第22話:灰哭の森・第一層 霧の侵入者
灰哭の森――それは帝都の北端、黒い断崖の向こうに広がる古代林。
陽光すら届かない濃霧の森で、幾世代もの貴族が“中級試練”の舞台として挑み、
多くが帰らなかった場所だ。
中庭の石畳の先には、転移陣が静かに光を帯びている。
これを通じて、森の外縁部へと直接送り込まれる仕組みだ。
マリエッタが最後に一言だけ告げる。
「霧に惑わされたら終わりよ。――気をつけなさい、アラン」
アランは無言で頷き、光の陣へと足を踏み入れた。
眩い光に包まれ、足元がふっと消える。
次の瞬間、肺の奥まで染み込むような湿った空気が押し寄せ、
灰色の濃霧が視界をすべて覆い尽くした。
――中級ダンジョン《灰哭の森》・第一層。
(……来たな。ここが次の舞台――)
アランは槍を握り直し、霧の中に一歩を踏み出す。
湿った落ち葉を踏むたびに、ぬめるような音が足元で響く。
「“森”は環境そのものが敵になります」
出発前夜、セルジオの忠告がよみがえる。
「霧、瘴気、幻惑……それらが体力と魔力を奪っていくのです」
(つまり――戦う前に、環境で削られるってことか)
背筋を冷たい汗が伝う。
周囲は静まり返り、聞こえるのは風と心臓の鼓動だけ。
だが次の瞬間――。
「グルルル……」
霧の奥から低い唸り声が響いた。
複数。距離は近い。
灰色の影が、霧の中から浮かび上がる。
狼だ。だが、以前ダンジョンで遭遇した灰狼とは違う。
その体毛はさらに黒ずみ、瞳が不気味な蒼光を放っている。
(……グレイウルフの亜種か)
数は五。群れで行動し、互いに距離を保ちながら包囲してくる。
その連携の正確さに、アランの喉が鳴った。
「くっ……!」
一体が前方から飛びかかる。
反射的に後退しながら詠唱を重ねた。
「――《ミラージュ》!」
瞬間、霧の中に三人のアランが広がった。
幻影は音も立てずに散開し、狼たちを惑わせる。
二体が左へ、もう二体が右へ跳び、牙を空振りさせた。
(いいぞ……今のうちに!)
しかし、亜種たちはすぐに動きを変えた。
鼻先を地に近づけ、匂いで本物を嗅ぎ分けている。
霧の中で鋭く光る蒼眼が、アランを正確に捉えた。
「――速いっ!」
避けきれず、肩をかすめる爪撃。ローブの布が裂け、痛みが走る。
反撃を試みるも、霧が濃くて間合いを見誤る。
(この霧……光を乱反射させてる。なら――!)
アランは素早く手をかざし、魔力を練り上げた。
淡い光が掌から広がり、薄膜のように体を包み込む。
「――《ライトヴェイル》!」
光の幕が揺らめいた。
周囲の霧がじわじわと押しのけられ、視界が広がっていく。
淡い輝きが視界をわずかに確保し、狼たちの動きが見えた。
「これで……見える!」
一歩踏み込み、幻影と共に動く。
《ミラージュ》で作った残像が狼たちを再び混乱させ、
アランはその隙を突いて一体の側面へ。
槍を構え、刃先に魔力を流し込む。
「――《ルーメン》!」
瞬間、槍身が眩く光を帯びる。
閃光が灰色の霧を切り裂き、突き出された穂先が狼の喉元を貫いた。
「ガゥッ!」
獣の悲鳴が霧の中に消える。
光の余韻を残して引き抜くと、焦げた血が蒸気となって立ち上る。
霧が熱で揺らぎ、濁った視界が一瞬だけ開けた。
すぐに背後からもう一体が襲いかかる。
アランは槍を回転させ、残った光を弧のように振り抜いた。
その一閃が、まるで光の鞭のように狼の動きを断ち切る。
灰色の霧の中、二体の獣が静かに崩れ落ちた。
残りの群れは一瞬怯み、霧の中へと消えていく。
アランは肩で息をしながら、光幕を解除した。
(……《ライトヴェイル》、悪くない。
霧を押しのけて、視界を広げるのに使える。
でも、消耗が大きい……長時間は無理だな)
手の甲に浮かぶ魔力紋が淡く光る。
その脈動は、まるで次の戦いを予告しているかのようだった。
「――行くか。まだ“第一層”だ」
アランは霧の奥を見据え、再び歩き出した。
足音が湿った土を踏みしめるたびに、
遠くで何かがこちらを見ている気配がした。
灰色の森の奥――そこにはまだ、
誰も知らぬ“哭き声”が潜んでいる。




