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「……若丸くんっ!」
無我夢中で部屋の外に出たあなたは、体を丸めて昨夜出会った鬼の少年の名前を口にした。
どうしてかはわからない。自分でも無意識だった。
「呼んだか?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
獅子のように猛々しい赤い髪を後ろでひとつにまとめた、大柄で筋肉質の少年が、あなたを庇って眼前に立っていた。
彼は退魔師の弟子とは違うデザインの学生服を身に纏っている。
「どうして?」
「お前が助けを求めたんだ。名前ってのには力がある。俺たち妖怪は、お前みたいに霊力の強い人間に呼ばれたら逆らえねぇ。……それだけじゃねぇけど、よ」
「ご、ごめんね。わたし、あの……」
「謝んな。力を制御できないって決めつけられて、お前に同行すんのを禁じられてムシャクシャしてたんだ。お前に呼び出されたんなら、退魔師どもも文句言えねぇだろ」
「でも……」
どごっ!
激しい破壊音を響かせて鉄の扉を壊した蛇が、外廊下に首を伸ばしてくる。
黒い鱗が波打っていた。この蛇は水でできている。
「でも、とか言ってる場合じゃねぇ。この蛇は水の霊力でできてる。んで、俺は炎の赤鬼だ。……どういうことかわかるか?」
あなたは記憶を手繰り寄せる。
昨夜悪霊の手を浄化したとき霊力の属性に関する法則として、霊力を生じ合う『相生』とともに、害し合う『相剋』についても簡単な説明を受けていた。
「水は火を消してしまう?」
それは五行を知らなくてもわかる、当たり前の現象だ。
若丸は太い眉毛の間に皺を寄せて首肯した。
老けて見えるし鬼だけど、彼とあなたは同い年。同じ十代だ。
「た、大変じゃない! どうするの?」
「慌てんな。霊力も物質も同じだ。充分な炎があれば、水を蒸発させることができる。ってことは、だ。お前がその鈴で放つ霊力はなんだと思う?」
あなたは鈴を構え、答えた。
「火」
若丸は口角を上げ、学生服に似合わない苦みばしった笑みを浮かべた。
ふたりで黒い蛇を睨みつける。
あなたは思いを籠めて鈴を揺らした。
澄んだ鈴の音が響き渡る。
黒い蛇の体表が、ところどころ白くなった。
熱気を感じる。蛇の体内で水が沸騰しているのだ。熱湯が白く泡立っている。
苦痛を感じているのか、蛇がのたうつ。
黒い蛇体が暴れると、アパート全体が揺れた。頭上から、ガラスが割れるような音が聞こえてくる。
──やがて、蛇は白い水蒸気と化した。
若丸があなたを見る。
「んじゃ行くぞ」
「どこに?」
「俺の霊力があるから、今鳴らした鈴の音は外には響いてない。改めて退魔師を呼ぶ必要はねぇ。俺たちだけで悪霊を退治しに行くぞ」
あなたは悪霊の手を拾ったときの悲痛な泣き声を思い出していた。
「……そんなの、大丈夫なの? 悪霊を退治できたとしても、犠牲にされた子どもたちが救われないんじゃ嫌。プロに任せるべきだよ」
「つってもよ、この蛇を倒したことで悪霊は俺たちの存在に気づいたぜ? 鈴を鳴らして退魔師どもを呼び込んでも、それに乗じて逃げられる危険がある。このまま俺たちで倒しちまうほうが確実だぞ」
あなたは若丸を見つめた。
彼はなぜか頬を赤らめて顔を逸らす。赤鬼だから元から赤かったのだろうか。
「……わかった。そういうことなら、このまま行こう」
「おう。あ、でもちょっと待て」
若丸は扉の残骸を踏み越えて室内に入り、井戸の傍らに膝をつく。
追いかけて中に戻ったあなたは、隣にしゃがみ込んで聞いてみた。
「この井戸ってなに?」
「呪術の一種だ」
「呪術?」
「霊力を絞り取るために、穢れた水で子どもの霊を封じてやがるんだ」
「ひどい……」
「大丈夫だ」
若丸は年相応の笑みを浮かべた。
「悪霊を退治するまでは完全に解放できねぇが、俺の炎で浄化しておけば、退治次第あの世へ逝ける」
あの蛇は封じた子どもたちを見張る番人だった。
この部屋で放たれた霊力は呪術で悪霊に運ばれていて、中で蛇と戦っていたら危なかったらしい。
番人を倒したことで呪術は壊れた。頭上から聞こえてきた、ガラスの割れる音がそうだったようだ。
彼が井戸を浄化するのを待って、あなたたちは部屋を出た。
軋む階段を上がって、二階へ向かう。
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