愛してくれてありがとう
六月二十日。水曜日。放課後。明葉は市立図書館で数学の勉強をしていた。論理ではない。計算である。
論理ならば二十点とれることが判明してから――それでも明葉は勉強の手を休める気はなかった。
二十点では合格できない。
ましてや上位十位に入ることなど。
本気であった。
本気で受からなければどこの高校にも行かないつもりであったし、十位以内に入れなければ薙高にも行かないつもりであった。
追い込んだ――つもりはない。
わざわざ行くのだからそれぐらい当たり前だろう――ぐらいの考えである。
そこまで高校進学に拘るつもりもなかった。
行きたいところに行けないなら行かなくて十分だ。
もっと言えば元々明葉に進学の意思はなかった。
中卒で働くつもりだった。
家族もそれを望んでいた。
貧しい家庭というわけではない。
両親は大手企業の元社長令息と令嬢で実家には多額の資産があった。
けれども。
それを明葉に使うかどうかは別の問題らしい。
元々が駆け落ち同然に飛び出した二人。
結婚を認めさせるために作っただけの子供に――特に母親の――愛着は薄く――当然実家もそれを見て扱いをそれに倣う。
幼少期は流石に外聞を憚ってベビーシッターがついたものの、小学校入学と同時にそれもなくなり。
ふと気がつけば愛情云々以前に前に会ったのは何時だったかと記憶を探る日々。
少なくとも五年は父には会っていない――会わせてもらえていないし母には一年会っていない。
手をかける意味が分からない。
最後に会ったときそう母に言われた。
血が繋がっているというだけでなぜ面倒見てやらねばならないのか。
勝手に好きなように生きれば良いだろう。
まことにごもっともだった。
返す言葉が全くない。
生まれてこの方そんな関係がずっと続いている。
干渉しない。保護しない。
暮らすと家と光熱費その他諸々。あとは父がくれる僅かの生活費。
それだけの関係だ。
十分である。
これ以上何を望もうか。
こんなことを言うと母は嫌がるのだろうけどあえていうのなら――愛してくれてありがとう。
心から明葉は思っていた。
それはさておき。
計算問題である。
難問であった。
公式の応用に過ぎないならば論理と一緒だ。明葉には解ける。
しかし、薙高はその上を行くのだ。
難しい公式を使えば解けるというものではない。
問題の意図を理解して柔軟に考え抜く力が求められる。
今解いているのはフィボナッチ数列に関する問題である。明葉はフィボナッチ数列の一般式を覚えているがそれをどう使えば良いのか解らなかった。
使えば解けるんじゃないかなと言う気はする。
ここにいたって明葉は数学は公式を使えば解けると言うことに気がついていた。
無論中学レベルではダメだろう。しかし、公式だけなら明葉は大学レベルの物ですら記憶している。
これら全てを理解できれば――
必ずや受かる。その確信があった。
もっとも。
それをやればその時点で大学レベルの数学を一通り修めたことになるぐらいの難易度であることは間違いなかった。
それでも。
出来ないとは思わない。
それぐらいが出来ないと高校なんていけないだろう。
中学卒業と同時に生活費の支給は打ち切られることが決まっている。
こんな風にのんびり勉強できるのは中学が最後だ。
そこから先は働かなければならない。
高校、大学レベルまで中学生の内に達しておかないとあとが厳しい。
無理を言って高校に行くのだ。無茶をしなければならない。
諦めるつもりはない。
行くのだ薙高に。
と、そうしてカリカリと勉強する明葉の前の席でカタリと音がした。
見上げれば人影。
遠藤雪菜だった。
母とはこんな感じ。父親はまたちょっと違う感じです。




