65
あなたは狭霧町の高校に通う学生だ。
通学するとき、いつも同じ道を通っている。
その途中に、何年も無人のアパートがあった。昔、なにか事件があったらしい。
なんだか不気味で前を通るのも嫌なのだけれど、ほかの道だと遠回りになってしまう。
朝の5分と引き換えにするほどの恐怖ではなかったので、あなたは毎朝毎夕そのアパートの前を歩いていた。最近はもう、不気味だと思うことも少なくなっていた。
昨日の帰り道のことだ。
あなたはそのアパートの前になにかが落ちているのに気づいた。
今あなたの手に爪を立てている、干からびて縮んだ土気色の手だ。
もちろんそんなもの、拾いたいと思うわけがない。
大きく迂回して通り過ぎようとしたあなたは、子どもの泣き声を聞いた。
ウソ泣きなんかじゃない。
胸を締めつける、悲痛な嗚咽だ。
声に気を取られたことでできた意識の空白になにかが入り込んで、あなたはそれを拾ってしまった。
それからのことはぼんやりしている。
食事を摂らずジュースも飲まず、冷水のシャワーだけ浴びてベッドに入ったことは、さっき霊力で作り出した斧で、土気色の手を滅したときに思い出していた。
「食事を摂らないのも、水を浴びるのも、神に近づくための儀式だ。あの悪霊は君を操って、自分の巫女にしようとしたんだよ」
無精髭の男が説明してくれる。
彼と学生服の少年は退魔師だと名乗った。
にわかには信じがたい話だが、こんな状況だ。疑う理由がない。
あなたは最初にいた十字路の東、一番風の勢いが強かった場所にいる。
開けた丸い空間の中央には、小さな石の祠があった。祀られているのは竜神だ。
この場所には龍神の結界が張られている。邪悪なものを受け入れない、清浄な結界だ。
悪霊はここに入って龍神の霊力を奪うため、あなたを利用しようとしていたのだという。
もちろん龍神だけでなく、あなたの霊力も奪う気だったに違いない。
「あなたと別れた後、川瀬さんが僕たちに連絡してくれたんです。悪霊に操られている子がいる。おそらく龍神の祠へ向かうから、待っていて助けてやってくれって」
「……ありがとう」
「いや。本当は最初から同行するべきだったんだ。あんたが自分の意思で動いてないのは明らかだったんだから。でも俺は、あんたと関わったら弟たちまで巻き込むんじゃないかって……器の小さい男で悪かったな」
「そんなことないよ! さっき、悪霊はわたしよりあなたを選んだもの。……あの子たちが襲われなくて、良かった」
「ありがとな」
「それはそうと、どうします?」
「刃くん?」
日本刀を持つ学生服の少年が、あなたに微笑みかけた。
「あなたも気づいていたように、先ほど倒したのは片手だけです。ヤツの本体はまだ存在しています。あなたとの絆も消えてはいない」
ハッとして、あなたは手の平を見た。
黒ずんだ爪痕が残っている。
「よせよ。彼女は普通の女の子なんだ。眠って目覚めて、こんなことなんか忘れればいい」
「そうだよ、刃くん。いくら霊力が強くても、ううん、強いからこそ、普通に生きていくのが一番だよ」
「僕は彼女の気持ちを聞いてるんです。川瀬さんもお師匠もちょっと黙っててください。……あなたはどうしたいですか?」
「どうって……」
「自分を操った悪霊にとどめを刺したくないですか?」
(どうなんだろう)
首を傾げたあなたの耳に、昨日聞いた子どもの泣き声が蘇ってきた。
悪霊にとどめを刺したら、あの子たちは泣きやんでくれるだろうか。
「各務!」
河童少年が、あなたと退魔師の少年の間に割り込んでくる。
「お前、強引過ぎるぞ。襲われて、俺もアイツと因縁ができた。彼女がいなくても結界に入れるんだ。無理矢理引き込むことはない」
「……ごめんなさい」
「そうだね。俺たちが決めることじゃない。彼女が決めることだ」
(わたし、わたしは……)
不意に眠気が襲ってきた。
体全体が重たい。意識が沈んでいく。視界が暗くなる。
あなたが眠り始めたのに気づいたのだろう。
骨ばった手が撫でてくれる。おやすみ、と優しい声が囁く。
河童少年だ。
なんだか涙が出て来た。暗い夜の森をさ迷って、あなたはずっと怯えていたのだ。
こんな怖いこと、もうコリゴリ。→66へ進む
もう一度、彼に会いたいな。→150へ進む




