第91話:静寂の高度、決戦前夜
風が止んでいた。
グラシア山脈・上部斜面。
さきほどまで荒れていた空気は嘘のように澄み、
雪と岩の境界線に、張りつめた静寂が横たわっている。
誰も、すぐには口を開かなかった。
アランは槍を地面に突き立て、深く息を吐く。
白銀の穂先は、いつもより鈍い光を宿していた。
(……反応が薄い)
さっきまで感じていた“導き”が、
ここではまるで眠っているかのようだ。
リリアが周囲を見渡しながら、静かに言った。
「……この上ね」
「魔力の流れ、完全に“一点集中”してる」
ダリオは地図を広げ、指で尾根をなぞる。
「山頂直下だな」
「地脈の交差点……いや、集積点だ」
レオンハルトが杖を肩に立て、低く息をつく。
「さっきまでのは……」
「前座にしては、出来すぎてた」
誰も否定しなかった。
この山は、まだ本気を見せていない。
小隊は、岩陰に簡易陣を敷いた。
火は焚かない。
魔力も、最低限しか流さない。
ここから上は――
“気づかれた時点で始まる”。
リリアが魔道具を分解しながら、ぽつりと言う。
「山岳異変の特徴、はっきりしてきたわ」
「魔法を拒絶するんじゃない」
「受け取らないのよ」
「受け取らない?」
レオンハルトが眉をひそめる。
「ええ」
「だから、外から完成した術式を叩き込むと弾かれる」
「でも……」
視線が、アランの槍に向く。
「内部に触れる“媒介”なら、話は別」
ダリオが低く唸る。
「つまり……」
「この山は、“魔導士の戦場”じゃない」
「うん」
リリアは頷いた。
「直接触れる者の戦場よ」
アランは何も言わなかった。
ただ、槍を握り直す。
(……役目は、はっきりしてる)
だが同時に、
胸の奥に、かすかな不安が残っていた。
(ここまで“静か”なのは……)
準備は淡々と進んだ。
・リリアはテンペスト・フィールドの維持時間短縮版を再構築
・ダリオは雷魔法を拡散ではなく“偏向”用に調整
・レオンハルトは攻撃術式を捨て、地形固定と退路確保に専念
そして――
全員が、無意識にアランを見る。
「……俺は、いつも通りだよ」
そう言って、苦笑する。
「行けって言われたら、行く」
「止めろって言われたら、止まる」
リリアが少しだけ、笑った。
「それが一番、怖いのよ」
「この山にとってはね」
風が、わずかに吹いた。
その瞬間――
白銀の槍が、かすかに鳴った。
キィン、と。
金属でも、魔力でもない音。
アランの視線が、山頂方向へ向く。
(……呼んでる)
だが、急かしてはいない。
まるで――
“準備は終わったか”と、確かめるように。
ダリオが立ち上がる。
「行くぞ」
誰も返事をしなかった。
代わりに、それぞれが武器を取り、魔力を整える。
静寂は、まだ破れない。
だがその奥で――
山そのものが、目を覚まし始めていた。




