第103話:核の涙 触れられぬ痛み
裂け目の先は、洞窟ではなかった。
“空洞”。
広さはなく、壁も天井も存在しない──ただ、淡い光の粒が漂うだけの空間。
そして中央に。
小さな“滴”が浮かんでいた。
水滴ではない。
魔力でもない。
それは──感情の結晶。
(……これが)
(山核の……涙)
近づくほど、胸に刺さる感覚が強くなる。
恐怖。
孤独。
拒絶。
そして──喪失。
(壊されたことがある)
(奪われたことがある)
アランは唇を結ぶ。
光導槍は震えない。
戦う意思を示さない。
──それは、“まだ触れる資格がない”ということ。
(触れたい)
(でも、この涙は……拒んでる)
涙へ伸ばした手は、寸前で止まる。
“触れる”という行為が、
“奪う”ことと同義になってしまうなら──
それは、この存在の歴史を再現してしまう。
(なら──どうすれば)
胸の中に、言葉が浮かんだ。
《名とは、関係の証》
99話で灯った、山核の教え。
(名前を──)
アランは涙を見つめ、そっと膝をついた。
「……俺は、お前に触れたい」
「でも、奪うんじゃない」
「関わりたいんだ」
淡い光が揺れる。
涙は応えない。
けれど、拒絶もしない。
アランは目を閉じた。
そして──静かに告げる。
「“初律”」
名を。
奪うためではなく。
縛るためでもなく。
“在りたい”と願う存在へ、
人が与える最初の贈り物。
「お前に名前が必要なら──」
「俺は、そう呼ぶ」
沈黙。
ひと呼吸。
そして。
涙が──落ちた。
溶けたわけではない。
砕けたわけでもない。
ただ、“役割を終えたように”静かに下へ降りていく。
それは祈りのようで。
承認のようで。
そしてそれは地へ触れ──
──世界が鳴った。
ドンッッ!!!
外界。
山全体が──脈動。
リリアが振り返り、震えた声を漏らす。
「……来る」
レオンハルトが杖を構える。
「山核が──決断しようとしている」
ダリオの目が細くなる。
「アランが……何かを“完了させた”」
その脈動は、一度。
だが、次の瞬間。
世界が──色を変え始めた。
空は血のように赤く、
山肌は黒く染まり、
風は悲鳴のように泣き叫ぶ。
リリアが息を呑む。
「これは──“拒絶”じゃない」
「“変質”……!」
ダリオが低く言う。
「核が──次の段階に移行している」
「つまり」
レオンハルトが呟いた。
「……アランが、今──一人きりで核の根と対峙してる」
外界の三人が武器を構える。
だが、この異変は──彼らには届かない。
届くのはただ一人。
内界。
アラン。
光導槍が、淡く光った。
(……初律)
名を与えた存在が、静かに応える。
――“ふれて”
アランは息を飲む。
(……今なら)
(奪わずに……触れられる)
震える指先が、光の滴──その残滓へそっと触れた。
瞬間。
“門”が現れる。
白銀の円環。
律が織りなす境界。
その奥は──
まだ視えない。
ただひとつだけ、確かに理解できた。
(次は──)
(この山そのものの意思と、向き合う)
アランは立ち上がる。
光導槍が、肩で呼吸するように淡く脈動する。
「行く」
歩みは、迷わない。
恐怖も消えない。
けれど。
――在りたいと願う心が、それを上回った。
アランは、門へ手を伸ばした。
“核心”が──呼んでいる。




