第112話:律に近づく者 人に引き戻す手
応用課程での評価戦以降、
アランの名は確実に広がっていた。
だが、リリアの胸に残る感情は、
誇らしさよりも――不安だった。
彼は強くなった。
確かに成長した。
それは疑いようがない。
しかし同時に、
日を追うごとに、アランの表情が削ぎ落とされていくように見えた。
怒りも、焦りも、戸惑いもない。
あるのはただ、「最適解」を選び続ける視線。
(光魔法の力を証明する。それはわかるわ……)
(でも……)
リリアは、胸の奥で言葉を探す。
(律に触れているうちに
まるでアラン自身が――律になっていくみたい……)
その違和感が、形になる前に。
アランのもとを、訪ねる者があった。
応用課程の寮。
夕暮れが差し込む部屋で、アランはある人物と会っていた。
「アラン様……お久しぶりです」
低く、穏やかな声。
「セルジオ……」
執事のセルジオが、そこに立っていた。
背筋を伸ばし、変わらぬ所作で一礼する。
「ご当主様が、アラン様のご活躍に大変ご興味を持たれております。
詳しい報告をするよう命じられ、参りました」
「そうか……」
返事は淡々としていた。
セルジオは、その温度の低さに、ほんのわずか眉を動かす。
アランは山脈での出来事も含めて、
今までの経緯を語った。
核主。
律。
破壊ではなく、定義。
セルジオは、遮らずに聞き続ける。
「……そのような状況になっていたのですね」
「ああ。俺は、なすべきことをなした。
それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、
セルジオは静かに息を吐いた。
しばらくの沈黙の後、
彼は懐から一本の小瓶を取り出す。
「ぼっちゃま、こちらをお飲みください」
透明な瓶。
中身は、見覚えのある色。
「……魔力ポーションか」
「はい。初期のダンジョン攻略で、
ぼっちゃまがよく使われていたものです」
アランは即座に首を振る。
「セルジオ、そんなものは必要ない。
今の俺に、補助は要らない」
「お願いいたします」
セルジオの声が、少しだけ低くなった。
「一口で構いません。
どうか、お願いいたします」
そして――
深く、頭を下げた。
アランは、わずかに目を見開く。
「……わかった」
瓶を受け取り、口に含む。
次の瞬間。
(ま、不味い!?
なんだこの味は……これは……)
強烈な苦味とともに、
記憶が、奔流のように押し寄せた。
薄暗いダンジョン。
汗。
恐怖。
剣を握る手の震え。
初めて魔獣に向き合った夜。
魔力切れで膝をついた通路。
光魔法が役に立たず、歯を食いしばった時間。
「……っ」
胸が、痛む。
「セルジオ……これは……」
アランが言葉を失っている間に、
セルジオが静かに口を開いた。
「私には……ぼっちゃまが、
少しずつ“律”に近づいておられるように見えました」
「正しさを選び、
迷いを切り捨て、
感情を不要な誤差として処理していく」
「それは確かに、強さでしょう。
ですが――」
セルジオは、まっすぐにアランを見る。
「ぼっちゃまは、律ではありません」
「恐れ、怒り、悔しさを知っていた少年が、
いつの間にか、“最適解そのもの”になろうとしている」
「それが……私には、少し怖かったのです」
アランの手が、震えた。
槍ではない。
魔力でもない。
人としての、震えだった。
「……俺は」
声が、かすれる。
「俺は、間違えたくなかった。
誰も壊さず、誰も犠牲にせず、正しく在りたかった」
「だから……」
セルジオは、静かに言った。
「だからこそ、思い出してください。
間違えながら進んできた自分を」
「痛みを感じ、怒り、悔しがり、それでも進んだ――
そのアラン様を」
ポーションの苦味が、まだ舌に残っている。
だがそれは、
確かに“生きている”味だった。
アランは、深く息を吸った。
「……ありがとう、セルジオ」
視線を上げる。
そこには、
少しだけ、戸惑いと熱を取り戻した目があった。
「俺は……律に触れる。
でも、律にはならない」
「選ぶのは、俺だ」
セルジオは、静かに微笑んだ。
「はい。
それでこそ、私の知る――ぼっちゃまです」
完全ではない。
だが、確かに。
アラン・ルクレディアは、
まだ“人”として、そこに立っていた。




