彼女の青
「今、何て言った」
小刻みに震える頬を無理矢理上げて、俺は至極不自然な笑みを浮かべながら横にいる女に言葉を投げた。彼女はこちらを向いて、先程口にした言葉を改めて俺に言った。
「横浜に行くの、私」
ヨコハマ、と言い慣れない単語を牛のように反芻する。まるで遠い国の街のような響きに頭が少しぐらついた。
横浜に行く、というのは旅行なんかではないということぐらい、分かっている。しかし、もしかするとという非常に淡い期待を乗せて、尋ねてみた。彼女はまた俺から目を背けて遠くを見ながら、溜め息をつくように笑って首を横に振った。
「……そうか」
俺と彼女が生まれ、今日この瞬間まで生きてきたこの町とは全く違う横浜で、彼女はこれから生きていくのだろうか。
心配だ、と言えばきっとそれは俺の自分勝手な気持ちなんだろう。俺は大人になった。同時に、彼女も大人になったのだ。昔とは違うことぐらい分かっているつもりだ。
それでも、やはりこの町から彼女がいなくなることを考えていなかった俺は、困惑を隠しきれなかった。ポケットから煙草を取り出すと、「驚いたでしょ、あんたはいつも気持ちが揺れると煙草を吸おうとするんだもの」と彼女に言われてしまった。
彼女は、と言ってはいるが別に付き合っている訳ではない。だからといってただの友達ではない俺達のこの複雑な関係もあってか、俺は煙草を咥えたまま何も言い出すことができなかった。
言うなら今だろうか。いや、今更だろう。ここで言ったところで、彼女を困らせるだけだろう。俺がここに残れと言って残るようなやつではない。彼女の横顔が決心を物語っていた。
「……」
寂しさを感じるのは俺だけなのだろうか。彼女の表情からは何も分からない。
フィルターが湿り始めた煙草に、俺は思い出したかのように火を付けた。これは、彼女が好きだと言ってくれた数少ないものかもしれない。きつめの煙草で、吸いたての頃は咽せてばかりいてあまり格好がつかなかったものだ。
こんな時に限って、昔の出来事がわざとらしく浮かんでくる。ふうと吐く煙はいつもより苦々しい。気のせいではない。
「……横浜にはね、海があるんだって」
「海」
「そう、海」
俺達の町には海がない。海は見えない。だから、俺達にとって海っていうのは、憧れの場所だった。今となっては車を走らせれば数時間で海にだって行けるし、電車に乗っても青い世界を見に行くことはできるというのに、俺は、俺達は行かなかった。
行かなかったというより、行けなかったのかもしれない。誘う勇気が俺には無かった。中途半端な関係の俺たちが、二人きりで海を見に行くなんておかしな話だったから。今、それでも行っておけばよかったと悔やんでいる。
「……あのさ」
「うん」
彼女が見つめる空に、俺も目を向けた。そして、目線を下げれば彼女の指を彩る空色。俺よりもずっと小さく可愛らしい爪は、少し揺らいでいるようにも見えたがそれは俺の願望なのかもしれない。
彼女は決まって青が好きだった。俺が車を購入したとき、青色を選んだのは彼女が青を好んでいたからだ。今となっては、馬鹿なことをしたなと思う。
「何でもない」
「そう」
「応援するよ、俺は」
一体何を応援するのだろう。自分でも分からなかった。
彼女は新たな青に飛び込んでいくのだろう、俺には止められない。色づく空を見ながら、俺はもう彼女がいない車の中で新たな煙草に火をつけた。
「あー、もしもし」
そういえばスマートフォンも青色だ。どこまでも青に沈んでいたのは俺だったのだろう。
「オールペイントお願いしたいのですが。……はい、えっと……オレンジ色に」
男は目の前に見えたオレンジを選んだのか、青の補色であるオレンジを選んだのか、ご想像にお任せします。