第七階位聖女、日本国の女子大生に転生いたしました。
朝の空気は冬の匂いがした。
冷たさに指先が少しだけ痺れるのに胸の奥は妙に軽く、息を吸うたびに新しいページがめくられるようなそんな感じがする。
私はアパートのドアを閉め、階段を降りる。
二階建ての少し古い建物は朝日を浴びて淡く光っていた。
通学路の途中に町に溶け込むように建つ小さな神社がある。その土地を守る土地神様がそこにいると聞いてからは私はそこに通りかかるたびに足を止めていた。鳥居の前に立ち、手を合わせてお辞儀をする。
(おはようございます。今日もよろしくお願いします)
誰に聞かせるでもなか心の中でお祈りする。こうして頭を下げると一日の輪郭がはっきりするような気がする。気休めだが。
境内の隅には古びたお稲荷さまが祀られている。そちらにもちらりと目をやってそっと一礼する。
友だちのなっこからこの前帰省の際にもらった、葉っぱの形をした可愛らしいお饅頭を供えようと思っていたのに、すっかり忘れてしまった。
(明日は忘れないようにしよう)
そんなことを考えながら階段を降りる。
大学までは歩いてニ十五分ほど。道すがら、学生たちがあくびをしながら自転車をこいでいく。冬の朝はみんな動作がゆっくりだ。
キャンパスに着き、講義室の席に座る。教授の声はいつもどおり穏やかで、眠気を誘う。
そんないつも通りの日常の中でふと後ろから微かな溜息が聞こえた。
みんな疲れているのかな、とぼんやり考えた。
大学生って、大変だ。
お疲れ様です、と心で唱えて後は振り返らなかった。知らない誰かの領域が人それぞれあって、容易に踏み込んではいけないとすでに学んでいたからだ。
ノートにペンを走らせながら、見ないふり。
今日も勉強にバイトにサークルに、みんなそれぞれ忙しい。
昼休み、学食の窓際に座るとなっこが勢いのある声で話しかけてきた。
「まり、聞いたあ〜?さよの今彼まじやばいらしいよ」
「え? なっこのゼミの後輩の?」
なっこが少し声を潜めて、ついでに顔も顰めて寄ってくる。
「そうそう。なんか激モラハラ男らしーよ」
「まじ?」
なっこの話はいつも突然で、でも嫌いじゃない。
こういうやりとりは生活の色を少し明るくしてくれる。内容そのものは全く明るくないが。他人事なので。
「ね、ね、まり〜。一緒に話聞きにいってあげてくれない? 私も行くから」
「もちろん。なっこが一緒ならいーよ」
「ありがと〜!持つべきものは友だち♪タピオカ奢る!」
「やった」
「なんか苺のやつの新作出てたはず!調べてみよ〜」
笑い合いながら、私は窓の外を流れる雲を眺めた。
ただの昼休みの風景。
ただの女子大生のよくある会話。
けれど、胸の奥にかすかに残ったざわつきが消えなかった。
違和感。
日によって強くなったり、ほとんど感じなかったりする、多分私だけの重み。
(私も疲れてるのかな)
そう思い込もうとすると、なぜか胸が少しきゅうっと苦しくなった。
夕方の空気は朝よりもさらに冷たくなっていた。
キャンパスから駅へ向かう人の流れの中、コートを寄せて、マフラーの端を口元に引っ張ってうずくまるように首を竦めた。
週に3回、講義が終わると私は近所のコンビニへ向かう。バイト先だ。今日のバイトは二十二時まで。
髪を括り、制服のエプロンを締めながら、バックルームの鏡に映る自分と目を合わせる。
「……よし」
バックヤードから店内に出ると、コーヒーメーカーがちょうど抽出を終えるところだった。
ほのかに広がる苦い香りが呼吸の奥にゆっくりとしみこんでいく。
お客さんも少なく、コーヒーの香りが淡く広がっていく。
レジにいた店長がぽつりと話しかけてくれる。
「もうすっかり寒くなったね。季節の変わり目は風邪が流行るから無理しないでね」
店長の声はいつも落ち着いていて、心配性で、どこか父親のようだった。私は笑って頷く。
「はい、ありがとうございます」
その会話をきっかけに季節を確認するようにふと空を見上げて頭が重くなる。
これは季節の変わり目のせいか、疲れか、偏頭痛か、それともーーーー深呼吸をひとつだけ落とした。
コンビニの照明の下、雑誌の表紙の色彩がやさしく浮かぶ時間帯が私は日常の中で結構好きだった。
雑誌コーナーの前にしゃがみ、乱れた配置を整え、新しく入荷した雑誌を棚に並べていく。
表紙には、冬を目前にしているからか淡い色のセーターを着たモデルの写真。暖色の照明が、その優しい色合いをさらに柔らかく見せていた。
(あ、かわいい…)
自分には似合わないだろうなと思っていても、こう目新しいものを眺めるのは好きだ。
棚を一段整理したところで、突然、胸の奥が重くなる。
痛いわけではない。
息苦しいわけでもない。
ただ、体のどこかに余ったものが沈んでいくような感覚。
(……まただ)
季節のせいだと、ずっと思っていた。
たまに襲ってくる、原因不明の息詰まり。
熱が上がるわけでも、咳が出るわけでもない。
けれど今日のそれは、いつもより少しだけ強かった。
私は慌てず、深呼吸をひとつ。
胸の中心にゆっくりと空気を入れるように息を吸い込み、長く吐き出す。
何とかすこしばかり軽くなった。
レジに戻ると、窓の外では夜の風がビルの影を揺らし、人通りは数えるほどになっていた。
「品出し終わった?ちょっと裏で事務仕事してるね」
「はい」
住宅街のコンビニは街のざわめきから切り離された島のようだ。
冷蔵ケースの低い唸りと、コーヒーマシンの滴る音だけが空間を満たしている。
二十時を回ると客足はさらに減った。
私はレジ台に立ち、窓越しに暗い通りを眺めていた。
人影は少ない。
街灯の下を通るたびに、影が伸び、歪み、また縮んでいく。
(……静か)
この時間が好きでもあり、嫌いでもある。
好きなところは忙しい時間が終わり、仕事も落ち着いて一息つけるから。満足感が溢れ出る。
嫌いなのは静か過ぎるところだ。なんだか、静寂は得体の知れない恐怖を思わせる。
ついつい癖のように何度も時計を確認する。
あと少しでバイトが終わる時間だ。
この妙な違和感が何事でもなく、終わればコンビニスイーツでも買って帰ろう。
そう思っていた。
——22時を過ぎて、夜間帯担当のバイトの人が来ないな?と思い、店長に声をかけに行こうとした所、街灯の光がコンビニのガラス窓に淡く映り、時折通る車のライトが床に一瞬だけ揺れる。
私はレジ横で一度シフト確認のためシフト表の入ったファイルを取り出し、しゃがむ。
その時だった。
胸の奥で、ふっと温度が変わった。
(……あ、これ)
さっきまで穏やかだった鼓動が、ゆっくりと速度を上げる。
体調が悪いわけでも、怖いことがあるわけでもない。
ただ、何かが近づいているとしか言いようのない第六感が働く感覚。
説明できない、微細な揺れ。
誰も知らない、自分だけの異常。
息を整えようとした瞬間——
扉のチャイムが、鋭く鳴った。
深夜の静けさを断ち切る、乾いた音だった。
入ってきた男は、フードを深くかぶり、視線が落ち着かない。
手はポケットに沈み、肩は不自然に強張っていた。
(嫌な気配)
胸のざわつきが、形を持ち始める。
それは恐怖ではなかった。
もっと別の説明のつかない圧迫感。
胸の内側で暴れようとする熱を、私は必死で押し戻す。
(だめだ、落ち着いて)
男は店内を見回し、まっすぐレジへ向かってくる。
私はレジ前に立ち、笑顔を作ろうとした。
「いらっし——」
「金を出せ」
言葉より先に、刃物の光が視界に入った。
蛍光灯の下で、鈍く、不吉に反射する。
時間が、水の中に落ちたようにゆっくりと動いた。
私は声を失った。
(本当にあるんだ、これ。ドッキリ、じゃないよね)
刃物がぐっと押し付けられてその考え方を否定する。
けれど、不思議と冷静だった。
怖いはずなのに、頭だけが妙に澄んでいく。
胸の奥で——熱が暴れている。
あれを、押し留められない。
逃げる?
叫ぶ?
抵抗する?
そのどれも、この人は許さないだろう。
刃物を向けられたまま、私はレジを開き、男に差し出された袋へ紙幣を入れ始めた。
手は震えてはいなかったが、呼吸だけがうまく吸えない。
(……だめ。溜まってる。もう限界)
胸の奥で、熱が脈打つ。
体の内側を満たす何かが、出口を求めて暴れる。
(使わなきゃ暴発する)
いや——分かっていた。
ずっと前から。
この溜め込んでいた違和感の原因が。
季節の変わり目のせいでも偏頭痛でも、疲れでも何でもないもの。
この世界の誰も知らない、自分のもう一つの正体。
男が焦れたように声を荒げる。
「早くしろ!!」
その瞬間だった。
熱が胸から喉へ、喉から指先へと流れ出す。
(やるしかない)
攻撃的な魔法は使いたくなかった。
誰かを傷つけることはしたくない。
この世界は、平和で、脆くて、優しい。
あと一番大事なのは、見られてる、ということだ。
だから——
誰も気付かれないように場を収めるための魔法を選ぶ。
私は袋に紙幣を落とすふりをしながら、そっと息を吐いた。
(ほんの少しだけ)
もうその動作は意識しなくても出来る癖のようなもの。
誰にも気づかれない、小さな作用だけを指先に流す。
空気が、わずかに揺れた。
男の足元に、目には見えない傾斜が生まれる。
重心をほんの少しだけ奪い、足裏の感覚を狂わせる。
そして——
男はすとん、と倒れた。
刃物が床で跳ね、カランと乾いた音を響かせる。
私はすぐにレジ横にあるSOSを知らせる非常ボタンを押した。これで警備の人が連絡をしてくれるし、そしたら店長が来てくれるだろう。
男は何が何だか分かっていなかったが、慌てて起き上がろうとした。その行動を起こされる前に私はレジから回り込み、刃物を遠くへ蹴飛ばすと、前のめりに倒れた男の手首を捻り上げて後ろへ導く。背中に体重をかけて押さえ込む。
「暴れないでください」
その声は震えていなかった。
むしろ、静かだった。
力ではなく、勢いだけをそぎ落とすように。
男はみるみるうちに抵抗を失い、ぐったりと沈んだ。
店長が慌てて出てきて私と場所を変わってくれる。
しきりに大丈夫!?怪我はない!?と確認してくれる。
外で、パトカーのサイレンが近づいてくる。
赤い光がガラス窓に揺れはじめた時、私はようやく胸の奥に散らばっていた熱が抜けていくのを感じた。
(……もう大丈夫)
その安堵とともに、静かに記憶の扉がきしむ。
考えないようにしていた名前が呼ばれるように浮かび上がる。
——アンヌマリー
押し殺していた前世の声が夜の静けさの中でそっと息を吹き返した。
サイレンの音が遠ざかっていき、職員用バックルームへ案内された私は簡単な事情聴取を受け、深く息を吐いた。
店長が心配そうに何度も声かけてくれてそのたびに私が「大丈夫です」と笑ってみせた。確かに体は無事だった。
けれど、胸の奥は魔法を使った後だからか静かに波打っていた。
あのとき、男の足元にほんの少しだけ触れた力。
人の勢いを抑えた力。
それらは全部、私は初めて使ったものじゃない。
忘れていたわけではない。
ただ、あまりに生活が平和で穏やかだったから、胸の奥に沈めていた記憶が、もう長いこと顔を出さないようにしていた。
アンヌマリー。
ナディア神聖国・第七階位聖女。
それが、あっちの世界でのかつての私だ。
生まれたのは国境近くの小さな孤児院。
血の繋がる家族は知らない。
けれど、孤児院の人々は優しく、私はその温かさの中で育った。七つの年、洗礼の儀と呼ばれる人生の一大イベント。それは子供たちが神前で初めてひとりの人として認められる、大切な日だった。
私はその儀の際に神聖力の保持者と判定された。光の素質だ、と神官たちは驚き、孤児院の院長は泣きながら喜んでくれた。
そこで私の道はそこで大きく変わった。
神聖力を持つ者は、聖女協会へ引き取られる。身分に関係なく、ただ力を持つ者として義務が生じる。孤児の私も例外ではなかった。
協会での生活は厳しかった。同年代の聖女候補たちは、皆貴族の娘が多い。幼い頃から魔術も礼儀も完璧に叩き込まれ、品位ある動きが自然に身についている。
一方で、私は読み書きもやっと。魔術理論の基礎も不十分。神聖術の回路も弱く、治癒力はかすり傷ひとつ、捻挫をひとつがその程度のものだった。
協会の目は厳しく、同年代の少女たちからは距離を置かれた。冷たく、孤独な生活が長く続いていた。
(でも、わたしはわたしのままでいい)
そう思っていた。
できないことは多かったが、諦めないことだけは得意だったから。
ナディア神聖国は聖母神ガラディアを信仰する国だ。豊穣と癒しの神であり、魔物から国を守る加護をもたらす存在。
しかし、加護は弱まり始め、魔物の出現は年々増えていた。国中が戦いと救護を生活の一部として受け入れていた。
だから聖女は職業として人気があり、名誉もあった。けれど、その裏側は苛烈なものだ。
治癒院での労働は長く、魔物と戦う兵士たちの傷は絶えず、死と隣り合わせの毎日。
私はその一端を担っていたが、私の力では多くの命を救うことはできなかった。けれど、だからこそ私は必死で誰にも気づかれないほど小さな魔法をいくつも磨いていた。
人の気を鎮める、水のように流れを整える、重心を少しだけ整える、そんな誰も注目しない術ばかり。
それでも役に立ちたかった。
せめて、目の前の誰か一人の苦痛を減らしたかっただけなのだ。
いつだったか国境付近で魔物の大規模暴走——スタンピードが発生した。
協会は救護班を派遣し、私は後方の治癒班として同行した。臨時テントに並ぶのは血と叫びと焦げた匂い。恐怖を押し殺す兵士たちの目は深い闇の色をしていた。
私は必死に手を動かした。
熱を下げ、傷を閉じ、痛みを和らげた。
(もっと……もっと何かできれば……)
その思いだけが、胸の奥で波打っていた。
そして夕刻。
戦場の向こう側から、異様な影が迫ってきた。
黒く、粘りつくような、形の定まらない魔物。
見たこともない種類だった。
退避指示が叫ばれたが、間に合わなかった。
影の触手のようなものが、私の胸に触れた瞬間——
体が、ひやりとして震えた。
痛みも苦しみもない。
ただ、温度がすうっと下がり、視界が白んだ。
(……ここまでだな)
怖くはなかった。
むしろ、どこか穏やかな気持ちだ。
最後に、誰かの役に立てていたならいい。
そう思った瞬間、世界は静かに途切れた。
そして目を開けたら、日本だった。
白すぎる天井と、見知らぬ言語。
電気の光。
清潔すぎる寝具。
誰も魔物を恐れず歩く街。
世界が変わっていた。
体の奥には何故か以前とは比べ物にならないほど濃い魔素が溢れていた。しかし、この世界には魔法が存在しない。
魔素を扱う器官を持つ人間もいない。
そのため私は中々魔法を使って魔素を消費することが出来なく、度々体調を崩すようになった。
小さな魔法だけ。
誰にも見えない、小さな祈りのようなものだけ使おう。
そうしているうちに、なっこの友だちの間で
「まりと一緒にいるとなんか体調が良くなる」と言われるようになり、どきっとしたがそれでお互いの調子が整うならと思って、些細なお祈りだけを繰り返していた。
しかし今日、強盗に刃物を向けられた瞬間。
胸の奥の魔素が暴れ、私は力を使わざるを得なかった。危機察知能力というやつだろうか。自分の身が危険に晒された時に強く、体の魔素が反応した。
(……結局、私は)
アンヌマリーとしての私を、ひとつも忘れていなかった。
前世の記憶が波のように引き、静けさが戻ると、私はロッカールームの簡易椅子に腰を下ろした。
深く息を吸い込むと、胸の奥に沈んでいた違和感がゆっくり形を持ち始める。
(……この世界は、本当に不思議)
目の前のロッカーも、蛍光灯も、薄青い床の模様も。そのすべてが普通の当たり前の日本だということを、私は知った。
魔法のない世界。だけど魔素は溢れている。
魔術書も、祈祷陣も、魔法行使機関もない。
人々は魔素を視ることも触れることもない。
ナディア神聖国の何倍も何十倍も濃い魔素が空気全体に飽和している。深呼吸をするだけで光の粒を吸い込むような感覚がある。
誰も気づいていないだけで、人々はこの豊かな魔素の中で生きているのだ。
ただ、ここの人間自身はその魔素を使う器官を持たない。魔素を循環させる魔導器官が発達していないのだ。
私だけが魔素を取り込み、抱えすぎているのか。
(もう少し使う頻度を増やさないとな、)
胸のざわつきの大体は魔素が体に滞留しすぎていたせいだ。魔法を使えば消費できるのは分かっている。
けれどこの世界では、魔法は異質で、異常だ。
日本という国には無数の神がいるという。
ナディア神聖国では唯一神——聖母神ガラディアだけを信仰していた。けれど、この国では人々はこう言う。
「八百万の神がいるくに」
行き場をなくした魂を抱く社。
水を司る龍神。
土地を守る精霊のようなもの。
森や山、台所にまで神様が宿るという。
だがそのどれもが穏やかで、人の生活にそっと寄り添っている気配があった。
ナディア神聖国ではほとんど扱えなかった神聖術の芯が世界に来てから確かに濃くなっている。
理由は分からない。
ひょっとしたら、八百万の神々が寄り添うこの土地は、ガラディア神の加護に似た優しい力を持っているのかもしれない。
だとしたら、この異国の神々は私が祈る声に耳を傾けてくれているのかもしれない。
胸の奥で、静かに光が灯る。
(この国はなんだかずっと優しい)
ただし問題はなくならない。
(……魔素を一気に放出しないとそろそろ危ないな)
強盗の一件で、沈めていた魔素が急激に動き、
いま体の奥でうずまいている。
暴発すれば、体調不良どころでは済まない。
意識を失い、最悪の場合は……。
私は額に指を当て、ゆっくりと息をついた。
(どう消費しよう)
どうすればいいのか。
どう使えば、誰も傷つけずに、誰かを助けられるのか。何をすれば私は救われるのか。
「そういえばさ、昨日のニュース見た? 女子大生が襲われたやつ」
「見た。けっこう近くだったね。怖いね」
器が置かれる音、ざわめく声、笑い声。
キャンパスは相変わらず平和で、それが少しだけ不思議に思えた。
昨夜の強盗の顔と、冷たい刃物と、赤いサイレンの光。それらが胸をよぎり、すぐに日常のざわめきに溶けこんでいく。
私は静かに息を吐き、箸を持ち直した。
この世界で、私は普通の大学生として生きている。
なっこの行動力は相変わらずで、あの話をした翌日の今日にはもう席が用意されていた。
放課後の光が柔らかく落ちる、某ハンバーガーショップの隅。ソファ席の布地は少し色あせているけれど、座るとほっとする柔らかさだった。
「急にすみません、まりさん」
向かいに座ったなっこの後輩、さよが紙コップを両手で包み込む。丁寧なネイルが施された爪が可愛い。
「急なのはなっこだから謝らないで。ていうかさよちゃん、会うの久しぶりだよね? 夏のBBQ以来?」
「あ、たぶん……あれ、あの時、誰がいましたっけ」
「私もあんまり覚えてない」
そんな他愛ない会話で、少しずつ空気がほどけていく。
けれど、本題はやはり重い。
「……手ちょっと借りるね?」
「手相、ですか?」
「うん。そんな感じの」
私は笑って答え、テーブルの上に置かれたさよの右手をそっと取った。
体温。脈。
指先の乾き方。
肩のこわばりが、そのまま手に流れ込んでいるようだった。
(……ああ、やっぱり)
目を閉じなくても分かる。
肌のすぐ下、見えないところに、濁った水のような気配が沈んでいた。
黒いもや。
弱い心にまとわりつき、少しずつ光を奪うもの。
ナディアでは瘴気と呼ばれていた。
この世界の人たちは魔素を扱えない。
だから、自分の中に溜まっていく重さに気づくことができない。
「勉強のほうはどう? 順調?」
何気ないふりをして尋ねると、さよはぱっと顔を上げた。
「順調です! 計画立てるの好きなので、履修もきっちり組んでて」
「え、なっこの後輩とは思えない」
「ちょっとそれはなんか風評被害です!!」
なっこが抗議の声を上げ、三人で笑う。
その笑い声に紛れるように、私は指先で手のひらの線をたどった。
なぞる動作に合わせて、流れを整える。
滞っていたものを、少しずつほどいていく。
(軽くなって)
(ここから先は、自分で歩けるように)
願いを、形にしないまま呼吸に紛らせる。
もやは少しずつ薄くなり、心の奥へ押し込められていたものが表面から離れていく。
さよの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「……大丈夫」
そのまま流れるように会話を続け、学校のこと、友だちのこと、最近ハマってるもの、彼氏のこと、当たり障りないキャッチボールを交わす。
やがて、話がひと段落したところでさよは深く頭を下げた。
「今日はありがとうございました。なんかちょっと、楽になりました」
そう言って笑う顔は最初に会ったときよりもずっと柔らかかった。
彼女が店を出て行くのを見送りながら私は胸の奥でそっと息を吐く。
「まり、本当にありがとう」
隣でなっこが言った。
「なっこって、ほんと友達思いだよね」
「急にそういうこと言わないで。照れる」
なっこは冗談めかして笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ、本当にすごいと思う。まりの占い。元気になるっていうか……自己肯定感戻る感じ? なんか、ほんとに魔法みたい」
「そんなことないって」
私は首を振る。
でも、胸の奥で魔素が静かに輪を描いた。
(魔法みたい、か)
それでいいとも思う。
この世界で魔法そのものとして見られる必要はない。占いでも、カウンセラーでも、気休めでも。
誰かが少しだけ呼吸しやすくなるなら、それで足りる。
(さよちゃんは大丈夫そうだけど、あとはあの彼氏が殺されずに終わるといいけど、)
吹っ切れたのか物騒なことを言っていたさよの姿を思い出して少し矛盾した願いに、自分で苦笑する。
それでも私はどちらも祈らずにはいられなかった。
「まり、デザートに新しくできたクレープ屋さん寄って帰ろ!」
なっこの声が弾んだ。
外に出るとキンと冷え込んだ冬の空気が頬を撫でる。街の光は眩しく、賑やかな声がかすかに遠くから響く。
ナディア神聖国では階級も身分も常に自分を縛っていた。平民の聖女は、決して高みに立てない。ずっと比べられ、測られ、選別される。
でも、この国では、
名前を呼ばれ、同じ目線で笑い合うことができる。
(なんて生きやすい)
無数の神々が見守り、
魔法が存在しないのに豊かで、
人が穏やかに暮らしている国。
私は静かに思う。
私は聖女としてこの国と共に生きていきたい。
ガラディア神様はもういないかもしれない。
でも、八百万の神々がいる。
祈りは、きっと届く。
商店街を抜けると、甘い匂いが夜気に混じった。
新しくできたクレープ屋は、まだ明かりが温かく灯っていて、店内には学生らしい女の子たちが楽しそうに写真を撮っている。
「ねぇねぇ、まりは何にする? いちご系? それともアイス乗ってるやつ?」
なっこがメニューを覗き込みながら、子どものように悩んでいる。私はその姿が可愛くてふっと笑った。
「うーん、アイスは寒いからやめた方がいいんじゃない?」
「えー!クレープにはアイスでしょ!」
店の外には、夜の街の音が薄く流れていた。
笑い声、電車の遠い音、どこかの店の戸締まりの鈴の音。
私はふと、胸に手を当てた。
前世から持ち越した魔素のざわりはまだある。
けれど、危うく暴れる感じではなく、
ゆっくりと落ち着くように沈んでいる。
この世界の空気が、
八百万の神々の気配が、
あるいは——
この国で出会った人たちが、
私の祈りを受け止めてくれているのかもしれない。
(日常ってこんなに優しいものだったっけ)
ナディア神聖国ではつい一年前まで、私は常に誰かの役に立たなければと肩に力を入れて生きていた。孤児出身の聖女として、比較され、測られ、役目を求められ。それでも自分なりに頑張るしかなくて。いつか大きな力を持てる日がくればと思いながら、結局、誰も救えないまま終わった。
だからだろうか——
いま、こうして笑っている日々が
胸の奥からじんわりと満ちている。
神々に祈りを捧げること。
誰かの痛みを小さくでも減らすこと。
悪意の影をそっと払うこと。
言葉にならない願いを拾いあげること。
それらは全部、私が前世で聖女の形として大切にしてきたものだ。
この国では魔法は異質かもしれない。
でも——祈りそのものは、きっとどこでも同じだ。
「まり? どうしたの? メニュー見ないの?決まった?」
なっこが顔を覗き込んだ。
私は首を振り、ゆっくりと笑う。
「ううん。ね、なっこ」
「ん?」
「なっこが二個選んでいいよ。半分こしよ」
「えっ!いいの!?まりだーいすき!」
「私もなっこだーいすきだよ」
夜の街灯が揺れ、クレープ屋の明かりが、ほんのり金色に周囲を照らす。
甘い匂い。
柔らかい灯り。
友達の笑い声。
そして、息を吸うだけで胸に広がる、見えない力。
——私は、この国で生きていく。
聖女として。アンヌマリーとして。
そして、まりとして。
この国を支える人々の祈りに寄り添い、
自分の小さな力をこの国のために使っていこう。
大げさな使命ではない。
誰か一人の心を軽くできるなら、それでいい。
甘い匂いの中で、私はそっと目を閉じた。
女子大生で、占い師で、元・第七階位聖女。
ちょっとだけ魔素過多気味の私の、NEW聖女ライフは――今日も静かに満喫中だ。
なんか小学生の時は自分だけが魔法を使えてそれを隠してるみたいな設定で水溜りとかに魔法を唱えていたこととか思い出して恥ずかしくなりました。




