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「ふわあ……」
大きなアクビが聞こえて、あなたは振り返った。
アパートの前にひとりの少年が立っている。
彼が着ている茶色い制服は、あなたと同じ学校のものだった。
(あれ?)
知らない相手のはずなのに、どこか見覚えを感じる。
(でも……あんまりジロジロ見たら失礼だよね)
気づいて顔を逸らそうとした瞬間、アクビで漏れた涙を拭いていた少年の目が開いた。
長いまつ毛は真っ白だった。
瞳は黒と見紛うほどに濃く深い赤色だ。
「……雪比古くん?」
昨日夜の森で会った天狗の少年だった。
白い翼はない。髪は染めているのだろう。
彼は再び大きなアクビをした。
「うむ。……おはよう。そなた、毎日こんな早くに起きて登校しておるのか?」
「雪比古くんは違うの?」
「吾は寝たいだけ寝て、起きたらTVを観たりPCをつけたりじゃな」
「お家の人、怒らない?」
「ふたりとも在宅の仕事で、吾と似たり寄ったりの生活じゃ」
「そっか」
人、もとい妖怪はそれぞれ。あなたはそんな言葉を心に浮かべた。
「今日はどうしてこんなに早いの?」
「覚えておらぬのか? そなたは吾と家に向かう途中で消えてしまったではないか」
「そういえば……」
「まあ仕方ない。そなたは実体から抜け出した幽体だったのじゃからな」
「ごめんね。今はカード持ってないや」
「ああ、今度で良い」
雪比古はアクビを噛み殺した。眠くてたまらないようだ。
「実は退魔師に龍神の祠のある土地の浄化を頼んだら、昨夜の悪霊はまだ滅していないと言われてしもうたのじゃ。あの手は端末に過ぎなんだ。本体は……」
雪比古はアパートを見上げた。
昔のドラマに出てきそうな古びた建物だ。錆びた鉄の階段が一階と二階をつないでいる。
何年も無人だったのには理由がある、と雪比古は語り始めた。
ずっとずっと昔、ここには自称・教祖が住んでいた。
彼は病気の子どもを案じる親の気持ちにつけ込み、神の力で病気を癒すと称して大金をせしめていた。彼が普通の治療を禁じたために、死んでしまった子もいたという。
罰が当たったのか、やがて彼自身も病気になり、死を待つだけになった。
彼は死後の復活を企み、治療を求めてやってきた子どもたちを殺して邪悪な儀式を行い、悪霊となった。
──そして今も、ここに、いる。
「雪比古くん、もしかして退治に来たの?」
「いや」
雪比古は首を左右に振った。
「昨夜そなたの手から悪霊を切り落としたとき、吾と悪霊につながりが生じた。ここは強い結界が張られておるので、つながりがあるものしか悪霊の本体には近づけぬのじゃ」
彼は腕を上げて、手首に通した赤い布で作られた腕輪を見せる。
退魔師協会に支給されたもので、能力の制御とGPSの機能を持つという。
「結界に入って隙間を探す。吾を目印にその隙間から退魔師たちが入ってきたら、吾の役目はおしまいじゃ」
あなたは古びたアパートを見上げた。
あの手首を拾ったとき聞いた、悲痛な泣き声が耳に蘇る。
「雪比古くん、一緒に……ううん、ごめん、なんでもない」
中に入るだけとはいえ、なんの役にも立たない自分が同行しても足手まといにしかならない。
あなたには、それがわかっていた。
「そなたも来ぬか?」
「え、いいの?」
「中に入って退魔師を呼ぶだけじゃ。終わったら一緒にゲームセンターへ行こうぞ」
「……ゲームセンターは学校が終わってからね。せっかく制服着てるんだし、雪比古くんも今日は登校したら?」
「そうじゃのう、考えてみる。で、どうする?」
あなたは一緒に行くことにした。
「二階建てじゃのう。どちらから見て回るかえ?」
「一階から」→146
「二階から」→147