第104話:律の対話 名を持つ者へ
門を越えた瞬間、
視界は──完全に、白へ溶けた。
地も、空も、境もない。
ただ、自分の呼吸だけが響く。
(ここが──“核”)
音が生まれる。
風でも水でもない。
──“声”。
『名を与えた者よ』
アランは立ち止まる。
光導槍は静かに揺らぎ、手に馴染む。
「……山核主」
呼ぶと、空間が震えた。
揺れは否定ではない。
“応え”だった。
輪郭が──現れる。
山脈を思わせる巨体。
谷のような瞳。
降り積もる雪のような皮膚。
しかし、そこには──もう畏怖はなかった。
(涙を落とし、門を開いた)
(つまり──ここは、“対話の場”)
巨体はゆっくりと、頭を垂れる。
『名を与えた者よ。
問いに答えよ』
声は、世界そのもの。
問いは──ひとつ。
『なぜ、お前は“在りたい”』
アランは息を吐き、答える。
「……誰かに認められるため、じゃない」
胸に手を置いた。
「俺が──俺自身を、認めたいからだ」
「壊すためだけの槍じゃない。
導かれるだけの存在でもない」
「“選ぶ”ために、俺は生きたい」
巨体の瞳が揺れた。
その揺れは──恐怖ではなく、
“理解”だった。
『ならば。
お前は他者に──何を残す』
アランは光導槍を見た。
山核の涙を受け入れた槍は、
静かで──あたたかい。
「名を残す」
「壊された存在にも。
忘れられたものにも。
生まれたばかりの律にも」
「“名前”という、つながりを」
アランは槍を握り──静かに地へ突き立てた。
刃は貫かない。
破壊の音も生まれない。
ただ──“触れた”。
(壊さない)
(奪わない)
(定める)
その瞬間。
世界が光った。
白は、雪の白へ。
大地は、岩の色へ。
風は、山を撫でる音へ。
世界が──帰っていく。
──生まれ変わるのではなく。
──本来の姿を、思い出すかのように。
巨体が音もなく崩れ、
雪となって舞い上がる。
その雪の粒一つ一つが、
声なく告げていた。
『名を持つ者よ。
我は──初律』
それは──“真名”。
山核主が自ら選び、
アランへ返した名。
アランは頷いた。
「覚えているよ」
「忘れない」
その瞬間。
世界が完全に──閉じた。
グラシア山脈・山頂。
雪がふわりと舞い、
裂け目が静かに閉じる。
アランがゆっくりと立ち上がった。
リリアが駆け寄り、目を潤ませた。
「……アラン!」
「大丈夫だ」
短い言葉だが──確かな声。
光導槍は静かに腰へ収まる。
導かれもしない。
拒まれもしない。
ただ──共に在る。
ダリオが空を見上げた。
「……止まったな。異変が」
レオンハルトは言葉を選ぶように呟く。
「いや──収まったんだ」
風が、山肌を撫でる。
雪が、ひとひらだけアランの手に落ちる。
それは。
“初律”の──別れの挨拶。
アランは空を見上げ、ただ一つ、心に刻む。
(名は、残る)
(在ることを願った証として)
次の旅は、まだ始まっていない。
だが、アランの歩みにはもう迷いがなかった。
“誰かに導かれる”のではなく。
“自分が選ぶ”ための道を──
確かに、踏み出せる自分がいた。
そして風が、静かに告げた。
──おかえり。




