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(雪比古くんは説得できないよねえ……)
なにせめんどくさがり・オブ・ザ・キングだ。
それに彼は、なにも考えていないわけではない。
昨夜あなたにカードのポーズをさせたのは、悪霊を警戒させないためだ。
(でも、もうちょっと説明してくれたらいいんだけど、な)
溜息をひとつついて、あなたは二階の西端に立った。
壁を見つめる。ここには扉があるはずだ。
悪霊の結界の中、実体のない幻は姿を真似た現実と影響し合っている。
毎朝毎夕前を通った古いアパートは、一階にも二階にも三室ずつあった。
あなたの記憶が古びた鉄の扉を浮かび上がらせる。
完全な形ではなく、半分透き通って壁に埋もれていた。
実体のない手を伸ばし、さらに希薄な存在のドアノブを握る。
開いたとたん、ぐにゃりと世界が歪んだ。
アパートが消えて、あなたと雪比古は暗闇に放り出された。
翼を広げた彼が体を支えてくれる。
視線を感じて見回すと、憎悪で顔を歪めた男と目が合った。
腕組みをした男は、片腕の手首から先がない。昨夜、雪比古が切ってしまったのだ。
おおおぉぉぉぉぉっ!!
男が吠えた。
吠えたとしか言いようがない。
憤怒に満ちた叫びは青い蛇の姿になって、あなたに襲いかかった。
斬!
茶色いブレザーの背中から飛び出た白い翼が唸って、青い蛇を切り裂く。
あなたは昨日と同じように、水を願った。
しかし早過ぎたようだ。
青い蛇は炎を出さなかった。白い翼に刻まれた肉片のひとつひとつが蛇の姿になり、鱗の青が濃くなっていく。濃く、どこまでも深く──黒く。
「水……か」
雪比古が唸った。
黒い小さな水の蛇は、あなたの願いによって呼び出された霧を喰らい、大きくなっていく。
あなたは、いつもののほほんとした顔で腕組みをしている雪比古の翼が、ところどころ黒ずんでいることに気づいた。
「雪比古くん、水に弱かったの?」
「吾は白、そして天の犬を意味する天狗。白も犬も金気に属する。金属は水で錆びるであろ? 五行では金生水。害し合う関係とはいえぬが、金は水を生み出してしまうのじゃ。まあどのようなものであれ、悪意によって生み出されたものは、ほかを害するものじゃしな」
よくわからないが、困った状況のようだ。
黒い蛇は、ある程度大きくなると分裂して数を増やした。どんどん数が多くなる。
暗闇の中にいるのか、黒い蛇の詰まった空間にいるのかわからなくなりそうだ。
「水はなにに弱いの?」
「土気じゃが、土気は悪霊の木気に弱い。そなたが土気を呼び出しても、悪霊の木気に喰らわれてしまうであろうなあ」
黒い蛇は雪比古に絡みつき、彼を覆いつくしていく。
(どうしたら……)
悲痛な泣き声が耳に蘇る。あなたたちが悪霊に敗北してしまったら、子どもたちの霊もまた、霊力を運ぶ新しい仕組みで苦しめられてしまうのだろうか。
……キャハハ、ワーイ……
……オカアサン、マッテルカナア……
不意に、子どもの声が聞こえてきた。
泣き声ではない。どこか明るい、楽しげな声だ。
声が聞こえたのと同時に、黒い蛇から黄金色のなにかが生えてきた。
木だ。小さな小さな木だ。
「なるほど。悪霊は片手を失ったことで弱っていた。それで、子どもらを封じていた水の霊力を呼び戻して、吾らを攻撃していたのじゃな。そして水生木。水気からは木気が生じる」
「雪比古くん、あの木は大丈夫なの?」
彼は、少し寂しげな表情で頷いた。
小さな木に、いくつもの丸い実が生った。黄金色で、なんだか風船のようだった。
黄金の実が膨らんで、黒い蛇ごとふわりと浮かぶ。
「あれは子どもらの霊。殺されて閉じこめられて霊力を奪われて、吾なら憎くて憎くてたまらぬ相手じゃ。なのに子どもらは、吾らを助けるためとはいえ、復讐もせずに悪霊をあの世へ連れて行こうとしておる」
「そんな……」
黄金の実が、黒い蛇をどこかへ運んでいく。
……オネエチャン アリガトウ……
……テングサンモ アリガトウ……
悪霊のことなどどうでもいいと、あなたは思った。
泣いていた子どもたちが笑っている。それだけでいい。
──やがて、あなたと雪比古は、壊れかけたアパートの一室にいる自分たちに気づいた。
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