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あなたはひとり、廃病院を歩いていた。
ほんのり消毒液の匂いが漂ってくる。
狭霧町中心部の駅裏にあるこの病院は、かつて町で一番大きな総合病院だった。
五階建ての建物が三棟、駐車場も大きい。
どうしてかこの建物には、霊を引き寄せて呪縛する力があった。今は霊の巣窟となっている。
あのとき雪比古に言われたとおり、あなたは強い霊力を持っていた。
気づいていなかったころと同じように、あなたが歩くのに合わせて、周りの霊たちが浄化されて消えていく。なんの術も使っていない、無意識の力だ。
もっともそれは一時的なものだった。
あなたが去ると、霊のいない空白地にほかの場所の霊が入り込んでくる。
……カタカタ、カタカタ。
なにか硬くて小さなものが動く音を聞いて、あなたは振り返った。
霊以外、なにもいない。
雪比古と悪霊を退治したことが認められて、あなたはC級退魔師になった。
子どもたちの霊に助けられただけだということは話したが、あなたはもう目覚めていた。
霊の姿を視、霊の声を聴いてしまう以上、対抗策を学ぶ必要がある。
(それに……)
自分の力の使い方を学んだら、まただれかの泣き声を聞いたとき、力になれるかもしれない。
退魔師協会に支給された、透明な水晶を細い金鎖でつないだ腕輪に触れる。
なにかを感じて視線を落とす。
傷のないはずの水晶が濁っていた。穢れたものが近くにいる。
これまで感知されずに隠れていた実力者だ。
ただでさえ気持ちの悪い、霊で埋め尽くされた廃病院の内部を見回す。
近寄るだけで浄化できる弱い霊しかいない。
高鳴る心臓を落ち着かせて、前に向き直り、あなたは息を呑んだ。
「ひ……っ!」
人形、雛人形だ。
黒い衣装を纏った男雛。初めて会ったときの雪比古を思わせる格好をしている。
頭にかぶっているのが立櫻冠ではないので、お内裏さまではなかった。
そのままで怖いのに、男雛はぱくりと顎を落とす。
人形浄瑠璃で使われるガブという、からくりの頭を思わせる。
あなたが人形浄瑠璃について知っているのは、旧家の出である師匠が古い日本文化に詳しいからだった。彼女は雪比古の幼なじみの姉で、着物の似合う豪放磊落な女性だ。
カタカタと、何度も聞いた音を立てて、人形が近づいてくる。
頭が回らない。霊力が使えなかった。床を見ると、お札のような模様が描いてある。
あなたはこの場所に誘い込まれたようだ。
「……雪比古くんっ!!」
腹が立つけれど、呼ばずにはいられなかった。
「イエス、マイマスター」
現れた白い天狗は、人形が呆気に取られた一瞬を見逃さず、鋭い翼で切り裂いた。
崩れた人形から、黒い靄が立ち上る。邪悪な霊だ。
近くの霊を纏って逃げようとした黒い靄は、あなたが放った犬の式神に食われて消えた。
「まさか、ここまで強いものがおるとは思わなんだ。協会も、病院だったから霊が多いだけだと考えておったに違いないぞ」
「……雪比古くん」
甘えてくる犬の式神を撫でながら、あなたは彼を睨みつけた。
「お互いまだまだ未熟なんだし、退魔師の仕事のときに魔獣園ごっこするのはやめよう?」
「えー。自分はケルベロスを式神にしておるくせに」
「た、たまたまそうなっちゃったんだから、仕方ないでしょ。……お帰り」
腕輪の水晶に三つの頭を持つケルベロスを戻し、あなたは歩き始めた。
「あの人形が元凶っぽいけど、詳しい事情はわからないし、複製が用意されているかもしれないわ。協会に連絡して、もう少し調べてみましょう」
「イエス、マイマスター」
あなたは笑いを噛み殺した。
困ることも多いけれど、雪比古は頼りになる。
ふたりが狭霧町の伝説になるのも、遠い未来ではなさそうだ。
<雪比古 退魔師END>