11
「あの……」
バスケット少年に声をかけて、あなたは後悔した。
声をかけられて驚いた彼の手が伸びたからだ。
リバウンドし損ねたボールを追う腕が、ジャージの袖から飛び出して伸び、逆の腕は縮んでジャージの袖が垂れ下がる。普通の人間にできることではない。
「ああ、またやっちまった」
腕の長さを元に戻し、彼はあなたにふり向いた。
細い目と眉を持つ顔は、表情に乏しいように感じる。
「なんか、用?」
「え、え~っと、ウ、ウサギ知りませんか?」
「ウサギ? 探してんの?」
頷くあなたに彼は首を横に振る。
「見てないな」
「そ、そうですか。失礼しました。それではこれで……」
「待てよ」
「な、なんですか?」
腕が伸び縮みする少年が尋ねてくる。
「あんた、腹が減ってんじゃないか?」
言われて、あなたは自分がひどく空腹なことに気づいた。
「サンドイッチがある、食えよ」
「え、あの……」
「夜更けにこんな場所でシュート練習してる男が信用できないのはわかるが、自分の家の近くに死体を転がしたくないんだ。ひとりで行動したいなら止める気はない。だけど、せめて腹ごしらえはしていけ」
あなたが答えるより早く、彼はゴールポストの下に置いてあったバスケットケースを持ってきた。よほどバスケットが好きらしい。
「ほら」
少年が突き出すバスケットの中には水筒と、ラップに包んだサンドイッチ。
ほんのりと、美味しそうなしょう油とマヨネーズの匂いがした。
腕が伸び縮みする以外、彼は普通の男の子に見える。
バスケットをするには低めの身長ではあるものの、あなたよりは高い。
少し表情に乏しいけれど、鼻筋が通った整った顔は魅力的だ。
ジャージの袖から覗く腕は筋張っていて逞しかった。
「いただきます」
──気がつくと、あなたはサンドイッチを掴んでいた。
空腹に耐えられなかったのだ。
「……美味しい」
キュウリのサンドイッチだった。
ぶ厚く切ったキュウリと水気を抜いた豆腐をオリーブオイルで焼いて、ジャコを和えたしょう油マヨネーズを塗った固めのパンで挟んでいた。
気のせいか、パンからは桜の香りがする。
しょう油のしょっぱさが、夜の山を歩いて疲れた体に染みていく。
「キュウリって水っぽいだけだと思ってたけど、こんなに美味しいんだ」
少年はあなたから視線を逸らした。目の周りがほんのりと、赤く染まっている。
「……うちの畑で作ったんだ」
「あなたの家、農家なの」
狭霧山には確か、小さな村があるはずだ。
こんな山の中では、畑を作るだけでも大変に違いない。
「ああ、河童農場だ」
「……河童? この川と同じ名前なんだね」
「気づいてなかったのか」
彼はバスケットを持つ腕を伸ばし、逆の手を縮めた。
「河童は、手足の長さを調節できるんだ」
「そ、そうなんだ……」
足の震えは止められなかったけれど、あなたは逃げ出さなかった。
サンドイッチがお腹に落ちて、気持ちが落ち着いている。
(危害を加える気なら、いつだってできたものね)
「ほら」
伸ばした腕でバスケットを川原に置き、河童少年は自分のジャージを脱いで寄越した。
「ウサギを探すんだろ? この山にはスケベな鬼がいる。薄手のパジャマ一枚でうろついてると危ないぞ。それでも着てろ」
「あ、ありがとう」
「返さなくていいから」
ジャージを脱いだ少年は、逆三角形の体に黒いタンクトップを纏っていた。
バスケットボールよりも水泳に向いていそうな筋肉だ。
(あ、河童だからか)
「……良かったらウサギ探し手伝おうか?」
「う、ううん! ありがとう、ひとりで大丈夫」
「そうか。じゃあ気をつけて」
あなたは河童少年と別れ、また夜の森を歩き始めた。
しばらく歩いて立ち止まり、しずく型の石を見る。
さっき河童少年の申し出を聞いたとき、握った手に痛みを感じた。
(あれがなかったら、助けてもらってたかも)
感じた痛みは、恋人の嫉妬だったのかもしれない。
サンドイッチを食べて、あなたは自分の名前を思い出していた。
だけど亡くなった恋人の名前は、まだ、思い出せていない。
→48へ進む