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「……一平くんっ!」
無我夢中で部屋の外に出たあなたは、体を丸めて昨夜出会った河童少年の名前を口にした。
どうしてかはわからない。自分でも無意識だった。
「大丈夫か?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
短く刈った黒髪、細い眉と目、高身長ではないものの逆三角形に鍛えた体。
茶色いブレザーを纏った少年があなたの前に立ち、蛇を制していた。
昨夜のジャージもだったけれど、このブレザーにも見覚えがある。
というより、今あなたが着ている学校制服と同じものではないだろうか。
しかし、そんなことを追究している場合ではない。
「う、うん。でもなんでここに?」
「……あんた、俺の名前を呼んだだろ? 名前には力がある。特に俺たちみたいな妖怪には、霊力を持つ人間の呼び声は呪文と同じだ。どこにいても、こうして呼び出されてしまうんだ」
「ご、ごめんなさい。わたし、怖くて思わず……」
「謝ることはない。自分の修行不足が原因とはいえ、この件に最後まで関われないのは悔しかったんだ。呼んでくれて、ありがとう」
「そんな……わたしも、呼ばれてくれてありがとう」
どごっ!
激しい破壊音を響かせて鉄の扉を壊した蛇が、外廊下へ首を伸ばしてくる。
黒い鱗が波打っていた。この蛇は水でできている。
「昨日は『相生』で悪霊の手を浄化したよな。あのとき少しだけ『相剋』についても説明したと思うんだが、覚えてるか?」
あなたは記憶を掘り返した。
「えっと……生じ合う『相生』とは逆に、害し合う関係だよね。木は土を抉り、土は水を堰き止め、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属の斧は木を切り倒す?」
「そうだ。まあ現実ではそうとも限らないし、霊力でも力の差が大きければ属性を無視できるんだが、基本はそうだ。……コイツは水だ。なにに弱いと思う?」
あなたは鈴を構え、答えた。
「土」
一平が頷く。
あなたは黒い蛇を睨みつけ、鈴を揺らした。
「土剋水」
澄んだ鈴の音と同時に、少年の声が響き渡る。
黒い蛇の体表が、ところどころ白くなった。
いや、白ではない。蛇の体内に黄色い土が生じているのだ。
苦痛を感じているのか、蛇がのたうつ。
黒い蛇体が暴れると、アパート全体が揺れた。頭上から、ガラスの割れるような音が聞こえてくる。
──やがて、蛇は泥の塊となって崩れ落ちた。
一平があなたを見る。
「どうする?」
「え?」
「今の鈴の音は俺の霊力が邪魔して外には聞こえてないと思う。俺が霊力を抑えるから、もう一度鈴を鳴らして外に連絡するか? それとも、このままふたりで悪霊を退治するか?」
「……どちらのほうが確実かな?」
あなたは悪霊の手を拾ったときの悲痛な泣き声を思い出していた。
「このまま俺たちで退治するほうだ。外のふたりは実力者だが、実体を持つ人間だ。あんたのように悪霊とのつながりもない。ふたりが入ってくるために結界を開いた隙に、悪霊が逃げ出す可能性がある」
あなたは一平を見つめた。
「……一平くんは、いいの?」
「ああ。さっき言ったろ? 最後まで関われないのは悔しいって」
「じゃあ、お願い。一緒に悪霊を退治に行って」
一平は頷いて、室内の井戸に目を向けた。
壊れた鉄の扉を踏み越えて、中へ入って行くのを追いかける。
「ちょっと待ってくれ。決戦の前にここを浄化しておく」
「この井戸って、なんなの?」
「悪霊の金庫だ」
「金庫?」
「穢れた水で子どもたちの霊を封じ込めてる。さっきの蛇は金庫の番人だ」
この部屋で放たれた霊力を悪霊に運ぶカラクリがあり、中で蛇と戦っていたら危なかったらしい。
番人を倒したことでそのカラクリは壊れた。頭上から聞こえてきた、ガラスの割れる音がそうだったようだ。
「そうなんだ。ねえ一平くん。井戸を浄化したら、子どもたちは助かるの?」
あなたの問いに、一平は首を横に振る。
「まだ無理だ。井戸を浄化しても、ここが悪霊の結界内だということに、変わりはないからな」
彼が井戸を浄化するのを待って、あなたたちは部屋を出た。
軋む階段を上がって、二階へ向かう。
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