「――それで良いのよ」
遠藤家
七月二日。月曜日。午前五時。遠藤家。
起き出した明葉は台所に向かった。
雪菜は隣ですうすうと寝息を立てている。いつもの女優然とした自信あふれる表情が消えてずいぶんとあどけない寝姿だ。
自分もこうなのだろうか? 明葉には分からない。
「おはようございます」
「おはよう明葉ちゃん」
思った通り台所には先客がいた。雪菜のお母さんだ。
「お手伝いします」
「あら、ゆっくりしてて良いのに」
雪菜のお母さんはコロコロと笑う。
この人の笑顔は好きだ。本当に。
「じゃあ、ご飯冷ましてくれる? この時期は痛みやすいから……」
「はい」
そう言って明葉は炊飯器からお弁当箱にご飯をよそう。
雪菜の分と雪菜のお父さんの分。二つとも二段重ねのお弁当箱でご飯を入れるのは下の部分だけだ。
ご飯を入れたらパタパタと団扇で扇いでご飯を冷ます。温かいままだと痛みやすくなるからだ。
扇ぎながら聞きたかったことを聞く。
ずっと前から聞きたかったことだ。
「……あの、妬ましくは無いんですか? 雪菜のこと」
「……? どういう意味かしら?」
不思議そうな顔をする雪菜のお母さん。――演技には見えなかった。
「雪菜、美人で可愛くて若くて女優の才能まであって――妬ましくはないんですか?」
「私が、雪菜を妬んでるか……、ってこと?」
きょとんとした顔のまま卵焼きを作る手は止めない雪菜のお母さん。
美人で綺麗だけど――雪菜には無い老いが見える。
彼女がもう失ってしまった未来と可能性を――雪菜はまだ持ってるのだ。
「……まあ、羨ましくはあるわね。私がこうしてお弁当の用意をしてる間もあの子はぐーすか寝てる訳だし」
「雪菜が失敗すれば良いのにとかは思いませんか?」
「……明葉ちゃんは思うの?」
卵焼きをまな板の上で冷ましながら雪菜のお母さんは明葉の方を見る。
その顔は全てを許すように優しく微笑んでいて――『お母さん』の顔だった。
「私は……雪菜には成功してもらいたいです。でも、『お母さん』って『娘』に対してもっとドロドロしたものがあるでしょう?」
「明葉ちゃんちはそうなの?」
雪菜のお母さんはまた卵焼きを作りながら言う。
雪菜用の甘い卵焼きとお父さん用の出汁をきかせた卵焼き。
雪菜のお母さんはいつも二種類の卵焼きを作るのだという。手間かかるだろうに。面倒だろうに。
「私の『お母さん』は――『あの女』は私のことを妬んでるし――憎んでますよ」
「……理由を聞いても良い?」
出汁の入ったふわふわの卵焼きを器用に巻きながら雪菜のお母さんは言う。
「私がお父さんのお気に入りの『お人形』だからです。自分の好きな相手が執着するただ一人だからです」
「お父さんは明葉ちゃんのこと好きなのね……」
「はい、仕事と『あの女』の次くらいには。――ご飯冷めました」
「……じゃあ、きんぴらをおかず入れの方に入れてくれる? 雪菜きんぴら好きだからたっぷりね」
「はい」
明葉はタッパーに入れられたきんぴらを雪菜のおかず入れの三分の一ほどにたっぷりと入れる。
ピーラーでふんわりと仕上げられたきんぴらをこれでもかと盛りつける。
「唐揚げは私がやるから、ほうれん草の胡麻和えカップにいれて置いてね」
「はい」
雪菜のお母さんは粉をまぶした鶏肉を取り出す。
「……明葉ちゃん手際良いわねえ」
「ずっと一人だったもので」
「……ずっと?」
「五年前から、です」
明葉九歳の時。雪菜と和解した年。
「……そう。ねえ、明葉ちゃん」
「なんでしょうか」
「あなたさえ良ければ――ずっとこの家にいてもらっても良いのよ?」
きんぴらをよそう手が止まった。
「……それは、その、お父さんも同じ意見で……?」
「そう。ご両親のご意見もあるでしょうし簡単にはいかないかもしれないけど――それでも、私たちはあなたの味方だって覚えておいてちょうだい」
唐揚げを揚げる手を止めぬまま雪菜のお母さんは明葉の方を振り返った。
『母親』の顔だった。
「雪菜のことが妬ましくないのかと言ったわね? 答えはいいえ。私はあの子の母親だもの――あなたのことも同じ。お母さんに任せなさい!!」
包み込まれるようなそんな笑顔だった。
『あの女』も『お父さん』も見せたことのない笑顔。
「わ、私は遠藤さんご家族とはなんの関係もありません!!」
「雪菜の親友でしょう? あの子はずっとあなたのことイジメてたし……。慰謝料代わりと思って頂戴」
「…………スキャンダル対策ってことですか」
遠藤雪菜はクラスメイトをイジメていた。
理由がどうであれそれは女優としては致命的なスキャンダルになりかねない。
それならば、先手をうって美談に仕立てた方が利口だ。
ちょうど良いことに明葉は虐待されているのだ。
「……そう言うことだけ、ではないのだけどね」
唐揚げは二度揚げが命だ。
雪菜のお母さんも一回低温でじっくり上げた唐揚げを高温の油に戻した。
「あなたはもっと周りに甘えた方良いのよ……。無論本当のご両親の方が良いのだけどね」
「お話はありがたいですが……良いです」
ほうれん草の胡麻和えをシリコンカップに取り分けながら明葉は言う。
「遠慮しなくて良いのよ?」
「七月八日に薙中の編入試験があるんです。それに受かれば九月から薙中の寮に入れます」
そのことを知ったのは高橋先生に奨学金の資料をもらった時だ。念のためにと願書だけ出しておいたのだが――正解だったようだ。
「成績次第では奨学金ももらえるそうですし、大丈夫です」
「……そういうことじゃないのよ」
からりと揚げた唐揚げをバットの上で油を切りながら雪菜のお母さんは首を振った。
「住む家があって食べていけるってだけじゃダメなの。信用できて頼りになる大人がいなくちゃ生きていくの大変よ?」
「信頼できる人ですか……」
光さん……あの人は仁ノ宮さんを取るだろう。
お父さん……あの人はきっと仕事か『あの女』をとるだろう。
兄様……絶対に裏切らないと確信できるが頼りにならない。
結論:男なんてろくなモンじゃない。
「……いなくても大丈夫です。私は一人で生きていけます」
「少しは信用して頂戴な。私は雪菜の次にあなたを思ってるつもりよ?」
「二番目はもう良いです!!」
思わず大きな声が出た。
もう、うんざりだった。
「一番じゃ無かったらなんの意味もないんですよ!! 一番じゃ無かったら結局すぐに切り捨てられるんです!!」
「――じゃあ、明葉ちゃんは誰が一番大事?」
唐揚げと卵焼きをおかず入れに入れながら雪菜のお母さんは静かに問うた。
「……私は、私はっ!!」
私は――!!!
「……私は、私が一番大事です」
なんて、ちっぽけで惨めな自分。ただ欲しがってるだけの子供だ。
与えることなんてちっとも出来ないのに欲しい欲しいと欲しがってばかりだ。
「――それで良いのよ」
見上げれば。
明葉の頭に雪菜のお母さんの手が置かれていた。
暖かな肯定。優しい容認。
「今はいっぱい自分を愛してあげなさい。あなたがあなたの味方でいなくちゃ」
ぎゅっとそのまま抱きしめられた。
温かい。
温かいだけが全てではないけれど――それでも。
凍り付いた心が溶けだしてくるくらい温かった。
「さあ、朝ご飯にしましょう? 今日は明葉ちゃんのお陰で早く片づいちゃった。ベーコンはカリカリが好き? 卵は目玉焼きで良いかしら?」
「え、えっとベーコンはカリカリで、目玉焼きは半熟でお願いします」
「じゃ、ダイニングで待ってて。お客様なんだから、少しはゆっくりして頂戴」
「え、あ、は、はい……」
今更ながらに恥ずかしくなって慌てて明葉はダイニングに行った。
ベーコンの焼ける音が軽快に聞こえてきた。
暖かいだけが全てではないけれど――それでも。
暖かさには――愛がある。




