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「……雪比古くんっ!」
あなたは体を丸め、昨夜出会った天狗の少年の名前を口にした。
どうしてかはわからない。自分でも無意識だった。
「ふわあ」
場違いなアクビが聞こえて、あなたは顔を上げた。
陶器の人形のように端整な顔をした、華奢で背の高い少年が、あなたと蛇の間にしゃがんでいる。
彼は青いストライプのパジャマを着て、三角形のナイトキャップをかぶっていた。
あなたは今の状況を忘れて聞いた。
「まだ寝てたの?」
雪比古は首肯する。まだまだ寝足りないと言いたげな顔だ。
それから背中の白い翼を広げ、あなたを抱いて飛び上がった。
黒い蛇があなたたちを見上げる。
宙に浮かんだ雪比古を追う蛇の体表は波打っていた。どうやら水でできているらしい。
「あ……助けてくれて、ありがとう」
「召喚されたモンスターは、召喚した魔術師のしもべじゃからのう」
「それは魔獣園でしょう。雪比古くんはモンスターじゃないわ」
「妖怪よりモンスターのほうがカッコ良いではないか」
「雪比古くんがいいなら、それでいいけど」
「……あの井戸、穢れた水で子どもらの霊を封じておる」
「そうなの?」
悪霊の手を拾ったとき、あなたが聞いた泣き声は、あの井戸に封じられている子どものものだったのだろうか。
「悪霊を倒せば解放されるが、悪霊が戦っている間、いつも以上に霊力を搾り取られて痛い思いをするのじゃろうなあ」
「そんなのダメよ! なんとかできないの?」
「イエス、マスター」
「魔獣園ごっこはいいって……」
「これから吾は二階へ上がって、子どもらの霊力を悪霊に運ぶ仕組みを壊してくる。そなたは気づかれぬよう蛇を引きつけて、吾が合図したら鈴を鳴らして井戸に木を生やしてくれ。木は水から生じる。あの蛇と子どもらを封じる井戸の穢れた水が材料じゃ」
「任せたわよ。……マイモンスター」
「イエス、マイマスター」
嬉しそうに微笑んだ彼に手を離されて、あなたは腐った畳に落ちた。
黒い蛇があなたに顔を向ける。
ここは悪霊の結界の中、幻の世界だ。
あなたに呼び出された雪比古も実体ではない。
彼が天井を通り抜けて二階へ上がるのを待って、あなたは立ち上がった。
蛇を睨みつける。畳を横切る黒い体の先は井戸に消えていて、尻尾は見えない。
(完全に井戸から抜け出すことはできないみたいね)
さっき天井を飛び回っていたあなたたちにも、後ちょっとが届かないようだった。
あなたは蛇との距離を測りながら、室内を走り回った。
(……合図はまだかな。疲れてきちゃった。実体がなくても走ると疲れるんだなあ)
ぼんやり疲労を感じ始めたころ、蛇の後ろに白く小さな光が瞬いた。
窓からの光を反射した、雪比古の羽だ。
くるくると舞う羽根に合わせて、シャラシャラとガラスを擦り合わせるような音がした。
あなたは強い思いを籠めて鈴を揺らす。
「水生木」
蛇の皮膚の下、波打っていた水が激しく流れ始めた。
(失敗?)
蛇の体が破れて、飛び出したのは水ではなかった。
緑色の葉をつけた枝だ。
無数の枝を伸ばした木が、内側から蛇を破り天井へと伸びていく。
根っこは井戸につながっていた。
……ワア キ ダ……
……コレデ オカアサンノ トコロヘ カエレルネ……
……オネエチャン アリガトウ……
……テングサンモ アリガトウ……
子どもの声がしたけれど、姿は見えない。
いくつもの丸い光が黄金色に輝いて、木を登っていく。
霊力の木に鈴なりになった黄金色の果実は、ひとつ、またひとつと消えていった。
最後に残ったのは、楽しそうな笑い声だけだ。
(えっと……鈴を鳴らしても退魔師さんたちが来ないってことは、わたしと雪比古くんでなんとかしなくちゃいけないってことだよね?)
あなたは気づかないうちにあふれていた涙を拭い、部屋を出た。
軋む階段を上がって、雪比古のいる二階へ向かう。
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