生む!」」」
三人の声がまた、揃った。
──そうして何度繰り返しただろうか。
ふっと手が軽くなって、あなたは右に目を向けた。
土気色の手はない。
皮膚に爪痕だけ残して、土気色の手は消えていた。
もともと実体があるものではなく、悪霊の邪気が凝り固まってできた存在だったのだ。
あなたは三人の顔を見回した。
大丈夫、というように彼らが頷く。
山で出会ってから、ずっと一緒にいてくれた彼は、微笑みも見せてくれた。
あなたはその場に座り込んだ。一気に緊張が解けたのだ。
「頑張ったじゃねぇか」
「疲れただろう?」
「大したもんじゃ」
あなたは三人の賞賛に応えられなかった。
むしろ自分のほうが礼を言いたかったのだけど、口が動かなかった。
体も痺れたように重い──あなたは眠かった。
眠りの淵に落ちながら、聞くともなしに三人の会話を耳に入れる。
「おいおい。眠り始めたぞ」
「ふわあ、吾も眠い……どうしたのじゃ、一の字」
「退魔師協会が何年も退治できなかった悪霊が、これくらいで浄化されるか?」
「だって悪霊のアジトは持ち主がいるアパートだろ? 持ち主の許可もなしに踏み入って、悪霊退治はできねぇよ」
「そうそう。どんな強大な悪霊でも本拠地を離れれば力は弱まるものじゃ」
「……丸、今お前のとこに退魔師が来てるよな? 一応報告しとこう」
「えー。邪魔したら姉貴に殺されるぞ」
「シスコンだな、お前」
「なんでそうなるんだよ!」
「寅殿の邪魔をするのが嫌なだけであろ」
「うっせー、違うし。お前ら実の弟じゃねぇから、姉貴の怖さ知らねぇだけだ」
「移動するならおぶってくれ。吾は疲れた」
仲の良さそうな会話が微笑ましくて、あなたは幸せな気分で眠りに就いた。
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