失恋カフェオレと君の瞳に映るわたし。
ばっさりと切った髪が、まだ首筋に馴染まない。
シャンプーの量も、ドライヤーをかける時間も、昨日までの半分以下。
まるで自分だけ時間の進み方が変わってしまったみたいだ。
鏡に映るショートカットの私は、少しだけ見知らぬ誰かのようで、それが今の私にはちょうどよかった。
「似合ってるじゃん、その髪。なんかあった?」
部室のドアを開けるなり、親友の愛海が目ざとく見つけて声をかけてきた。こういう時、女子の勘は鋭い。
「んー、気分転換? 夏だし、すっきりしたくて」
口角を上げてみせるけれど、きっとぎこちない笑顔になっているだろう。
私は相沢美桜、高校二年生、演劇部所属。
胸に秘めた、もう何年ものか分からない片想いに、自分で終止符を打つために、昨日、長かった髪を切ったのだ。
「ふぅん…」
愛海はそれ以上何も聞かず、私の肩をポンと叩いた。その優しさが少しだけ胸に沁みる。
◇
私たちは、もうすぐ秋の文化祭で上演する劇の台本を読み合わせていた。
私が演じるのは、主人公に想いを寄せながらも、その恋が叶わないと知りつつ、明るく彼を支え続ける友人役。今の私には、少し、いや、かなり皮肉な役回りだった。
部活が終わり、スマートフォンの通知が光る。
メッセージの送り主は、私の心を長年占拠し続けている張本人、橋口大貴。
『ごめん、今日部活長引いてる。先にカフェで待ってて』
たったそれだけの短い文章に、私の心臓は律儀にトクンと跳ねる。もう期待するのはやめようと、髪と一緒に誓ったばかりなのに。
大貴は私の幼馴染。家が隣同士で、物心ついた時からいつも一緒だった。
彼はバスケ部のキャプテンで、ポジションはポイントガード。コートを駆ける彼は、誰よりも輝いて見える。その姿を追いかけるのが、いつからか私の日常になっていた。
約束の場所は、駅前の『カフェ・ド・ルミエール』。
私たちのいつもの場所。
少し古びたレンガ造りの外観と、木の温もりを感じる店内がお気に入り。窓際の、通りがよく見える席。それが私たちの指定席。
「カフェオレを一つ」
いつものメニューを注文し、席に着く。甘くてほろ苦いカフェオレは、大貴を待つ時間の私の定番。
大貴はいつもブラックコーヒー。正反対のようで、なぜか隣にいるとしっくりきた。
窓の外を眺めながら、大貴の姿を探す。
バスケ部の練習着姿で、少し汗ばんだ髪をかき上げながら歩いてくるのが見える。そこまでは、いつもと同じ光景。
でも、今日は違った。彼の隣には、知らない女の子がいた。
ふわふわとした明るい髪に、大きな瞳。私とは対照的な、太陽みたいな笑顔を大貴に向けている。
二人は楽しそうに何かを話していて、その距離は友達というには、あまりにも近すぎた。
心臓が嫌な音を立てる。
カフェオレの甘い香りが、急に鼻についた。
やがて、カラン、とドアベルが鳴り、二人が入ってくる。大貴は私を見つけると、少しだけ気まずそうに、でも嬉しそうに手を振った。
「ごめん、美桜。待たせた」
「ううん、私も今来たとこだから」
嘘だ。もう三十分も待っている。冷めかけたカフェオレのカップを、指先で弄ぶ。
「紹介するよ。同じクラスの、高橋さん」
「はじめまして、高橋結衣です」
結衣と名乗った彼女は、人懐っこい笑顔で私に頭を下げた。可愛い、と素直に思う。
大貴がおもむろに口を開くまで、ほんの数秒。その数秒が、永遠のように感じられた。
「えっと…俺たち、付き合うことになったんだ」
世界から、音が消えた。
大貴の言葉が、耳の中で何度も反響する。
付き合う。誰が?
大貴と、この、知らない女の子が?
「そ、そうなんだ…おめでとう」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
笑顔を作れているだろうか。祝福の表情を浮かべられているだろうか。
「美桜には、一番に報告したくてさ」
悪気のない大貴の言葉が、ナイフのように突き刺さる。
一番に、なんて。
そんな残酷な一番は知りたくなかった。
これが、失恋の味。
ずっと想像の中で恐れていた、苦くて、冷たくて、どうしようもなく切ない味。
味わいたくなかった。
カフェオレに溶け残った砂糖みたいに、心の底にずっしりと沈んでいく。
結衣さんが、「これからよろしくね、美桜ちゃん」と笑いかける。
その笑顔は、私には向けられるはずのなかった、知らない笑顔。大貴が、今まで誰にも見せたことのない優しい顔で、彼女を見つめている。
もう、ここには私の居場所はない。
「ご、ごめん。私、今日これから用事があったの思い出した!」
我ながら下手くそな嘘をついて、私は席を立った。
伝票を掴んでレジへ向かう背中に、大貴の「え、美桜?」という戸惑った声が聞こえたけれど、振り返ることはできなかった。
店の外に出ると、夕方の生ぬるい風が頬を撫た。涙が溢れてくるのを、奥歯を噛みしめて必死にこらえる。
ぽっかりと、心に穴が空いてしまった。
大貴を待っていた時間。大貴の試合を応援に行くはずだった週末。これから先、その時間を、私はどうすればいいんだろう。何をしたらいいんだろう。
家までの帰り道が、ひどく遠く感じられた。
◇
大貴に彼女ができてから、一週間が過ぎた。
私の生活から、大貴という存在が綺麗に抜け落ちた。
朝、一緒に登校することはなくなり、放課後、カフェで落ち合うこともなくなった。ぽっかりと空いてしまった時間は、思った以上に大きくて、私はその空白をどう埋めればいいのか分からずにいた。
何をしたらいいんだろう。手持ち無沙汰にスマートフォンの画面をスクロールしても、目に飛び込んでくるのは友人たちの楽しそうな日常ばかり。
大貴と結衣さんのツーショット写真に「いいね!」が押されているのを見つけて、そっとアプリを閉じた。
ふと、部屋の隅にある古いアルバムが目に入る。
小学生の頃の、夏祭りの写真。浴衣姿の私と、甚平を着た大貴が、綿あめを手に笑っている。
『美桜はすごい女優さんになって、俺はプロのバスケ選手になるんだ。そんで、お互いの最初のファンになるの!』
幼い頃に交わした、他愛のない約束。二人の夢。
大貴は、まだ覚えているかな。ううん、もう彼女ができたんだから、覚えているはずないか。
アルバムを閉じて、大きくため息をつく。
感傷に浸っている場合じゃない。明日は演劇部の通し稽古だ。台詞を頭に叩き込まないと。
翌日の放課後、演劇部の部室は本番さながらの熱気に包まれていた。
私は自分の役、つまり「報われない恋をする ヒロインの親友」になりきろうと集中する。
でも、どうしても大貴の顔がちらついて、台詞に感情が乗らない。
「はい、カット! 美桜、どうした? 今日、全然集中できてないぞ」
部長の厳しい声が飛ぶ。
すみません、と頭を下げる私に、部員たちの視線が集まる。気まずくて、顔を上げられない。
休憩時間、私は一人、部室の隅で膝を抱えていた。台本を開いても、文字が頭に入ってこない。
なんて情けないんだろう。失恋くらいで、大好きな演劇まで疎かにしてしまうなんて。
「難しい顔してる」
不意に、すぐそばから声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは黒瀬湊先輩だった。
湊先輩は、演劇部の先輩で、高校三年生。歳は私と一つしか変わらないのに、どこか大人びていて、いつも物静かに本を読んでいるイメージだ。
役者ではなく、主に舞台演出や脚本を手掛けていて、部内では少しミステリアスな存在。
私も、挨拶を交わす程度の、大切な友達、というよりは「大切な部員仲間」の一人、くらいの認識だった。
「湊先輩…」
「相沢、髪、切ったんだな。似合ってる」
ぽつり、と彼が言った。予想外の言葉に、私は目を瞬かせる。
「あ、ありがとうございます」
大貴に彼女ができたことを知っているはずもない先輩からの、純粋な褒め言葉。それが、ささくれだった心にじんわりと染み渡った。
「…何か、あったのか」
先輩は、私の隣にそっと腰を下ろした。
普段、あまり人と深く関わろうとしない彼からの問いかけに、少し驚く。
「別に、何も…」
「そうか」
彼はそれ以上追求せず、ただ黙って隣に座っていた。
その沈黙が、不思議と心地よかった。
誰かに話を聞いてほしいわけじゃない。でも、一人でいるのは寂しい。そんな今の私に、彼の存在はちょうどいい距離感だった。
しばらくして、彼が口を開いた。
「さっきのシーン、感情が乗ってないって言われてたけど」
「はい…すみません」
「いや。俺は、そうは思わなかった」
え、と顔を上げると、湊先輩の真剣な眼差しとぶつかった。
吸い込まれそうな、黒い瞳。
「感情を無理に乗せようとして、空回りしてる感じはした。でも、根底にある悲しみみたいなものは、ちゃんと伝わってきた。だから、もっと役に寄り添うんじゃなくて、役を自分に引き寄せればいい」
先輩の言葉は、まるで私の心の中を見透かしているかのようだった。
「役を、自分に…?」
「そう。お前が演じているあの子は、ただの明るい子じゃない。悲しみを隠して、無理に笑っている。その一点だけでいい。そこだけを突き詰めれば、相沢にしかできないキャラクターになる」
今まで、誰にもそんなことを言われたことはなかった。
演出家の先生にも、部長にも。
私の演技を、こんなに深く見てくれている人がいたなんて。
休憩終了のホイッスルが鳴る。
先輩は「じゃあ」と短く告げて、立ち上がってしまった。
その日の稽古は、嘘みたいに上手くいった。
湊先輩のアドバイスを胸に、私は役を生きた。
悲しみを抱えながらも、愛する人のために笑顔を作る女の子。それは、奇しくも今の私自身だったから。
稽古が終わった後、私は湊先輩を探した。
お礼を言いたかった。でも、彼はいつの間にか姿を消していた。
帰り道、一人で歩く夜道。いつもなら大貴とふざけ合いながら帰る道。胸の痛みはまだ消えないけれど、今日は少しだけ、足取りが軽かった。
◇
それからというもの、私は部活中に湊先輩の姿を目で追うようになっていた。
彼が演出の指示を出す横顔や、脚本を修正する真剣な表情。
時々、ふと彼と目が合うことがあった。そのたびに、私は慌てて視線を逸らしてしまう。
きっとそれは気のせい。私が意識しているから、そう感じるだけだ。そう思い込もうとしていた矢先のことだった。
文化祭の演劇で使う大道具を作っていた放課後、私は慣れない手つきでノコギリを使っていた。案の定、まっすぐ切ることができず、木材は見るも無残な有様に。
「あー、もう! なんで上手くいかないの!」
思わず声を上げると、背後からすっと手が伸びてきて、私の手の上からノコギリを握った。
「貸してみろ。こうやって、力を入れすぎずに、引くときに切るイメージで」
耳元で響く、低い声。湊先輩だった。
彼の大きな手が、私の手をすっぽりと包み込んでいる。背中から伝わる彼の体温に、心臓が大きく跳ねた。
「せ、先輩…」
「ん?」
彼は私の動揺に気づく様子もなく、淡々と作業を進めていく。
ギコギコと小気味よい音を立てて、木材は面白いようにまっすぐに切れていった。
「すごい…」
「慣れだ」
彼はそう言って、ぱっと手を離した。
触れられていた場所に、彼の熱がじんわりと残っている。
なんだろう、この感覚。
大貴に触れられた時のドキドキとは違う。
もっと、安心するような、温かいもの。
「あの、先輩。この間はありがとうございました。おかげで、なんだか役を掴めた気がします」
「…別に。俺は思ったことを言っただけだ」
ぶっきらぼうな返事。でも、その横顔が少しだけ和らいだように見えたのは、気のせいだろうか。
「先輩って、いつもみんなのこと、よく見てますよね」
「…そうか?」
「はい。私の演技のことも、私が気づかないようなことまで気づいてくれて…」
私の言葉に、彼は少しだけ間を置いてから、ぽつりと呟いた。
「お前のことは、ずっと見てたから」
時が、止まった。
え、今、なんて?
「…ずっと、見てた?」
聞き返すと、彼は少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「勘違いするな。恋愛的な意味じゃない」
「…はい」
「相沢の演技には、何か惹きつけるものがある。技術的にはまだまだだが、人の心を動かす何かを、お前は持ってる。だから、つい目で追ってしまうだけだ」
知らなかった。私のことを、そんな風に見てくれている人がいたなんて。
大貴は、私の演劇を一度も真剣に見てくれたことはなかった。「頑張れよ」とは言ってくれるけれど、感想をくれたことは一度もない。
私の世界の中心は大貴だったけれど、大貴の世界の中に、私の演劇は存在していなかった。
でも、この人は違う。湊先輩は、私が一番見てほしかった部分を、ずっと見てくれていた人だったんだ。
「…ありがとうございます」
やっとのことで絞り出した声は、少し震えていた。嬉しい、という単純な感情だけではない。もっと複雑で、温かい何かが胸の奥から込み上げてくる。
「それに…」と、先輩が言葉を続ける。
「髪、切ってからの方が、お前の目の強さが際立って見える。今の役にも合ってると思う」
それは、私が失恋の痛みから逃れるためにした選択だった。大貴への未練を断ち切るための、儀式だった。
でも、湊先輩の言葉は、その行為に全く違う意味を与えてくれた。まるで、この役を演じるために、この髪型にしたみたいに。
先輩の言葉を通して、私は「見たことのない自分」に出会っていく。ただの、大貴の幼馴染じゃない。一人の役者としての、相沢美桜。先輩は、それを私に教えてくれる。
この人と一緒にいると、感じたことのない感覚になる。
どうして胸のあたりが、こんなにぽかぽかするんだろう。
その日の帰り道、偶然バスケ部の練習を終えた大貴と鉢合わせた。隣には、もちろん結衣さんがいる。
「よお、美桜。今帰りか?」
大貴は、以前と変わらない笑顔を向けてくる。以前なら、その笑顔だけで胸が締め付けられるように苦しくなったはずなのに。
「うん。大貴も、お疲れ様」
不思議なくらい、穏やかな気持ちで言葉を返せた。
胸が、苦しくない。大貴を見ても、涙が出そうにならない。隣で幸せそうに笑う二人を見ても、ただ「お似合いだな」と、心の底から思えた。
私の変化に、私自身が一番驚いていた。
◇
「このシーンの二人の距離感、もっと近づけられないか?」
演出担当の湊先輩の声が、稽古場に響く。
私と、主人公役の男子とのクライマックスシーン。想いが通じ合う、大切な場面だ。
「でも、これ以上近づくと…」
戸惑う私に、先輩は「ちょっと失礼」と言って、私の腕を掴んで相手役の男子の方へぐっと引き寄せた。
「これくらい。観客が息を呑むくらい、ギリギリまで近づいて。でも、触れない。その緊張感が欲しい」
触れられた腕が、熱い。
先輩の指の感触が、そこに刻み込まれるみたいに、じんわりと温かい。
稽古が終わった後も、その熱はなかなか消えてくれなかった。
触れたい。
そう思ってしまった自分に、心底驚いた。
相手は、湊先輩だ。今まで、そんな目で見たことなんて一度もなかったのに。
この気持ちは、変なのかな。
大貴への恋が終わったばかりなのに、また誰かに惹かれている。そんな自分が、少しだけ軽薄なように思えてしまう。
でも、湊先輩のことを考えると胸が温かくなるこの感覚を、嘘だとは思えなかった。
あなたのことが、知りたい。
ミステリアスな先輩が、普段どんなことを考えて、何が好きで、どんな音楽を聴くのか。演劇以外の彼は、どんな顔をするんだろう。尽きない興味が、泉のように湧き上がってくる。
もう、苦しい恋はしたくない。
大貴への想いは、いつも一方通行で、切なくて、自分の気持ちを持て余してばかりいた。
あなたがいなくなるのはいやだ。
もし、湊先輩が突然転校してしまったり、演劇部を辞めてしまったら? そう考えただけで、胸がぎゅっと痛む。
いつの間にか、私の中で彼の存在は、こんなにも大きくなっていた。
文化祭公演を三日後に控えた、最後の通し稽古。
私が演じるヒロインの親友は、ついに自分の想いを主人公に打ち明ける。そして、彼の幸せを願って、彼の背中を押すのだ。
一番の見せ場であり、一番感情を込めるのが難しいシーン。
私は、役になりきった。
目の前にいるのは、主人公じゃない。大貴だ。ずっと好きだった、大貴。
「…ずっと、好きでした」
台詞が、自然と口からこぼれ落ちる。涙が、頬を伝う。
「でも、あなたの隣にいるべきなのは、私じゃない。あなたが本当に好きな人のところへ行って」
言いながら、私は客席の端で稽古を見守る湊先輩と、目が合った。
彼は、じっと私を見ていた。
その瞳は、いつものように静かで、でも、その奥に宿る光は、今まで見たことがないくらい強くて、美しかった。まるで、私の心の奥まで全てを見透かされているような、そんな不思議な感覚に陥る。
その瞳が美しすぎて、私は一瞬、息をするのも忘れた。
カット、の声がかかっても、しばらく動けなかった。湊先輩から、目が離せない。
稽古が終わり、部員たちが片付けを始める中、私は先輩の元へ向かった。
「先輩。さっきのシーン、どうでしたか…?」
「…ああ。すごく、良かった」
彼は少しだけ視線を彷徨わせてから、そう言った。
「お前だから、できる演技だ」
「…ありがとうございます」
もっと、話したい。もっと、そばにいたい。離れたくない。
気づけば、私の手は彼のTシャツの裾を、そっと掴んでいた。
「…相沢?」
驚いたような先輩の声。私、何してるんだろう。でも、指が離れない。
「先輩…」
見上げた彼の顔が、すぐそこにある。
彼の匂いがする。心臓が、早鐘を打っている。
そっと触れてほしい。
さっき稽古中に触れられた腕みたいに。私のからだの隅々まで、あなたの熱を感じたい。
「先輩のこと、もっと知りたいです」
それは、紛れもない私の本心だった。
「いっぱい触って、あなたを感じさせて」
衝動的に口から出た言葉に、自分でもハッとする。違う、これは役者としての欲求じゃない。一人の女の子としての、どうしようもない願いだ。
先輩は、何も言わずに、ただ驚いたように私を見つめている。その瞳が、気まずそうに揺れた。
しまった、と思った。
引かれてしまったかもしれない。
怖くなって、掴んでいた手を離そうとした、その時――。その手を、上から優しく握られた。
「…俺も、お前のことが知りたい」
静かだけど、はっきりとした声。
「ずっと、知りたいと思ってた」
握られた手から、彼の体温が伝わってくる。じんわりと、私の心の隙間を埋めていくように。
そしてわたしはあなたに恋をした。
失恋の苦い味を知った、あのカフェオレの日から、ほんの数週間。
ぽっかりと空いていたはずの私の心は、いつの間にか、この温かい熱で満たされていた。
◇
文化祭当日。
廊下は行き交う生徒たちの熱気でむせ返り、あちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。
でも、私の心は不思議なくらい穏やかだった。
隣には、湊先輩がいる。
ただそれだけで、世界がいつもより少しだけ輝いて見えた。
開演前の舞台袖。極度の緊張で、指先が冷たくなっていく。
「大丈夫か?」
隣にいた湊先輩が、そっと私の手に触れた。ひんやりとした私の手を、彼の温かい手が包み込む。
「先輩の手、あったかい…」
「お前の手が冷たすぎるんだろ」
ぶっきらぼうな口調は相変わらずだけど、その声はどこまでも優しい。
「相沢なら、できる。お前が舞台の上で息をするだけで、それが最高の演技になる」
それは、彼がずっと私に言い続けてくれた言葉。
最高の、おまじない。
「はい」
頷くと、彼は私の手をぎゅっと握りしめ、そして名残惜しそうに離した。
幕が上がる。
スポットライトの眩しさに、一瞬目が眩む。
でも、すぐに客席の闇に目が慣れていく。私はもう、相沢美桜じゃない。物語の中の、彼女だ。
物語は順調に進んでいく。私は、恋に破れながらも、愛する人の幸せを願う女の子として、舞台の上で生きていた。
客席から、時折鼻をすする音が聞こえる。私の想いが、ちゃんと届いている。
そして、クライマックス。私が想いを告白するシーン。
目の前にいるのは、主人公役の彼。
でも、私の瞳は、舞台袖でじっと私を見つめる、ただ一人の人だけを捉えていた。
「…好きです」
それは、台詞だった。
でも、私の心からの、本当の言葉だった。
「あなたのことが、どうしようもなく好きです」
涙が、溢れて止まらない。
これは、役の涙? それとも、私の涙?
もう、どっちでもよかった。
「だから、幸せになって。私のことなんか忘れて、あなたの本当に大切な人のところへ行って」
言い終えた瞬間、客席から、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
緞帳が下りる。
鳴りやまない拍手の中、私は呆然と立ち尽くしていた。共演者たちが駆け寄ってきて、肩を叩き、成功を喜び合う。
でも、私の目は、一人の人物を探していた。
――いた。
舞台袖の、一番隅の暗がりに、湊先輩が立っていた。
彼は、拍手もせず、ただじっと私を見ていた。その瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、きっと照明のせいだ。
私は、吸い寄せられるように彼の方へ歩いていった。
「先輩…」
「…ああ」
「どうでしたか、私の、演技」
「…最高だった」
彼は、それだけ言うと、ふいと顔を背けてしまった。その照れたような仕草が、たまらなく愛おしい。
「先輩」
私は、もう一度彼を呼んだ。
そして、この数週間、ずっと胸の中にあった想いを、ありったけの勇気を振り絞って、言葉にした。
「わたし、先輩が好きです」
それは、舞台の上での告白よりも、ずっとずっと緊張する、本当の告白。
彼は、ゆっくりと私の方へ向き直った。その真剣な眼差しに、心臓が大きく脈打つ。
「…知ってる」
え、と私が固まる間に、彼は一歩、私に近づいた。
「俺も、お前が好きだ。髪を切る、ずっと前から」
信じられない言葉に、私はただ、彼の顔を見つめることしかできない。
「お前が、あの幼馴染の男のことばっかり見てるのは知ってた。だから、言うつもりはなかった。ただ、お前の役者としての才能が、あいつのせいで潰されるのだけは我慢ならなかった」
だから、ずっと見ていてくれたんだ。だから、アドバイスをくれたんだ。私の知らないところで、彼は私を支えてくれていた。
「でも、もう我慢できない」
彼はそう言うと、私の腕を引いて、強く抱きしめた。彼の胸の中に、すっぽりと収まる。彼の心臓の音が、私の耳に直接響いてくる。――トクン、トクン、と。
それは、私と同じくらい、早く、強く、鳴っていた。
「俺だけのものに、なってほしい」
耳元で囁かれた、甘い声。
私は、彼の胸に顔を埋めて、こくこくと頷いた。
鳴りやまない拍手と、舞台の熱気が、遠くに感じられる。今、この世界には、私と先輩の二人だけしかいないみたいだ。
失恋の味は、苦くて冷たかった。
ぽっかりと空いた時間は、どうしようもなく寂しかった。
でも、その全てがあったから、私は今、ここにいる。彼の腕の中にいる。
顔を上げると、至近距離に彼の顔があった。その美しい瞳に、涙で濡れた私が映っている。
そして、彼の唇が、そっと私の唇に重なった。
それは、甘くて、温かくて、今まで味わったことのない、幸せな味がした。
失恋から始まった、私の新しい恋。
カフェオレみたいに、ほろ苦くて、でも、どうしようもなく甘い恋。
わたしは、あなたに恋をした。この温かい腕の中で、今、確かに。
お読みいただき、ありがとうございました。