152
あなたは、ほとんど走るようにしてアパートの前を通り抜けた。
しかし、そこにはだれもいなかった。
このアパートが取り壊されることになったと告げる、立て看板があるだけだ。
きっと恐怖で見間違えてしまったのだろう。
しばらく進んで、あなたはアパートを振り返った。
なんとなく耳を澄ませてみる。
──なにも聞こえない。辺りにはだれもいないのだから、当たり前のことだ。
(泣き声も聞こえない……)
なぜかそんなことにホッとして、あなたは学校へと歩き出した。
「……ええっ?」
学校に着いたあなたは、一日ぶりに会う友達の姿に目を丸くした。
「美鳥ちゃん、コンタクトにしたんだ」
「いえーい。……漫画描くときメガネが邪魔でさー」
両手でVサインして見せる美鳥は漫画研究部だ。
あなたの学校の漫画研究部は勤勉で、毎月部誌を発行している。
文化祭のときには通常の部誌に加えて、別冊まで出す。
美鳥はよく、文化部の皮をかぶった運動部なのだと冗談交じりに言っていた。
あなたも何度か手伝いに行ったことがある。──ハードだった。
「昨日買ったの?」
「ううん。結構前に買ってたんだけど、怖くてなかなか使えなかったのさ」
「目、痛くない?」
「……痛い」
美鳥は目をしばたかせた。瞼を手で擦る。
「っていうか、ゴミが入ったときみたいにゴロゴロする」
「コンタクトが入ってるからかもしれないね」
「……それ以外のなんだというのさ」
いきなり、あーと唸って、美鳥はコンタクトレンズを外した。
「今日はこれで終わり! 今度またチャレンジする」
あなたは美鳥を見つめた。いつもは眼鏡をかけているので、なにもない素顔は珍しい。
「ちょっと眼球赤くなってるね。目薬貸そうか?」
「ありがと。自分の使うから大丈夫だよ」
目を酷使することの多い彼女は、効き目の強い目薬を使用している。
「沁みるさー。サンキュ……あれ?」
あなたの渡したティッシュで目元を拭いて、美鳥は首を傾げた。
「ぷりーず、ゆあはんど」
「ふわっと?」
最近ふたりの間で流行っているウソ英語会話を交わして、あなたは彼女に片手を預けた。
手の平を見て、美鳥は顔色を変える。
「どうしたのさ、これ!」
自分の手に視線を落とす。
皮膚に爪痕がある。
拳を作ろうとしたら手の皺で消えてしまいそうなほど小さな爪痕だ。それでいて黒々としていて、深く奥まで伸びている。
「寝てるときに虫に刺されて、掻き毟っちゃったのかな?」
「そんなんじゃないよ。突き刺された爪痕じゃん!」
「うーん。でも家、猫も犬も飼ってないしなあ」
美鳥はひどく真面目な顔で考え込んでいたが、やがてあなたの手を離した。
授業開始を告げるチャイムが、教室に鳴り響いたからかもしれない。
「……ちょっと付き合って」
その日、すべての授業が終わると、美鳥はあなたの机に腕を立てた。
「部誌の締め切りヤバイの?」
「違う。あたしの中学時代の先輩に会ってほしいの」
「いいけど……部活、大丈夫?」
美鳥は無言で頷いた。
下校の支度を済ませたあなたの腕を掴み、彼女が向かったのは近くにある男子校だった。
柄が悪いのと、あまり学力が高くないことで有名な学校だ。
あなたの腕を掴んだまま、校門に立つ美鳥の表情は暗い。顔面は蒼白だった。
視線だけは鋭く、なにかを決意したかのように輝いている。
彼女の迫力に負けたのか、柄の悪い男子高生たちは、好奇の視線を投げかけてくるだけで近寄っては来なかった。
下校する男子を何十人か見送ったころ、肩まで髪を伸ばした、いかにもチャラいという感じの少年が通りかかった。美鳥に目を留めて、微笑みかけてくる。
「美鳥じゃん」
「照原先輩!」
美鳥が待っていたのは彼だったようだ。
彼女は満面の笑みで、あなたに説明した。
「あたしの中学時代の先輩で、照原タカトさん。寺生まれなの!」
「……う、うん?」
──あなたは悪霊に狙われていると、美鳥は言った。
彼女の隣で照原も頷く。
手の平の爪痕は、その悪霊につけられた標的の印らしい。
「美鳥ちょっと霊感あるからね。最近は薄れたみたいだけど」
「うん。高校生になってからは全然そういうの見なかったんだけど、今朝あんたからすごい邪気を感じたの。お願い、照原先輩と一緒にお寺行ってお祓いしてもらって」
「……美鳥ちゃんは信用してるけど、照原さんとは初対面だし。一旦帰って家族と話してみる。それでまた、明日相談したのでいい?」
あなたの返答に、美鳥は泣きそうな顔になった。
とはいえ、初対面の男子の家に行かせるのは無理があると悟ったのだろう。
「照原先輩、明日またお願いできますか?」
「うん、親父に話しとく。……まあ親父は霊なんていないって言うんだけどね」
(じゃあ意味ないんじゃ……)
心で突っ込みかけたものの、あなたはすぐに思い直した。
照原が寺生まれということは、その父は僧侶だろう。
僧侶だからこそ、人の恐怖を煽るような発言はしないのだ。
照原とはそこで別れ、美鳥は遠回りして、あなたを家まで送ってくれた。
「大丈夫? この辺り、美鳥ちゃんの使ってるバスの路線外れてるよ?」
「家の近くに停まる、べつの路線のバス停があったから平気」
「気をつけてね」
「あんたも……これ、あげる」
美鳥は鞄につけていたお守りを外して、あなたに渡した。
中学時代の先輩にもらったと言って、とても大事にしていたお守りだ。
もしかしたら、その先輩とは照原だったのかもしれない。
(そういえば……)
バス停まで送らなくていいと言い張って走って戻る彼女の背中を見送った後、あなたは不意に思い出した。
あなたの手の爪痕を見つけたとき、美鳥はコンタクトレンズを外していた。
視力の低い彼女が、眼鏡もかけていない裸眼の状態で、どうしてこんな小さな爪痕に気づいたのだろう。
→87へ進む