序
ここは空気が清浄な場所だった。だけど、なぜ清浄なのかを知っている人間は少ない。
ここは『聖域』
人であり人でない者達によって創られた場所。
聖域であることが忘れ去られ、今は私立学園が建てられていた。
月見里学園。幼等部から大学部までを同じ街に創り、初等部より寮を完備し高等部のみ全寮制となっていた。
また、学園は山に立ち、初等部、中等部とだんだんと高い場所に建てられ、高等部が一番高い場所となり天上界(景色が綺麗なことと、行くまでに息が切れてあちら側が見える(苦笑)と)と言われていた。
俺の名は一条雅樹。考古学者の両親と放浪癖を持つ大学生の兄をもつ、高等部2年生。ほぼ幽霊部員の科学部の部長となり、自分の好きなように実験を行う日々を送っている。
「雅樹先輩、あそこの桜って綺麗ですよね」
理科実験室にて怪しげな実験を行っている最中に、後輩の斉木涼子が桜の話を振ってきた。
「あそこって?」
「ここの頂上付近にある桜ですよ。樹齢が千年近いって有名じゃないですか。幼等部からここにいるのに知らないんですか?」
「ああ、あそこね」
「この前、みんなで見に行ったんですよ。とても綺麗でしたけど、綺麗すぎてなんか怖くなっちゃいましたよ」
確かに、あそこの空気は澄んでいる。普通の人なら、そこが空に近いから、郊外にあるから空気が澄んでいるのだと感じることだろう。だが、あそこは『聖域』と呼ばれる特別な場所だった。
時代の聖なる守人、『四神』が集う場所。
俺がそれを知らずに行ったのが、中等部を卒業した春休みだった。
中等部を卒業し引っ越しもすみ、高等部入学までとくにやることもなかった俺たちは暇を持て余していた。そして、今まで行ったことのない高等部の先にある桜を見に行こうということになった。
そこには、俺たちを圧倒する雰囲気と凛とした空気の中に悠然として桜たちが存在していた。
「すっげー。なんて言ったらいいか解んないな」
「なんだか、怖いくらいだな」
桜の雰囲気に圧倒されつつ、口々に感嘆の声を上げる。
俺は『主の桜』と呼ばれる樹齢千年近いと言われている桜に視線をむけた。と、そこには年齢不詳の青年が桜の前に立っているのが見え、目が合った、と思った瞬間、背筋が寒くなった。
「どうした?」
何も言わなくなった俺をルームメイトの藤井芙雪が不思議そうに覗き込んだ。
「人が…」
青年から目をそらすことができないまま、一言だけ呟いた。
「人?俺たち以外いないぜ?」
不思議そうに芙雪は、俺がみている方向に視線を凝らす。が、芙雪の眼には『主の桜』しか映りはしなかった。
不意に青年の目が険しく細められると、俺の身体に激痛が走った。
「雅樹、おい、大丈夫か」
苦しそうに座り込んだ俺に、誰かの心配する声がかかる。
心臓を握りつぶされるような、そんな感じがして、額には玉のような汗が浮かぶ。
「先生呼んでくるから、ここに…」
「いいっ。ここ…に、いたくない」
俺の肩に置かれた手を、しっかりと握る。顔を上げると芙雪の心配そうな顔が見えた。何故だかわからないけど、ここに居たくはなかった。ここにいたらもっと苦しくなる…いや、殺される。そう確信した。
俺の必死の態度に、芙雪はため息をついた。
「しょうがない、ほら、背中に乗れよ」
そういって、俺を背負って高等部の寮へと降りて行った。
「雅樹、大丈夫か?」
「んー。もう全然平気。痛くもない」
高等部の寮に戻るころには、痛みは消失していた。しかし、あんだけ苦しんでいたのになんともないといっても信じてもらえず、強制的にベットに連行されていた。
「取りあえず、寮長に相談してくるよ。それにしても、お前身体弱かったっけ?」
「いや。健康だとおもってるけど」
生まれてこの方、こんな痛みに襲われたのは初めてである。
俺の中に一つの仮説が浮かび上がる。
あの痛みは、『主の桜』の下にいた青年が原因ではないか、と。青年が俺を見る目は、驚きのあとに敵意に変わっていた。敵意、というかあれは憎しみだった。何か大切なものを奪われたかのような視線。しかし、俺には覚えがない。あの青年にだって、見るのは初めてだ。
やだなぁ。こういうのって『祟り』とかいうんじゃね?もう、あそこに近づかないようにしないとな。
このときは、これくらいにしか考えていなかった。
結局、あれが俺の『樹』としての覚醒の誘因となったんだよな。
あの場所は現世『四神』の会合場所だから、あんなにも空気が清浄だったんだ。そして、俺は記憶はなくても彼らの敵側の人間だったせいで攻撃されたんだよな。今思えば、あの程度でよく済んだなと思う。
苦笑を浮かべた俺を斉木が不思議そうに見た。
「先輩、何笑ってるんですか?」
「んー。思い出し笑い。あそこの桜にはいろいろと深い縁があったな、ってね」
「思い出し笑いって、スケベの証拠ですよ。何があったかなんて野暮なことは聞きませんが、いまさらな関係でルナを悲しませないでくださいね」
斉木の口調がきつくなる。どうやら、桜の深い縁が色事だと思われたらしい。
「斉木、勘違いだぞ。そういう意味じゃ…」
「まだ、何も言ってませんよ。慌てて弁解するとか、怪しいことこの上ないです」
「…はいはい。すきにしてくださいまし」
俺は肩を落として自分の実験に向うことにした。