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あなたは走り出した。
「あ」
掠れた声の驚きが、あなたの逃亡を彼女に告げる。
「待 て え っ!」
耳元で聞こえていたときは、優しいといえなくもない女性の声だったのに、あなたの背中に浴びせられたのは、地の底から響いてくるような怒号だった。
必死で走って、アパートの敷地に逃げ込む。
キィキィと啼くように軋む錆びた階段を駆け上がって、西の角部屋へ。
鉄の扉を開いて室内に飛び込むと、ぐにゃりと世界が歪んだ。
あなたは暗闇に放り出された。
腕組みをした男が、こちらを見つめている。
どこかから子どもの悲痛な泣き声が聞こえてきた。
男の片腕は手首から先がない。あなたは不安に駆られて自分の手に視線を落とした。
昨夜の夢と同じようにしずく型の石がある。
いや、違う。石なんかではない。
石というより土の塊。絡み合った木の根っこ──でもない。
手首から上のない土気色の手が丸まって、あなたの手の平に爪を立てている。
普通の手よりも小さいのは、水分を失って乾ききっているからだ。
あなたは気づいた。目の前の男の手だ。
気づくと同時に、土気色の手の爪が伸び始めた。
あなたの全身に根を張り、血を啜る。あまりの激痛に叫ぶこともできない。
(わたし、どうしてアパートに飛び込んだの? ここはなに? どこなの?)
恐怖と痛みで頭が混乱している。
もっとも冷静だったとしても、今の状況に筋の通った説明ができるとは思えなかった。
「ウサギよ、自分から来てくれるとはありがたい。龍神の名代たちは、思ったよりも厄介そうだったからな。あの娘のように、霊力だけでなくお前の体もいただこう」
──しばらくして、ひとりの少女が無人のアパートを出た。
出たのはあなたの体だけだった。あなたの心がどこにいるのかは、だれも知らない。
<BAD END>