「君の刺繍は暗い」と婚約者が言うので、喪章専門の刺繍屋を開いたら、辺境伯閣下が毎週通ってきます
「ベルティーユ。君の刺繍は暗い」
婚約者のジルベール様は、わたしが差し出したハンカチを指先でつまんで広げた。
紺の麻の布に、銀の糸で冬の枝を刺したもの。葉の落ちた細い枝に、小さな芽が三つだけついている。半月かけて仕上げた。母が教えてくれた、一本の糸を二度撚り直して光を抑える刺し方で。
「夜会の前に、もっと明るいのはないのか。薔薇とか、苺とか。こんな枯れ木の刺繍を僕の上着の胸に挿して歩けというのかい」
「……冬の枝です。春を待っている枝で」
「どっちでも同じだよ。地味で辛気くさい」
ジルベール様はハンカチをテーブルの上に放った。銀の糸が窓からの光を受けて一度だけ鈍く光った。
「マノワール子爵家のエマニュエル嬢を知っているかい。あの人の刺繍は見ているだけで楽しくなる。色が多くてにぎやかで。君もああいうのを習ったらどうだ」
わたしはテーブルの上のハンカチを見下ろした。
知っている。エマニュエル嬢の刺繍は、赤と黄色と桃色の糸をこれでもかと重ねた花ばかりだ。ジルベール様はこの半年、夜会のたびにあの人と踊っている。
それも知っていた。
「……習いません」
自分の声が思ったより静かに出た。
ジルベール様が眉を上げた。
「何だって?」
「わたしの刺繍は母に習いました。母は明るい糸を使わない人でした。わたしも、この刺し方が好きです。やめません」
ジルベール様はしばらくわたしを見ていた。それから、肩をすくめてため息をついた。
「そうか。なら、話は早い」
ジルベール様は上着の内側から、一通の封書を出した。もう、封蝋が押してあった。
「婚約は解こう。父上にも話は通してある。君の家には、明日、正式に届く」
用意してあったのだ。今日わたしが何と答えても、これを出すつもりだった。
膝の上で両手を握った。爪が手のひらに食いこんだ。
泣かない、と決めた。泣いたら、この人は「やっぱり辛気くさい」と言う。
「……承知しました」
わたしは立ち上がって、テーブルの上のハンカチを拾った。紺の麻の布。冬の枝。三つの芽。
「これは持って帰ります。ジルベール様の胸には、似合いませんから」
ジルベール様は何も言わなかった。
扉を閉めてから、廊下の窓辺でハンカチを胸に押し当てた。
息を吸った。吐いた。
涙は出なかった。そのかわりに、指がふるえて止まらなかった。
ラヴァル伯爵家の次女に生まれて二十二年。
母が亡くなったのは、わたしが十五の冬だった。
母は王都の外れの、小さな刺繍の工房の娘だった。父に嫁いでからも針を手放さなかった。父の古い外套の裏に。わたしの寝間着の襟に。それから、近所の人たちが持ってくる、黒い布に。
――喪章よ、ベルティーユ。
小さかったわたしに母はそう教えた。
――大事な人を亡くした人が、腕に巻く黒い布。その人の名前と、その人が好きだったものをひとつだけ刺すの。明るい色はいらないわ。悲しいときに明るい色を見ると、置いていかれた気がするでしょう。だから、銀か、灰か、夜の青。光らないように糸を二度撚り直して。
母は頼まれれば、誰の喪章でも刺した。代金はほとんど取らなかった。
母が亡くなったとき、わたしは、母のための喪章を自分で刺した。名前と、母が好きだった、冬の枝。
あれから七年。わたしの刺繍はずっと、母の刺し方のままだ。
婚約が解けた翌週、父の書斎に呼ばれた。
「ベルティーユ。……すまなかった」
父は机の向こうで白髪の増えた頭を下げた。
「ブランジェ家との縁談は私が急かした。おまえの母が死んで、早く片づけてやらねばと思っていた」
「お父様のせいではありません」
「次の縁談は少し待とう。……何か、したいことはあるか」
わたしは膝の上で手を組んだ。
言っていいのだろうか。伯爵家の娘が言うことではない。でも、父は、したいことはあるか、と訊いた。母が亡くなってから初めて訊かれた。
「お母様の工房をもう一度、開けたいんです」
父の目が大きく見開かれた。
「喪章を刺す店を。お母様が亡くなってから、近所の人たちが、ずっと困っていると聞きました。王都の仕立て屋は、喪章を引き受けても、名前を刺すだけで何日も待たせるそうです」
父は長いあいだ、黙っていた。
それから、机の引き出しを開けて、古い鍵を一本、わたしの前に置いた。真鍮の、少し曲がった鍵。
「おまえの母の工房の鍵だ。七年、開けていない」
父の声が少しだけかすれた。
「……埃だらけだぞ」
「掃除します」
わたしは鍵を両手で握った。冷たかった。でも、握っているうちに、手のひらの熱で、少しずつ温かくなっていく。
工房は王都の東の、坂の多い下町にあった。
間口の狭い二階家の一階。扉を開けると、黴と古い糸の匂いがした。作業台の上に、母が最後に刺しかけていた喪章が、針を刺したまま残っている。
わたしはその針をそっと抜いた。
掃除に三日かかった。窓を磨いて、床を拭いて、糸の箱をひとつずつ開けて虫に食われたものを捨てた。銀の糸と、灰の糸と、夜の青の糸。母の色はほとんど無事だった。
四日目、扉の横に、小さな木の看板をかけた。
――喪章、刺します。お名前と、お好きだったものをひとつ。
最初の客は看板をかけて半日たったころに来た。
腰の曲がった、白髪のおばあさんだった。黒い肩掛けを羽織って、手に、くしゃくしゃになった黒い布を握りしめている。
「……ここ、ラヴァルさんの奥さまの店だった?」
「はい。わたしは娘のベルティーユです」
おばあさんはわたしの顔をしばらくじっと見た。それから、目を細めた。
「ああ、目もとがそっくりだ。あの人には、亭主の喪章を刺してもらったんだよ。もう十年も前さ」
おばあさんはルフェーブルと名乗った。坂の上で、ひとりで暮らしているという。
「今度は、孫のを頼みたいんだ」
おばあさんの手の中の黒い布が、小さくふるえていた。
「北の国境の戦で去年の秋にね。十九だった。……遺体は、帰ってこなかった」
わたしは作業台の前の椅子を引いて、おばあさんを座らせた。それから、ペンと紙を出した。
「お孫さんのお名前を教えてください。それから、好きだったものをひとつだけ」
おばあさんは少し考えた。
「ジャン。……好きだったのは凧だね。子どものころ、坂の上で日が暮れるまで揚げてた。大きくなってからも、春になると、近所のちびたちに作ってやってた」
わたしは紙に、ジャン、凧、と書いた。
三日後、喪章を渡した。
黒い布の端に、灰の糸でジャン、と刺した。その横に、夜の青の糸で小さな凧を一つ。凧の糸は銀で、布の端まで細く長く伸ばした。どこまでも、空へ揚がっていくように。
ルフェーブルさんは、喪章を手のひらに載せて、長いあいだ、黙って見ていた。
それから、凧の糸を指先でそっとなぞった。
「……あの子、これくらい高く揚げてたよ」
ルフェーブルさんの目から、涙がひとつ、喪章の上に落ちた。銀の糸の上で小さく光った。
「明るい色じゃなくてよかった。明るい色だったら、あたし、たぶん、泣けなかった」
わたしは何も言えなかった。
胸の奥で、何かが、ほどけていく音がした。
その夜、わたしは、工房の二階の小さな部屋に泊まった。
母が使っていた寝台は、埃を払っても、少しだけ黴の匂いがした。窓を開けると、坂の下の家々の灯りが、ぽつりぽつりと見えた。
伯爵家の娘が下町の工房で寝泊まりするなんて。ジルベール様が聞いたら、きっと笑うだろう。
でも、ルフェーブルさんの涙が、銀の糸の上で光ったのをわたしは見た。
寝台の上で、両手を開いて、指を見た。針を持ちすぎて、人差し指の先が、少しだけ固くなっている。母の指と、同じところだった。
――お母様。わたし、明日もここに来ていい?
返事はなかった。窓の外で、夜風が、看板をかたんと揺らしただけだった。
わたしは目を閉じた。婚約を解かれてから、初めて朝までぐっすり眠った。
ジルベール様が「辛気くさい」と言った刺繍でこの人は泣くことができた。
――お母様。
心の中で呼んだ。作業台の上の針が、窓からの光を受けて一本だけ細く光っていた。
店は静かに、でも途切れずに客が来た。
去年の秋、北の国境で隣国との戦があった。三月で終わった短い戦だったけれど、帰ってこなかった兵は、二百人を超えたと聞いた。そのほとんどが王都の下町や、近くの村の若者だった。
客はルフェーブルさんが、坂の上から下まで、触れて回ってくれたらしかった。
母親。妻。妹。祖父。
名前と、好きだったもの。
パン屋の息子は焼きたての丸いパン。鍛冶屋の弟は蹄鉄。読み書きを覚えたばかりの若い兵は、母親に初めて書いた手紙。ある娘は婚約者の喪章に、二人で摘んだ野苺をと言って、それから、やっぱり、名前だけでいいです、と言い直した。名前を刺し終えて渡すと、その娘は、喪章を胸に抱いて、声を殺して泣いた。
わたしは一枚刺すたびに、その人に会ったことがないのに、少しだけ、その人を知った。
ひと月がたったころ、その人が来た。
夕方だった。店を閉めようとして、看板を外しかけていたとき、坂の下から、馬の蹄の音がした。
店の前で止まったのは黒い大きな馬だった。降りてきたのは背の高い男の人だった。
灰色の、飾りのない外套。日に焼けた顔。黒い髪を短く刈って、右の頬から顎にかけて古い傷が一本走っている。年は三十を少し過ぎたくらい。
「……刺繍屋はここだろうか」
低い、静かな声だった。
「はい。ですが今日はもう」
「すまない。明日、出直す」
その人はすぐに背を向けかけた。それから、足を止めて振り返った。
「一つだけ訊きたい。喪章をまとめて頼むことはできるだろうか」
「まとめてですか」
「数が多い。一度にではなく、毎週一枚ずつでいい。何か月かかってもかまわない」
わたしは看板を抱えたまま、その人を見上げた。
「何枚、でしょうか」
その人はほんの少しだけ、言葉を探すように黙った。
「八十二枚」
わたしは息をのんだ。
八十二。
「……どなたの、喪章ですか」
その人は外套の内側から、折りたたんだ紙を一枚、取り出した。わたしに差し出した。
開くと、名前がびっしりと並んでいた。きちんとした、角ばった字。名前の横に、出身の村と、短い言葉が添えてある。
――パン屋の息子。笑うと目がなくなる。
――鍛冶屋の弟。歌がへたなのに、よく歌う。
――字を習いはじめたばかり。母への手紙を三度書き直していた。
見覚えがあった。ここひと月、わたしが刺してきた人たちだった。
「北の国境で私の指揮で死んだ者たちだ」
その人は静かに言った。
「ヴィンセント・ブランシャール。北の辺境伯をしている」
わたしは紙を握る手に力が入るのを感じた。
辺境伯。北の国境を王家に代わって守る家の当主。
「ひとりずつ、家族のもとへ、喪章を持って詫びに回っている。王都に来てから、どの家にも、同じ店の喪章があった。母親が妻が、それを腕に巻いて、私を迎えた」
ヴィンセント様は、わたしの抱えている看板を見た。
「明るい色ではないのに、見ていると、その者の顔が浮かぶ。……どこで刺してもらったのか、訊いた。皆、この坂の下だと」
ヴィンセント様は、わたしに向かって深く頭を下げた。
「まだ喪章の届いていない家が、八十二ある。どうか、刺してもらえないだろうか。代金はいくらでも払う」
わたしは紙の上の名前をもう一度見た。
八十二人。名前と、ひとつずつの言葉。
この人は全員の顔を覚えているのだ。
「……代金は、普通の喪章と同じで結構です」
わたしは看板をもう一度扉の横にかけ直した。
「それと、ひとつだけ、お願いがあります。毎週いらっしゃるとき、その方のことをもう少しだけ、聞かせてください。好きだったものをひとつ選ぶために」
それから、毎週、陽の日の夕方に、ヴィンセント様は来た。
黒い馬を店の前につないで、作業台の向かいの椅子に座る。わたしが紙とペンを出すと、その週の一人について、ぽつりぽつりと話す。
「北の村の出だ。弟が三人いた。冬に、雪で砦の屋根が落ちかけたとき、真っ先に梯子をのぼった」
「好きだったものはありますか」
「……林檎を袖でこすって食べる癖があった。皮が赤く光るまで何度も」
わたしは紙に林檎、と書いた。
ヴィンセント様は、話しながら、一度も言葉に詰まらなかった。声が揺れることもなかった。ただ、話し終えると、窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
何週かたったころ、わたしは、お茶を出すようになった。母がよく淹れていた、乾かした林檎の皮を少しだけ入れた紅茶。
ヴィンセント様は、最初の一杯を驚いたように見下ろした。
「……林檎の匂いがする」
「母の淹れ方です。悲しい話を聞く日にはこれにしていました。少しだけ甘くて、でも、甘すぎないように」
ヴィンセント様は、黙って杯を口に運んだ。
飲み終えて、杯を置いたとき、その手が、ほんの少しだけ、ふるえていた。
わたしは見なかったふりをした。
その夜、刺繍をしながら、わたしは何度も針を止めた。
八十二人の名前をひとりで抱えて歩いている人。家族に詫びるたびに、何を言われてきたのだろう。泣かれたか。罵られたか。それとも、黙って喪章を見せられたのか。
――あの人の喪章は誰が刺すのだろう。
ふと、そう思った。
思ってしまってから、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
店を開いて三か月がたった、冬の初め。
王都に、太后陛下が崩御されたという知らせが流れた。
国王陛下の母君。民にも慕われた、穏やかな方だった。喪の期間は四十日。そのあいだ、王宮に出入りする貴族はすべて、喪章をつけなければならない。
翌朝から、王都じゅうの仕立て屋と刺繍屋に、貴族の家の使いが殺到した。
うちの店にも来た。
夕方、坂の下に、立派な馬車が止まった。降りてきたのはジルベール様だった。
わたしは針を持ったまま、作業台の前で固まった。
ジルベール様は店の中を物珍しそうに見回した。それから、わたしを見つけて口の端を上げた。
「やあ、ベルティーユ。本当に、喪章の店なんか始めたんだね」
「……いらっしゃいませ」
「急ぎで頼みたい。太后陛下の喪章をうちの家の分、六枚。明後日の弔いの式に間に合わせてほしいんだ」
ジルベール様は作業台の上に、金貨の入った袋を置いた。じゃらりと、重い音がした。
「大通りの店は、どこも半月待ちだと言われてね。エマニュエルに頼んだら、三日で薔薇を刺してくれたんだが、父上に、太后陛下の喪に薔薇とは何事だと叱られて」
ジルベール様は少しだけ顔をしかめた。
「暗い刺繍なら、君の得意だろう?」
わたしは金貨の袋を見下ろした。
作業台の端には、刺しかけの喪章が積んであった。ルフェーブルさんの坂の上の、母親が三人。それから、ヴィンセント様の、今週の一枚。名前はまだ半分しか刺していない。
「……承ります」
わたしは言った。
ジルベール様の顔がぱっと明るくなった。
「助かるよ。さすがだ。では明後日の朝に」
「いいえ」
わたしは金貨の袋をそっとジルベール様のほうへ押し戻した。
「明後日にはお渡しできません。順番があります」
「順番?」
「この店では、先に頼まれた方から刺しています。今、北の国境で亡くなった方々の喪章が、八十枚近く、待っています。そのあとになります」
ジルベール様の顔から、笑みが消えた。
「待ってくれ。こちらは太后陛下の喪だぞ。下町の兵の喪章と、比べるものじゃないだろう」
「比べていません」
わたしはジルベール様をまっすぐに見た。
三か月前、膝の上で爪を手のひらに食いこませて、黙っていたわたしとはちがう声が出た。
「どちらも、誰かの大事な人の喪章です。だから、順番に刺します。太后陛下も、きっと、そうお望みになると思います」
「君は……」
ジルベール様が何か言い返そうとして口を開いた。
そのとき、扉の外で馬の鼻息が聞こえる。
扉が開いて、灰色の外套の背の高い人が、身をかがめて入ってきた。
今日は陽の日だった。
ヴィンセント様は、店の中のジルベール様を見て、それから、作業台の上の金貨の袋を見て静かに足を止めた。
「……取りこみ中だったか」
「いいえ」
わたしは首を横にふった。
「こちらの方は、お帰りになるところです」
ジルベール様がヴィンセント様を見上げた。灰色の飾りのない外套を上から下まで眺めて、それから、右頬の傷に目を止めた。
「誰だ、君は」
「ヴィンセント・ブランシャール」
ジルベール様の顔がさあっと青くなった。
北の辺境伯の名前を知らない貴族は王都にはいない。去年の戦で、隣国の大軍を三月で押し返した人の名前を。
ヴィンセント様は、ジルベール様に軽く会釈をして、それから、わたしのほうを向いた。
「ベルティーユ嬢。今週の一枚が仕上がったら、太后陛下の分を先に刺してくれてかまわない。私の分は待てる」
わたしは首を横にふった。
「閣下。それはだめです」
「なぜだ」
「閣下の八十二人は、もう一年、待ちました」
ヴィンセント様の目がわずかに見開かれた。
ジルベール様は口を半分あけたまま、わたしとヴィンセント様を見比べている。それから、金貨の袋をつかんで、何も言わずに店を出ていった。扉が乱暴な音を立てて閉まった。
坂の下で馬車が走り去る音がした。
店の中がしんと静かになった。
わたしは作業台の前の椅子にすとんと座りこんだ。
膝がふるえていた。手もふるえている。三か月前と同じように。でも、今日のふるえは、少しだけ、ちがう気がした。
「……大丈夫か」
ヴィンセント様が、作業台の向かいに座った。
「はい。……いいえ、少しだけ、こわかったです」
わたしは笑おうとしてうまく笑えなかった。
「婚約を解かれたとき、何も言い返せませんでした。暗い刺繍だと言われて黙って帰りました。今日、初めて言い返せました」
ヴィンセント様はしばらく黙っていた。
それから、わたしの手の上に、自分の手をそっと重ねた。大きくて、ごつごつしていて、指の付け根に剣だこが固くあった。
「よく言った」
短い言葉だった。
でも、その手の温かさが、ふるえを少しずつ止めていった。
太后陛下の弔いの式の前の晩、店の扉が叩かれた。
開けると、王宮の紋章をつけた侍従が立っている。後ろに、もう一人、黒い外套の小柄な老婦人がいた。
老婦人は店の中に入ると、作業台の上の、刺しかけの喪章を見下ろした。凧と、林檎と、丸いパンと、蹄鉄。
「……北の辺境伯から、話を聞きました」
老婦人は王妃陛下の侍女長だと名乗った。
「太后陛下は、生前、去年の戦で亡くなった兵の家族のことをずっと気にかけておられました。王宮から弔いの品を届けても、それは受け取ってもらえても、家族の顔が晴れることはない、と」
侍女長はわたしを見た。
「辺境伯が、この店の喪章を陛下にお見せしたのです。陛下はそれを手に取られて、長いあいだ黙っておられました。それから、こうおっしゃいました。母上の喪章はこの刺し手に頼みたい。ただし、兵たちの喪章が、すべて仕上がったあとでよい、と」
わたしは言葉が出なかった。
「太后陛下の喪章は、弔いの式には、王宮の針子が名前だけを刺したものを使います。陛下の分の一枚だけ、喪が明けるまでに、あなたに刺していただきたい。太后陛下のお好きだったものは、あとで、陛下ご自身がお話しにいらっしゃるそうです」
侍女長はそう言って深く頭を下げた。
扉が閉まってから、わたしは、作業台の前に立ちつくしている。
ルフェーブルさんが、坂の上から下まで触れて回ってくれた。ヴィンセント様が、八十二の家を回ってこの店の名前を聞いた。それが国王陛下のところまで届いた。
母が刺した、光らない糸の喪章が。
それからの二週間、工房は、目が回るほど忙しくなった。
王宮から話が伝わったのか、北の戦で家族を亡くした人たちが、遠くの村からも訪ねてくるようになった。坂の下に毎朝、列ができた。
わたし一人ではとても追いつかなかった。
三日目の朝、ルフェーブルさんが、坂の上の女たちを五人連れて工房に来た。
「名前はあんたが刺しな。あたしたちは布の端をかがって、裏を当てて仕上げをする。それくらいなら、昔とった杵柄さ」
五人とも、黒い肩掛けを羽織っていた。五人とも、去年の秋に、誰かを亡くした人たちだった。
工房の作業台のまわりに椅子が六つ並んだ。針の音が六つ重なった。ときどき、誰かが、刺している名前の人の話をした。パン屋の息子は子どものころ、坂でよく転んだ。鍛冶屋の弟は歌がへただったけれど、葬式の歌だけは誰よりもうまかった。
話しながら、泣く人もいた。笑う人もいた。泣きながら、笑う人もいた。
その週の陽の日、ヴィンセント様は、工房の扉を開けて、作業台を囲む六人の女たちを見て、しばらく戸口に立ちつくしている。
それから、黙って外套を脱いで、扉の脇の、空いていた古い椅子に座った。その日は仕上がった喪章を一枚ずつ、布の箱に詰める手伝いをしてくれた。大きな手で、一枚ずつ、ていねいに。
わたしは窓辺に置いた母の古い針箱の蓋をそっと撫でた。
八十二枚目の喪章を渡したのは春の初めだった。
その日、ヴィンセント様は、いつものように陽の日の夕方に来た。作業台の向かいに座って最後の一人について話した。
「私の弟だ」
わたしはペンを持った手を止めた。
「名はリュシアン。私より八つ下だった。副官をしていた」
ヴィンセント様の声は、いつもと同じように静かだった。
「好きだったものはと訊くのだろう。……あいつは何でも好きだった。剣も馬も酒も歌も。何でも楽しそうにやった。だから、ひとつに選べない」
ヴィンセント様は窓の外を見た。坂の下の家々の屋根に夕日が落ちている。
「だから、八十二枚目は名前だけでいい」
わたしは紙に、リュシアン、とだけ書いた。
ペンを置いた。それから、少しだけ迷って言った。
「閣下。八十二枚が仕上がったら、閣下の分は、どうなさるんですか」
「私の分?」
「弟さまの喪章を閣下ご自身が腕に巻く分です。今まで、どの家にも、喪章を届けてばかりで。閣下の腕には、一枚もありません」
ヴィンセント様が、ゆっくりとこちらを向いた。
灰色の目がわたしを見た。初めて会った日から、一度も揺れたことのない目が、ほんのわずかに揺れていた。
「……考えたことがなかった」
「では、もう一枚、刺させてください。閣下の腕の分を」
ヴィンセント様は何も言わなかった。
しばらくして短くうなずいた。
八十二枚目と、八十三枚目をわたしは同じ夜に刺した。
どちらにも名前だけ。灰の糸でリュシアン。
でも八十三枚目の端に、ほんの小さく、一針だけ、明るい糸を刺した。黄色い、菜の花の色の糸を一粒だけ。春になって、辺境の雪が解けたら、最初に咲く花の色。
光らないように撚り直した糸の中で、その一粒だけが、小さく光っていた。
「これは」
次の陽の日、八十三枚目の喪章を手のひらに載せて、ヴィンセント様は、黄色い一粒を見つめた。
「母が言っていました。悲しいときに明るい色を見ると、置いていかれた気がするって」
わたしは作業台の向かいに座ったまま、言った。
「でも、閣下はもう、八十二人の家を全部回りました。一年かけて。……そろそろ、ひとつだけ、明るい色があってもいいと思ったんです。ほんの少しだけ。閣下が置いていかれないように」
ヴィンセント様は喪章を握りしめた。
大きな手が白くなるほど強く。
それから、喪章を左腕に巻いた。灰色の外套の上に、黒い布と、灰の名前と、黄色の一粒。
「ベルティーユ」
初めて名前だけで呼ばれた。
「北の辺境には、まだ、喪章の届かない家がある。戦の前に、病や雪崩で亡くした者の家だ。私の領地の、山の奥の村々に」
ヴィンセント様は、まっすぐにわたしを見た。
「一緒に来てくれないだろうか。刺繍屋としてではなく。……私の妻として」
作業台の上で、母の針が、窓からの夕日を受けて光っていた。
胸が痛いくらいに鳴っている。
婚約を解かれたあの日、指のふるえが止まらなかった。三か月前、ジルベール様に言い返した日もふるえている。
今はふるえていなかった。
「……閣下の領地には、冬の枝が、たくさんありますか」
「ある。冬が長い。半年は雪だ」
「では、春を待つ枝の刺繍をたくさん刺せますね」
ヴィンセント様が、目を見開いた。
それから、右頬の傷が、ほんの少しだけ引きつれた。笑ったのだと、わたしは初めて知った。
「この店は、ルフェーブルさんに鍵を預けていきます。それから、春と秋に一度ずつ、王都に戻って、坂の上から下まで注文を聞いて回ります。それでもよろしいですか」
「かまわない。毎回、私が送り迎えをする」
「黒いお馬で?」
「黒い馬で」
わたしは立ち上がった。作業台を回って、ヴィンセント様の前に立った。
それから、外套の胸もとに、一枚のハンカチを差しこんだ。
紺の麻の布に銀の糸の、冬の枝。三つの芽。
半年前、ジルベール様の胸には似合わないと言って持ち帰ったハンカチ。
「これは、閣下の胸になら、似合うと思います」
ヴィンセント様は、胸のハンカチを見下ろした。それから、わたしの手を取って、その甲に、そっと額を押し当てた。
窓の外で、坂の上から、子どもたちの声がした。春の風に乗って、凧がひとつ、夕焼けの空へ、高く揚がっていくのが見えた。
(完)




