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あなたたちは、キィキィと啼くように軋む錆びた階段を通って、二階へ上がった。
西の角部屋へ向かって歩き出す。
ここが幻の世界だなんて不思議だ。風は凪いでいるけれど、空は青く太陽は眩しい。
あなたの隣を歩いていた若丸が、太い眉を歪めた。
「……なあ」
「どうしたの?」
「悪霊は俺たちに気づいてる。お前だけなら気づかなかったかもしれないが、俺も呼び込まれちまったからな」
彼を引き寄せたのはあなただ。
「まさかとは思うが、俺が来たこともアイツの計画通りなのかもしれねぇ」
「そんなことあるのかな?」
あなたは鈴を見た。
この鈴に思いを籠めれば、きっとどんな霊力でも発することができる。
しかし予測されていたら効果は薄いだろう。
若丸の大きな手が鈴を握るあなたの手に近づいたかと思うと、戻っていった。
(? なにがしたかったのかな? 手の運動?)
「若丸くん?」
鬼の少年は、厳つい顔をあなたから逸らした。
「あー……『相剋』って覚えてるか?」
「うん。金剋木、金属の斧は木を切り倒す。悪霊は木気だから、金気に弱いんだよね。わたしの手に爪を立ててたから、昨夜は『相生』で時間をかけて浄化してくれたけど」
あなたの手の平には実体と同じ爪痕が刻まれている。
物理的な傷とは違う。霊的な刻印だ。
「そうだ。俺たちが金気を使うことは、向こうも予測してる。だからたぶん、水気で反撃してくるはずだ」
「水気? 若丸くんが火気だから?」
「それもあるし、『相生』では水気が金気から生じるけどよ、物理じゃ水に濡れた金属は錆びるだろ? 五行は絶対じゃねぇし、実体のない幻でも姿を似せた現実に引きずられる。俺らに一番水気が効果的なのは間違いねぇ」
「じゃあ水気に対抗して土気を放つ?」
「それじゃ堂々巡りだ。五行は流転してるんだぜ。お前は金気を放ってくれ。俺が火気で相手の水気を蒸発させる。……危ないけどな」
「わかった」
「わかったって……お前、それでいいのかよ」
「だってわたし五行に詳しくないし、ずっと助けてくれた若丸くんのこと信頼してるし……うん、この計画に異論はないよ」
「バーカ」
赤鬼は拗ねたように言って、西の角部屋の前で止まった。
──視線で合図を交わし、ふたりで扉を開ける。
ぐにゃりと世界が歪む。
幻のアパートが消えて、あなたたちは暗闇に放り出された。
腕組みをした男が、こちらを睨みつけている。
彼には、片腕の手首から先がない。昨夜、あなたたちによって浄化されたからだ。
激しい憤怒が渦となって押し寄せる。
目の前の悪霊の怒りが、青い蛇となってあなたに襲いかかる。
リィー……ン……
あなたは若丸を信じて鈴を鳴らした。
鈴の音が白い光になり、光は何本もの矢に変わり、青い蛇に降り注ぐ。
月光を思わせる白は、悪霊の木気を倒す金属の色だ。
男が笑うのがわかった。
蛇の色が変わる。青から紺、紺から黒──蛇は金属を錆びつかせる黒い水に覆われた。
「……っ」
黒く錆びてボロボロと崩れていく白い光の矢を見て、あなたの体が凍りついた。
背後に立つ若丸が、低い声で囁く。
「……炎は金属も溶かしちまう。どうか保ってくれよ」
あなたは頷き、白い光の矢に祈りを籠める。
蛇を包んだ赤い炎は黒い水を熱して、焦げた匂いと煙を立ち昇らせた。
溶けた金属の雫がこぼれ落ちて煌く。
小さな小さな白い光のかけらが、守りを失った青い蛇を貫いた。
断末魔の叫びが響き渡る。男は黒い霧になって、消えた。
「……勝ったのか?」
「だと思う」
「そうか。くそ、思ってたより危険な賭けで悪かったな」
溜息をついて、若丸が座り込む。
あなたは自分の手の平を見た。そこにはもう、悪霊の刻印はない。
錆びた階段を上がる軋んだ音が聞こえてくる。
悪霊の作った幻の世界が消えて、現実に戻ったのだ。
仕組みはよくわからないが、あなたも彼も実体を持ってアパートにいた。
彼が元いた場所では、いきなり消えたと驚かれているだろう。
やがて退魔師たちが現れて、いるはずのない鬼を見て目を丸くした。
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